日記

日々のあれこれ
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京都タワー、昭和の面影

2009年06月30日 | 旅行
初めてここへ上がったのは、1965年の秋だった。高校二年生の私は、一人で旅行ができない祖母(70歳くらい?)を叔母の家へ連れて行き、私は京都国立博物館のツタンカーメン展を見て、最後にここでみんなで落ち合うという約束になっていた。

私、高校の制服。祖母、和服。叔母はたぶん洋服。二歳半の従妹は白いセーターに赤い別珍のジャンバースカート、白いタイツ、そんな格好だった。

展望食堂で何か食べて、それからみんなで屋上の子供用の乗り物で遊んだと思う。そのときの写真が実家にあったように記憶している。
元々祖母は行く予定ではなかった。私が一人で行くつもりだったが、どうしても連れて行って欲しいと頼まれたのである。

祖母は毎年十二月になると叔母の家に出かけ、一月近く滞在、お正月前に叔母の里帰りと一緒に帰ってくることになっていたが、それでも行きたいという。

なんで…と当時は不思議だったけど、特に気にも留めてなかった。でも今になれば分かる。娘と孫に会いたかったんだなあと。

新幹線はまだ大阪まで。四国から上洛するには連絡船、宇野からは大阪までの急行に乗り、そこから快速で。その急行の中で向かい合わせた中年男性が、私達の行き先を聞き、乗り換えるのなら元町(三宮だったかもしれない)の方が、ホームが向かい合わせだからいいと親切に教えてくれたんだった。昔の急行は向かい合わせて座るので、長い道中、どうしても話をしてしまう。そんな感じでしたね。

昔は旅行も大変。だからこそ、身内に会うことの嬉しさを今の人よりはずっと感じていたのではないだろうか。修学旅行に親戚の人の面会なんてのもありましたね。何それ?って、今の子供には分からないと思う。

2006年の三月、息子の大学の卒業式に上洛。帰りに39年ぶりに京都タワー上がってみた。懐かしき昭和の面影があちこちに。
祖母はこのあとも80過ぎるまで、よく京都へ出かけていた。京都大学に近い叔母の家は親戚の人を下宿させていた時期もあって、京都まで同行してもらったり、連れて帰ってもらったりしていたのではないだろうか。

私も中学生くらいまでは、叔母の家から京都大学へ通うのかなあと思っていた。あわてて弁解しますけど、勉強が特別出来てたわけではなくて、田舎の子供は他に大学を知らなかったからですが。高校生になって現実が分かるようになるとそんな大望というか、妄想は捨てましたけど。

京都タワーは出来た当時はずいぶん景観論争が起こったけれど、東寺の五重塔と並んで、古都のランドマークになっていると思う。いずれ老朽化して、撤去されるかもしれないけど、なくなれば私個人としてはちょっと寂しいかも。
町家でほっこり癒される京都観光より、私はレトロな昭和を残すこの眺めが好きだから。
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イノシシに遭遇!!!!

2009年06月29日 | 広島案内
なるだけロングの写真にしましたが、こういうのが苦手な方、ごめんなさい。

昨日、夫はオーディオサークルの例会、私はそろそろ夏山歩きのトレーニングと思って近場のみくまり(水分)峡へ。
暑いので、滝では子供たちが水遊びをしていた。
子供が小さい頃、もっと遊びにつれてくればよかったと後悔。そのころは忙しくて、なかなか遊べなくて、ごめんね、息子達。

林道と登山道があちこちで交差して分かりにくいので、一人だし道に迷って疲れるのも嫌なので林道ばかりを行く。でも最後は砂防ダムになって山道へ。しばらく上るがきりがないので引き返す。

途中まで帰ると、数台の車が止まり、10人くらいが橋の下の谷川を見下ろしている。その先には、ぬあんと撃たれたイノシシが血抜きの最中。

野生動物はとても迫力がある。脚立を出してくれたので川底へ下りて写真を撮り、イノシシの牙や毛に触ってみる。かわいそうに。運が悪かったねと心の中で手を合わせ、また写真をバチバチと。今度生まれてきたら、山の中でひっそりと生活するんだよ。

みくまりの駐車場の下にスーパー銭湯あり。露天風呂にすのこのベッドがあり、しばしうとうとするうち、バスに乗り遅れた。でもバスを待つ手持ち無沙汰の時間もいいなあと。昔は誰でもこうしてよく電車バスを長々と待っていたものです。

帰り、天神川付近では大渋滞。そうそう今日は中日戦があったんだった。
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祇園祭の日に

2009年06月28日 | 旅行
たまたま祇園祭の日に京都へ行った。26歳くらいだった。親戚のうちに一晩泊めてもらい、翌日はまた婚家に帰る。新幹線は岡山以西はまだ未開通。とても時間がかかった。

駅からは、バスに乗る気になれなくてタクシーに乗った。雨の後、四条通りは、山鉾巡行の熱気がまだ残っていた。タクシーの運転手さんが、さっき拾ったんだけど、と鉾の上からまくチマキをくれた。

持っていると、無病息災、一年間はいいことがあるという。たぶん私の様子を見て元気づけてくれたのだろう。
お礼を言ってチマキをバッグにしまい、人の気持ちがしみじみとありがたかった。

今でも京都へ行くと、同じ形のチマキを玄関の上に飾っている家がある。それを見ると、進むことにも退くことにも窮した、あの暑い京都の夏を思い出している。
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シャラノキあれこれ

2009年06月26日 | 暮らし
昨日は広島空港横の三景園に行った。この数年、夏になると私は無性に木陰を歩きたくなる。草を踏みたくなる。緑に飢えて、体が乾ききった感じで、郊外へ行きたくてたまらない。先祖返り?

アジサイ祭りをしていると聞いて、リムジンバスで空港まで。私以外は飛行機に乗るらしい乗客ばかり。
空港で下りて、園内を周り、ついでに外側の中央森林公園も歩く。とても広いので全部は回れない。

帰りに渡されたパンフレットを見ると、一月の花ツバキとしてシャラノキ=ナツツバキの写真があった。えーーー、なんでえとびっくり。県の出すパンフレットにこんな単純なミスがあるなんて。引き返して受付のスタッフに「これツバキと違いますよ。ナツツバキ、シャラノキとも言って今頃咲く花ですよ。ホラッ」と自分のデジカメの画像を見せる。中年女性のスタッフはアルバイトらしく、面倒な事を言う人だなあという対応。

お客さんも来たので、訂正したパンフレットを渡し、「直された方がいいですよ」と言って帰ってきた。直すかな?うまく伝わったかな?
黙っとけばいいようなものだけど、私はこういうことを見逃すのがとても気持ち悪いタイプ。行けませんねえ。性格悪いかも。

広島県史にも原爆のあと戒厳令が出たなんて書いてます。執筆者に違うのではと連絡しましたが、なしのつぶてです。素人だから相手にしてもらえないのかな。ちょいと悔しい。広島だけで、独自に出す戒厳令?…そんなもの、ありえんだろ。学者として真実の前には謙虚であって欲しいものです。

以前近所の広島市郷土資料館のパンフレットにも、中国東北部でたまねぎの収穫をする日本軍兵士なんて説明がありました。玉蜀黍をたまねぎと読んだらしい。投書のはがきを出したら、学芸員の方がわざわざ自宅までお詫びに来られて、「訂正する前の古いものを渡してしまった」と新しいものを貰ったことがある。

たくさんの人が読むものは間違いのないようお願いしたいものです。

写真はシャラノキ=ナツツバキですが、ツバキとはあまり似ていないと私は思います。いつの頃からか紗羅双樹という名前も付いているようですが、釈迦入滅のときに枯れたという伝説の花はインドではインドボダイジュをさすらしいです。



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嵯峨野…隠棲への憧れ

2009年06月24日 | 旅行
写真は祇王寺。クリックで全画面表示。

先日の京都旅行では、デジカメのバッテリーを家に忘れるという大失態。慌てて使い捨てカメラを買ったけど、殆ど写真が撮れてない。残念。

また行きたいなあという思い捨てがたく、来月また出かけることにした。例年なら車を運転して山へ行くけれど、信州方面は渋滞必至、諦めてJRで京都まで。京都周辺の山へ行く予定だが、暑いだろうなあ。

で、隠棲である。17歳のころ、将来の夢と聞かれて「隠遁したい」と言っていたことがある。まだ人生が始まってもいない子供、全く何も分かっていなかったんである。お恥ずかしい。

年明け、クラスの男の子から年賀状を貰い、「今年はそんな気持ちにならないと願っている」なんて書かれていた。本当に恥ずかしかった。それは一過性のもの、たぶん勉強したくないとか、友達が少ないとか、ありふれた不満。

嵯峨野は藤原定家が隠棲し、小倉百人一首を編んだところ。野宮神社は源氏物語にも少し出てくる場所。祇王寺へ行くと、祇王、祇女、母親の刀自、仏御前のほかに清盛の木造もあって、どれも真っ黒にすすけていた。長い間、拝まれていたのだろう。嵯峨野では史実とフィクションが渾然と溶け合い、もののあわれをこれでもかと畳み掛けてくる。そんな感じ。昔の人の気配がそこかしこに残っている場所
ここに住めば、おのずと来し方行く末を考えようというものである。

近くには瀬戸内寂聴さんの家もある。移って来た当時は静かなところだったのだろう。寂庵付近のようすは新潮文庫「私の京都 小説の旅」の中の「洛西・あだし野」に詳しい。

17歳から40年以上が過ぎた。家を離れ、人並みに結婚をし、人並みに子供に恵まれ、子供を育て上げ、今また、都会を離れて自然の中で過ごしたいなと思う。配偶者のいる身では今のところ実現は難しいけれど。
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あだし野念仏寺

2009年06月22日 | 旅行
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嵯峨野の奥にある。JR嵯峨嵐山からは歩いて20分くらい。念仏寺への道は、両側は昔風の建物が並び、風情ある風景になっている。

平安京造営当時は、今の千本通りが朱雀大路、都の中心だった。西半分の低湿地はやがて人も住まない寂しい場所になり、さらに街外れ、この付近は古来から埋葬の地だったとか。千本通りにしても卒塔婆が千本(=数え切れないほどたくさん)立っていたという説もあるくらい。

弘法大師が開基と伝わる寺は、法然の念仏道場になり、以来浄土宗となった。有名なこの石仏の並ぶ光景は、明治中期、そこいらへんに散乱していた無縁墓を集めたものでけっこう新しいものである。

私が思うに、このころからこの付近も農地の開発が進み、掘り出した石仏を寺に持っていくうちに増えたのでは。

それにしても凄まじい眺めである。石仏一体、無縁墓一基ごとに確かに生きていた人の証。有縁の者が存命中は死者を弔っていたであろうが、その限りにおいては石もまた命あるもの。無縁になってからの長い時間、風化してやがて元の石へと戻るまでは、未だかすかに魂が宿っているようにも見える。

じっと眺めていると、低い念仏の声が地面を低く這うように流れているように錯覚する。その声は、人の命の短かさを嘆き、永遠に変わらないものに思いを託ているように聞こえる。。。。。変わらないもの。たぶん雲の流れとか、季節の巡りとか、人が人を思う気持ちのなつかしさとか。

石仏の中を歩いていると、冥界への入り口がどこかに隠されているような気がして、心が波立つ。目に見えない手に絡め取られるような軽い恐怖。

一回りして外へ出る。
中では写真撮影禁止。絵葉書や写真集を作る場合は撮影料を寺に支払うのだろう。名前は忘れたけれど、有名な写真家がよくこの場所を写真にしている。
水子の供養も出来る。法然はむしろ迷信を否定したと思うが、現世利益丸出し。

批判しているのではない。生きている人の気配に安心するのだ。

寺院の経営も大変。おりしも造園業者が木を刈り込んでいた。その料金は誰が出す?裏山には新しい墓地が造成され、たくさんの墓が並んでいた。死後はあだしのの念仏寺かあ~。あまりにもはまりすぎ。

それにしても墓地は一区画いくらなんだろうか。高いんだろうなあ。すぐに無縁になるとわかってても(墓の平均寿命=誰かがお参りに来る年数はせいぜい数十年だとか)、人は営々と墓を建て続ける。

逃げるように寺を後にすると、奥の愛宕社へと続く静かな門前町が続いている。

時折、ガタンッ、ゴトンッと頭上から音が降ってくる。嵐山・高尾パークウェイを通る車の音。遠い昔、この先の清滝まで一緒に出かけた人の顔も忘れたけれど、自分のいなくなった後もたぶんこの眺めは続くと思うと、それだけで癒される自分がいる。
確かにこの日、私はここにいた。石仏に託された多くの思いと溶け合って、私の思いもまた、残っていくであろうと。
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deep京都

2009年06月21日 | 旅行
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先週の木、金は一人で京都へ。目的は京都パルスプラザで始まる「京都大アンティークフェア」で買い物するため。初めて行ったのは六年前、それから四、五回ツアーで行ったが今回は初めて個人参加。

前日、朝7:40分広島バスセンター発。京都駅烏丸口12:35着。五時間の長旅である。新幹線の発達で、日本列島太平洋側の距離感がずいぶん昔と違ってきたけど、やはり京都は遠い。この日の大型バスの乗客は三人。ほぼ貸し切り状態。好きなんですよね。この感じが。バスの中でゆっくりのんびり。

車窓に東寺のでっかい五重塔が迫り、堀川通りへと左折すると京都駅はすぐ。子供のときからいったい何度京都へ来たことだろう。30回くらいかな。いろいろなことを思い出すまもなく、バスを降りて切符を買い、JR嵯峨嵐山線に飛び乗る。ホームは改札通って右へ右へと行けばあった。修学旅行の自由行動らしい一団が走っているので、ついて行っただけですが。

昔子供たちをつれて映画村へ行ったときは、京都駅前からのバスでとても時間がかかった。嵐山はJRが早いと分かったのも歳の功かも。

目的地は祇王寺。でもデジカメのバッテリー忘れてて、使い捨てカメラで写すしかない悔しさ。木陰の多い境内はうまく写りませんでした。

さらに歩いてあだし野の念仏寺へ。さらに歩いていって出会ったのがこの景色。知らずに行っただけに感激もひとしお。場所は嵯峨鳥居本と言います。五山の送り火、鳥居型の下に町並みはあります。うーーーむ、素晴らしい。

茅葺屋根の一つには柔らかなコケが、夏の日差しの下、輝くようでありました。



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骨董狂い

2009年06月10日 | 暮らし
古いものが好きである。と言っても財力がないので、立派なものは買えない。
好きなものは古い食器に古い家具、古い着物。

夢は田舎の古い家で着物着て、本読んだり、そこらあたりを歩いたり、たまに下手な絵を描いたり、昔の食べ物を作ったりすること。

でも全然出来ないうちに時間ばかり経って。
着物は親のを大分もらった。冬の間、外出は着物。柄は思いっきり時代遅れ、昭和の着物だけど、頑張って着るうちに「着物着る人」というキャラが確立。もうあまり恥ずかしくないんですよね。歳だから。

たまに骨董市に行き、自分の出せる範囲で古いものを買って楽しむ。古い食器も場所が出来て嬉しそう。

自分で食器の絵付け(転写紙使用)もします。この中の四つは自分で柄を考えました。分かるでしょうか。

一番下のはイギリスのアンティークです。わずか七ポンド。今なら千円ちょっと。そのときは1,500円くらいの感じでしょうか。
イギリスのアンティークショップオーナーは老人が多かったです。
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団塊の世代

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