日記

日々のあれこれ
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四国遍路

2011年02月28日 | 歴史、社会、家族
四国遍路がブームである。当地では高知以外は日帰りで行けるらしく、何回かに分けてバスツアーに参加して満願する人の話も聞く。

時代も変わったなあと思う。私が子供のころは…とまた昔話になるけれど、お遍路さんは全て歩きだった。実家が遍路道の近くにあるので、時折お遍路さんが表口に立った。チリンと鈴を鳴らして低い声でお経を唱え始めると、祖母が米びつから米を一掴み、首から提げた頭陀袋に入れる。

喜捨をさせてもらったというよりも、厄介者を追い払うという雰囲気だった。長じて、今のようなブームになる以前の四国遍路は、さまざまな事情によってふるさとに居られないもの、ふるさとを持たないものが巡り歩くものだと知った。

わずかなお接待で食いつなぎ、札所から札所へと巡り、行き倒れになると地元で葬り、身内に知らせる。分からない場合は身元不明人として処理。中には、激しい差別と偏見にさらされていたハンセン病の患者さんたちが遍路に出る。それは死出の旅。二度とふるさとへは帰れない旅立ちである。満願したあと同病者が山中で共同生活した場所も昔はあったと本で読んだこともある。(確認はしてませんが)

お遍路を巡れるのは四国の風土と人情の懐の深さだと思う。それが今も人を引きつけてやまない魅力なのだろう。

昨日の会話の一部

相手「**さん、ご実家はどこ?愛媛県?」
私 「(心の中で、ケッ、私は嫁に来て38年だよ。いい加減に憶えろよ)香川県ですけど」
相手「そう、香川県は知らないけどこの間、息子と高知県に行ったの。やっぱり四国は遅れてますね」ですと。

これだけ、いちいち人の神経を逆撫でする会話のできる人も珍しい。四国全県、全県民に成り代わって抗議しとくんだった。残念!!

だいたいチョー不便な山の中に住んでるあんたに言われたかないよ。(私は山登りは好きですけど)四国のどれだけを知ってるの?人を差別するのは己の無知から始まり、人を差別すると結局は自分に跳ね返って来るんですよね。

その人が会うたびに私に嫌な思いをさせるのは、私の存在がその人を嫌にさせるからでしょう。私の出身地と実家が一族より格下で、一族にふさわしくない嫁と思っているのでしょう。
でも姑でもないあんたになぜそう思われんといけないの?姑からは一度も言われたことないのに。
何なら一度私の実家へ来て見ますか、県庁のある便利なところだよ、家に来て見ますか、と心の中で啖呵を切る私。お宅の資産と実家の資産を比べますかと、はしたない人にはついはしたない考えが浮かんでしまう。用心、用心。

ご自分の息子さんはもう孫がいてもおかしくない歳、でも家柄にふさわしい嫁をいまだ鋭意選別中。家柄にプライドを持つのは本人の勝手ですが、息子さんがかわいそう。人を差別してはいけませんね。自分が結局は窮屈になるだけなのにね。

すみません、お目汚しで愚痴を長々と。何でひどいこと言われるのか書くうちに分かって私はすっきりなんですけど。
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話し戻って四国遍路、瀬戸内側は札所も便利な場所にあり、人家も多いので昔は「なんちゃって遍路」のほうが多かった印象。遍路がなまった「へんど」はホームレスの同義。今もその言葉があるかどうかは不明。お接待するのはやぶさかではありませんが、あの格好で歩くのは激しく抵抗感があります。

上の話と矛盾するけれど、これから歩き遍路に出かける方、住民との心の交流は余り期待されない方が。今は宿坊も殆ど閉鎖、お寺で野宿しようとすると追い払われるようです。札所近くのビジネスホテルを利用することが多いようです。まあそのあたりはリサーチして出発されると思いますが。
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ああ気が重い・・・きょうは愚痴

2011年02月27日 | 暮らし
明日というか、もうきょうになったのだけど、義理の用事であるところへ。そこには私の大の苦手な人が来る。

今から気分が悪い。いい歳して、まったく情けないことである。私は家族には強く出るけど、外へ向かってはたいていのことは我慢する。我慢しきれなくなると、激しく抗議することもあるがまあそれはまれ。着ている着物の悪口を面と向かって言われたときくらい。

和をもって尊しとなす、目立たないように、人と合わすことが美徳とされた古きよき昭和時代に物心つきましたものね。

いやいや、人それぞれの性格は時代に影響されるほど単純でもなく、それぞれが違うから面白いとも言える。合う合わないは仕方ないこと、合わない人と合わそう思わず、距離を置けばいいだけのこと。

だけど、どうしても同席しなければならない何時間かをどうするよ。こちらは何も言わないのに必ず嫌味を言われる。一応歳上なので逆らわないとますます言われるばかり。世の中には、いじめても大丈夫な人を見つけるのが天才的にうまい人がいる。そのことに気がついたときはちょっとショックだった。

人と仲良く、お互い譲り合って、争わなければ、人もそのように扱ってくれる。私が温厚な祖父や父から受けた無言の教育とはそのようなものだった。今振り返れば、そのようなことは生活レベルも考え方もそう違わない狭い範囲でのみ通用することだったのかも。

家柄、学歴、着ているもの、身につけているもの、子供の学歴に仕事、そんなもので自分を守らないといけないのは人間の弱さ。自分は自分、と思い定めて明日はというかきょうは笑って受け流そう…と思いつつ、「あら、また太ったのね」と失礼なこと言われそう。ああ、腹立つ。腹立って待っている。

友達に話したら「(ご主人に)愛されて幸せなんですって言い返しなさいよ」とありがたいアドバイスを貰った。でもそんなこと、恥ずかしくて言えねぇよ。まあ結局はやせればいいんですけどね。

昔、着物着てたら、「そんないいもの着てどうしたの」と文句言われた。今回も着物。今度はどう言われるかな。。。
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友と会う

2011年02月26日 | 暮らし
44年来の友人と一年数か月ぶりに再会。県立美術館ロビーで待ち合わせてまずは縮景園の梅見に。



たくさんの梅が満開。暖かくて大勢の人。

HOTEL JAL CITYでランチを。パスタランチ、ピザランチともにサラダ、パン、パスタ、またはピザとデザート、飲み物はいろいろ飲み放題で980円。お勧めです。川岸のオープン席はこれから桜が見ごろ。

駅前福屋の花の祭典を見る。花いろいろ。



















きょうは暖かくて楽しくおしゃべりして結構な一日でした。お姑様に頼まれた買物もして、ちょこっといい嫁もしたのでした。
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学位の功罪

2011年02月25日 | 暮らし
この間、週刊誌を見ていたら学位を持つ先生と持たない先生と。
現在同居中のモト彼も学位を持ってるけど、なぜか書いてませんでしたね。週刊誌の記者さんに言うの忘れたんでしょ。本人が忘れるくらいだから、私も普段は忘れてる。子供三人とお姑さん、実家の母は知ってるけど、そのほかの人は知る由もなし。

研究していたのは五年間くらいでしたか。ちょうど子育てに忙しい頃で私も殆ど記憶にないけれど、いつも帰宅は深夜の二時くらい。夕方まで仕事して夜になってから自分の研究。思うような結果が出るまでは帰れなかったらしい。「コラッ、こんな時間にどこへ行く?怪しい奴め」とお上に誰何されたことも。
帰宅後真夜中に夕食。それでも太らなかったのは若かったからかも。

土曜日は爆睡、日曜日は家族サービスで出かけて三時頃帰宅したら、試験管洗ってくるとか何とか言って出かけてやはり帰宅は深夜二時。大学を出てからはそうでもなかったけど、医局員のときはお給料もとても安かった。賞与なし。親子四人、どうやって暮らしていてのか、今思うと不思議。

学位があってよかったこと。(私として)
学位記を入れている特注の大きな額は置き場に困り、今は二階のテレビの後ろに突っ込んでいる。洗ったハンカチを貼り付けて乾かすのに便利だったけど、今は通勤しないので大きなハンカチも持たないし。と罰当たりな話。

実家からお祝いをくれた。田舎と違って親戚を呼んでお客することもなかったので、実家へは大きな掛け時計に金の字を入れてお返しした。がしかし、夜中に一時間毎に時計が鳴って眠れないときわめて不評。実家へ行ったとき裏のスイッチを外してやっと鳴らないように。

悪かったこと。(私として)
業界の特殊事情には目をぱちくり。詳しくは書けませんが。(書いたのは消しました)
外科系だと「メス持ち祝い」。今はあるのかどうか不明。こんな特殊な言葉、ネット検索で出てくるのかな?

寝る間も惜しんで、かわいい盛りの息子たちとの団欒も犠牲にしていただいたもの、こんなときに公表しなくてどうするのよと思ったけど、まあそんなことはもうどちらでもいい。たんすの中の着ない訪問着と同じ。役には立たないけれど、心の支え。

学位と聞いて、30年も前の大変な時期を思い出した。子供たちがみんな元気な子だったので、一人で育てられたけど、そうでなかったらどうなっていたことやら。

で今はどうかと言うと。。。

こちら

我が家も基本的にはこんな状況。今はレセプトを紙に打ち出さないのでストレスも少ない。お金のことを言うのははしたないかもしれないけど、高度な医療が比較的安く受けられるのが日本が世界一の寿命をkeepしている要因と私は思う。もう少し何とかしてほしい。二年ごとに診療報酬は切り下げられるばかり。現場はどこも悲鳴を上げています。

私は贅沢な暮らしをしたいと思わないから、贅沢していると思われるのははなはだ不本意。と、とりあえず負け惜しみ。



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民間療法の功罪

2011年02月24日 | 暮らし




写真は二十数年来の知り合いのさる男性。青春真っ只中の数年前。

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ある人と連絡が取れなくなった。何度メールしても返信がない。

考えられるのは二つ。

①病気が重くなって返信できない。
②私と付き合うのをやめたいので返信しない。

②なら受け入れるけれど、①なら切ない。相手が言わないことを聞くわけにも行かないし、快復を祈るだけである。

世間には民間療法と呼ばれる、医療機関では行わない治療法、出さない薬などがあります。

中には効くものもあるのではと思います。
引き合いに出して失礼なのですが、ある方はツクシをたくさん食べて花粉症が治ったそうです。不思議なようですがこれは理にかなった面もあるのでは。

ツクシとスギ、発生学的には近縁で、胞子が腸を通過することでスギ花粉への耐性を獲得したのではと、私は素人ながらに類推します。

昔から漆職人は漆の葉を食べて、漆にかぶれるのを防いでいたそうです。経験的にそれがアレルギー反応を防ぐことを知っていたと言われています。

アレルギー物質が腸を通過することで、アレルギーが軽くなる。このメカニズムを医学的に解き明かすと、スギ花粉症の治療も前進するはずです。

で、本題はここから。ガンに効く民間療法はある?私は寡聞にして知りません。

「抗がん剤や放射線治療は副作用が嫌だから民間療法でいく」と言うその人に強い口調で私はたしなめたのです。
「そんな効くとも効かないとも分からないことをしたら駄目。今は抗がん剤もよくなってるから先生に任せなさい」と、誰でもそう言うしかないじゃないですか。

ガンの民間療法というのは、たいてい毒にも薬にもならない、当たり障りのないもの。気休めに過ぎないと私は思っています。もう助からない人が頼るのは人の弱さ。人の弱みに付け込んで許せないと思うけど、安心料と本人が割り切るのなら、高額でももはや何も言うことはありませぬ。

でも治る可能性をみすみす捨ててまで、試すようなものではないと私は思います。もし悪い結果になったとき誰がどんな責任を取るのでしょうか。

病気になった人の気持ちは、本当に自分がなってみないと分からないでしょう。私の言い方が傷つけたのだと思います。同じ内容でも、もう少しやわらかい言い方もあったはず。気に触ったのならごめんね。また連絡する気になったらいつでもどうぞ。私は待ってます。。。。

引き続き鋭意人生勉中。
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今さらの申告事務

2011年02月24日 | 暮らし
きのう税理士事務所より問い合わせのメール。
不明の点につき、至急回答願いたいとのこと。殆どは記載漏れなどの単純ミス。でも一つだけ、内訳の書類がないらしい。えらいことだあーー。

この書類は
昨年夫が紛失→
先月再発行してもらいほかの資料と一緒に渡した(つもり)→
昨日税理事務所から見当たらないとの連絡→
本日再発行の依頼→
FAXで送信されるも印字した紙の上にもう一度印字。読解不能→
「なんでこんなことするのよ」「あんたが裏も使えというから使った」とミニ夫婦喧嘩→
「紙のセットが裏表反対でしょうが。片面に二度印字してどうするのよ。失敗した言い訳になってない。ムカッ」と言いたいのを人格者の妻はこらえる→
口頭での再々発行の依頼→
郵便制度に頼らず自分で事務所まで届ける。

毎年二月末に繰り返される悲喜劇。あーーー、みっともなかった。よほど事務処理能力に欠けた私と思われた模様。年々、細かなことが面倒くさくなる。そのうちとんでもない間違いをするかも。気をつけなくっちゃ。



昨日の孫娘。ストーブが珍しいのかいろんなところを叩いて確かめている。興味いっぱいなんだろうなあ。脳細胞がぐんぐん増えてるんだろうなあ。

食事のとき「裏口のたたきに落ちたら大変だから見ててね」と夫に頼んだ数秒後には、そのたたきに下りて上半身を出してニコニコ笑っている。いつの間に~。
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無題

2011年02月23日 | 暮らし
73-12-87
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春はそこまで

2011年02月22日 | 暮らし
二月はじめ、みんなで集まる約束をしたころはとても寒かったけど、きのうは暖かくていい一日でした。



花をいただきました。春の色~ありがとうございました。



手作りのパウンドケーキ。ドライフルーツ入りは昨夜食べました。ご馳走様。とってもおいかったです。お店で買うよりずっとおいしい。これを思い立って夜になって作り始めるなんて、すばらしい。

パウンドケーキ、もう20年以上作っていません。ボウルを洗うのが嫌という単純な理由です。
すみません。(誰にあやまってるんだあ??)こんなことが苦もなくできる人もいるなんて。。。。しばしの反省。



柏餅もいただきました。こちらは手作りではありませんが、「御座候」製でおいしそう。餡子ものの好きな夫がまず一個。私も今日はいただきます。ありがとうございました。



今朝の朝日新聞広告から。我が家地方では明日発売です。何ごとも営業が肝心。ここでささやかな営業活動。ところで名医って何?誰が名医??



たとえて言えばこんな感じ?コアラの先生の注射器キラ~~ン。

めでたく(なく)地元Yゼミに進学の決まった10年前の春、三男描く。上絵付けの絵の具ではなく、専用のマーカーで描いてオーブンで焼成、10年経って大分剥げてきました。



こちら転写紙を貼って私が絵付けしました。淡い色が春先の気分~♪

きょうから前日の歩行歩数を携帯より転載することにします。昨日0歩。近所に買物行った以外は家にいたので。日曜日は岡山を歩いて10,420歩でした。

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さて、名医で思い出したけど、知り合いで喘息のひどい人がいて、一度で治る注射を打つと評判の先生に、車で片道一時間半も掛けて毎月通っていた。名医の門前は市をなす賑わいだったとか。

あるとき(効果が切れたのか)、呼吸困難を伴うショック症状が出て救急車で近くの病院へ搬送。大騒ぎの末を一命を取り留めたと聞いた。その病院で「(前の先生は)使ってはいけない薬を使ってました」と言われたとのこと。

医療の世界では「前医は批判しない」が大原則。責任があいまいになるからでしょう。しかし、その先生が言われたのならよほどのことだったのでしょう。
ステロイド使ってたのかな。私は素人でよく分からないけど。

花粉症も一度の注射で治るという話があるけど、何か怖そうーーーー
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楽しい一日

2011年02月21日 | 暮らし
今日は友達二人が我が家へ。夕方まで楽しく話し、再会を約して解散。本当は昨日掃除をする予定だったけど、岡山で遊んだので、けさ掃除、買物、昼ごはんの仕度と、私にしては家事三昧だった。

明日はガスを止める工事の見積もり、工事日の決定、商品発注とまだまだ作業が続く。思い立ったが吉日、とりあえずIHに。織りの友人はとても薦めてくれたけど、きょうは都市ガスよりは火力が弱い、しかし台所は汚れない、IHヒーターにあわせたロースターもあると先輩の貴重な意見を聞いた。ここまできたので、もうするんじゃないの。しかし、最近流行の施主支給つうのは疲れるなあと思った。

今秋発売のJosei地震にまたまた掲載予定らしい。どんな記事になるがハラハラドキドキ。

写真は数年前、松江のルイス何とかティファニー美術館で。絞りの花がきれいです。












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水ぬるむ

2011年02月20日 | 広島案内


にはまだまだ早い二月の海、でも友人と二人で、昨日近くの海へワカメとりに行きました。
初めは水際で躊躇するも、一度波をかぶると後はジャブジャブと海の中へ。

はい、とても冷たいです。ワカメはあるにはあったけど、まだ小さい。海にはいろんな人が来ていて楽しいです。

砂浜を掘って「川を作って理科の勉強をしている」という小学生。「メバルがつれる」という若者は「ワカメってあのワカメですか」と聞いてきた。

極めつけはなぜか東京言葉のアル中のおっさん。酒臭い匂いでふらふらと歩き、片手に大きなポリ容器を持ち、ワカメとは違う変な海草をせっせと入れている。

「それ違う」と誰かが教えてあげると「何でもいいんだよ。おいらは東京の人間だからワカメって知らねぇんだよ」と言いながら容器の中身を捨てていた。

「広島の人は親切だねぇ」ですって。喜んでもらってよかった。

海を前にするとみんな素直ないいひとになるのかしら。

きのうは大潮。夕方そろそろ潮が満ち始めると撤収。鈍い冬の夕日が水面に光ります。向こうは宮島。
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岡山街あるき

2011年02月20日 | 旅行
今日は夫が所用で岡山へ。運転交替要員として同行。駅西口で別れて一人で街を歩いてみました。



電車「東山」行き、城下(しろした)下車。五分くらい歩くと旭川の川岸へ。



後楽園通り角の立派な商家。酒屋の店、自宅、蔵と並ぶ。



竹久夢二美術館までさらにあるく。庭のしだれ梅はまだつぼみ。



月見橋下の足こぎボート。頑張れ!!



林原美術館は旧藩主池田家所蔵の美術品を展示。立派な長屋門。きょうは立派な雛道具の数々を見た。江戸中期のものは梨地の実物の半分くらいの大きなもの。時代が下がるにしたがって小ぶりに。



中庭の備前焼の壷。



路面電車



禁酒会館。アルコール依存症の立ち直りをサポートするらしい。キリスト教関係のボランティア団体?



オランダ通りのフリーマーケット



遅い昼ごはんをば。



いろいろ載ってます。

午後3時に駅西口でpick upしてもらって岡山インターより山陽道へ。道口PA~奥屋PAの一時間、私が運転。暖かくなったせいか車が多かった。



きょうのパンフ。

暖かくて結構な一日でした。岡山の町はコンパクトで歩き安い。コーヒー、デザートもついたランチも安くておいしくて結構でした。

こちら


きょうの決意。いよいよ春が近くなったし、楽しいことをいっぱい見つけて明るく楽しくがんばろう。










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絞りの誘惑

2011年02月19日 | 着物
この間、着物のネットショップ見ていたら新古品(一度も着てないリサイクル品という意味らしい)、仕立て上がりの絞りの着物発見。

紬は普段着過ぎるし、やらかもんでもこんな感じなら、洋服の人に混じっても違和感ないし、いいなあと思ったけど、お値段は\68,250!!!!

たぶんこれでも安いんだと思う。着物を着て利益の出る人、お稽古事のお師匠さん、呉服屋のおかみさん、和風スナックのママさんなら惜しくない値段だろうけど。。。。

と、そんなことを思いながら今治へいくと、呉服屋のスタッフさんが似た着物をとても素敵に着こなしていたので、いっそう羨ましくなった。そう、見なければいいのに、見るから欲望が刺激されるというあれです。

うーーーん、パソコンのdisplayを眺めるうち、やがて売れてしまった。伝統的花鳥風月、金閣寺に清水寺のような景色模様より場所を選ばず着易いと思う。

前置き長くなったけど、売れてしまったので画像を勝手に拝借します。すんません。



アップするとこんな感じ。



薬草かなんかで染めてるそうで。草木染ということでしょうか。色のgradiationがなんとも素敵。

それで代わりっちゃなんですが、フリマでついこんなもの買いました。こちらも新古品、絞り柄のつむぎの名古屋帯。普段着に締めます。



「いくら」「うーーーん、手絞りだし紬だし2,000円でどう」と言われる。うーーーむ、千円にならんかなと考えていたら、ウールの着物をおまけに付けてくれた。ウールは着ないし、と思ったけど、連れて帰った。



こんな感じです。

私どもの業界では10万以上の服を着んといけんらしいが、ふん、ほっといて。安い女でけっこうとまたまた心の中で啖呵を切る私でした。

午後からは友達とワカメとナマコを取りに行くので、着るのはいずれまた。
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冬の海---しまなみ海道を行く

2011年02月18日 | 旅行


片道3,600円、往復なら6,500円。片道約2時間半のバスの旅。2月13日。



海峡



船影



船影



小さな灯台



朝日



夕方、尾道水道。向こう尾道市街、手前向島。新尾道大橋を通行中。



尾道城。1968年、尾道で美術部の合宿したときにはもうあった。地元商工会議所が展望台として建てたものらしいが今は立ち入り禁止。天守閣を建てて街を見下ろすというのは男の発想。小津作品も大林作品も蹴散らしてしまうこのキッチュなインパクト。

みんな忘れた振りをしているけれど、これも立派な昭和の遺産。でもなんで天守閣なの?????



こちら。2009年2月撮影。最上階は窓が広く、ガラスが入っている。



今は立ち入り禁止。



市街地からよく見える。
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もうすぐ初節句

2011年02月17日 | 暮らし
もうすぐ孫娘の初節句、上の写真は初節句のイメージで。数年前、鞆の浦で写す。

この間お嫁さんが来たので「もう雛人形買ったの。まだなら私が買ってもいいけど」と聞いたら「置き場所がないので実家の母が言ってきたのも断った。私のもあるし」とのこと。

残念!!我が家は男の子ばかりだったので、とうとう雛人形は買わずじまい。私が子供のころは、立派な御殿付きの人形のあったS竹さん以外は誰も持ってなかったと思う。S竹さんの家のひな祭りに呼んでもらってとても嬉しかったことを覚えている。

私が子供の頃、私の人形として年寄り夫婦が掃除道具を持っているのがあった。今になれば「高砂」というおめでたい人形と知っているけれど、なんか地味でイマイチ嬉しくなかった。母は早くに両親をなくしたので、伯父にすれば精一杯のことをしてくれたと思うけど。

戦後すぐで嫁入り道具も間に合わなかったのか、子供のころは時々母の実家からたんすやいろいろなもの、私達のおもちゃなども届いていた。伯父も自分の家族のこともあるし、親代りは大変だったと思う。

安くいろんなもののあふれる時代、本当にありがたいなあと思う。昔なら自分で縫うか、人に縫ってもらうしかなかった孫娘の着物をネットで買った。初節句の祝いのつもり。着せると見出しの写真みたいになる予定。ウールの着物にちゃんちゃんこがついている。ピンクにする、赤にするとお嫁さんに聞いたら「赤がかわいいけどよく分からないのでお見立てお願いします」というメールがきた。

身内を褒めるみたいで恐縮だけど、私の若い頃と大違いである。今も昔も人に指図されるのが大嫌いな私はなんでも自分でさっさと決めていた。赤かピンクか二つに一つ、どちらにせよたいした違いでないなら年長者を立てる。その気配りのできなかった私。お嫁さんに自分の至らなさを教えてもらったようで、嬉しくも恥ずかしい。

柄はこちら。結局二人の意見が合ったので、赤にした。ウールの普段着。
届いたら上げしないといけないけど、それをしてやるのも楽しみかも。

こちら
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「きことわ」 朝吹真理子

2011年02月16日 | 読書
写真は軽井沢テニスクラブ。2006年10月。会員になるとこのコートでプレーできるのだろうか。会員になるには誰かの紹介とか…というようなことを知ろうとも思わないけど。

クラブハウスは1930(昭和5)年、ヴォーリーズ設計だそうです。

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子供の頃、夏、葉山の別荘に母親と叔父とで来ていた貴子は別荘番の娘、永遠子と25年ぶりに会う。長い間つかってなかった別荘が売れたので、解体される前に片付けにきたのである。

二人は淡々しい遠い記憶をたどっては確かめ合う。記憶はあいまいで、相前後し、起承転結のない切れ切れな断片として呼び覚まされ、今に繋がるものもあれば、そのときにそのときの形のままで保存されているものもある。二人はお互いの記憶が溶け合い、やがて別々の道を歩んだあとも合わせ鏡のように相手の記憶の中に知らなかった、忘れていた自分を見つける。この不思議な感覚。

と、この作品の筋立てを説明しても、この作品の一部しか説明したことにしかならない。改行の少ない文体は、丁寧に描かれた水彩画のように、人の心の襞と取り返せない思い出を一つずつ解き明かしていく。

たぶんこの作品には作者の可能性がいろいろと詰まっているのだと思う。その一つ一つをさらに磨きをかけて、長い作品として書いてもらいたいなあと思った。(すみません、えらそげで)

大叔母がサガンの翻訳で知られた故朝吹登水子、私が若い頃サガンの小説のほとんどは新潮文庫にあったけど今はどうか知らない。一時、私が西洋アンティークに凝っていた頃、(買えないので雑誌などで見るだけ)朝吹登水子の軽井沢の別荘を紹介した本を持っていた。凝ったつくりの趣味のいい、建物全体がアンティークのような素敵な家だった。

今回は朝吹一族の候補者ということで、何かと話題になった人。子供の頃から夏は別荘などへ行った人なんだろうなあと思った。別荘には私もあこがれていけど、別荘番を置いて管理できないのなら避暑なんてホテルや旅館で充分。ストレスも少ないことを知った。と庶民が負け惜しみを言ってみる。
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