日記

日々のあれこれ
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祝・卒業

2008年03月31日 | 暮らし
六年間というのは十分に長い。一浪後、19歳で上洛、25歳になって明日は愛知県の会社で入社式。親の役目もようやく終えた。
勉強もしたのだろうけど、遊びも全開。幼いころから自動車一筋。人はその人に向って完成していくというか…2008dorikon.htm


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春…別れの季節

2008年03月30日 | 暮らし
写真は京都東山、将軍塚から見る早春の空

長い冬が終わり、ようやく春。別れと出会いの季節。
人はずっと同じ場所にはいられない。楽しい時間は短く、行く手には困難と不安があるばかり…ずっと昔から人はそのように思い、それを乗り越えて年をとり、振り返って「悪くはなかった」と言えればそれが幸せ。

若い日の別れはきっと心の一里塚。何度でも後ろから心を照らし励ましてくれるような。。。

君の手は既に凍り尽くして居り
その心ゆらり他所にあり
もはや二月堂天も焦げよと松明の炎
見上げつつ何故君は泣く
雪のように火の粉が降る

お水取りに誘われて出かけたけれど、やっぱりこの人とは無理だわと女は心を決める。
男はその気配を察している。押し流すような人の群れ、降りかかる火の粉、火は人の押し殺していた情念を掻き立てる。
振り向くと女はいない。捜しても捜してもどこにもいない。

誰とも別れない人生なんてありえない。誰とも出会わない人生がないように。
遠い日の苦い苦い記憶。

どうしてあの日、もっと捜してくれなかったのだろう。あの瞬間まで私は待っていたのに。あなたが追って来ないと分かって私はようやく心を決めた、と女は思う。
あなたの心はいつも自分に向いてあり、私の中に自分と同じものを探し、それを愛しただけ。私は待って待って、疲れて疲れて。
あれから数え切れないほどの修二会が過ぎた。形が亡くなり、思いも消え、それでもいつかあの日に続く日を女は待っている。それもまた自己愛。愛された自分への愛。

このようにして人は多分歳をとり、思いを残しつつさらに年老いていくもの。
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長い名前・・・夫の場合

2008年03月29日 | 暮らし
写真は平和公園の桜。

夫は名前が長い。名前の音が6個もある。
昔、四月のキャンパスで、その昔風の長い名前に驚倒した。

若い時に「いい名前ね♪」と誰かに(う~~む、女の子だったかな。本人が話していた気がするが詳細失念)に言われるまで、あまり好きでなかったそうな。

結婚前、今は亡き実父が「名前が長いのお。コンピュータに入りきらんで」と冗談を言っていたのも昨日のよう。娘を取られる父親が、他に文句が付けられないので、名前に文句を付けたのかも。

で、昨夜、連休に泊まる予定のホテルに、夫がネットで予約を入れてたら、エラーメッセージが。

「名前が長すぎます」

横で見ていた私もこれにはぶっ飛んだ。
名前が長いって…エエエエェェェェーーーーどうすればいいんだよう!!!!!
今更名前変えるわけにいかんし。
ローマ字の表記を変えて何とか受け付けてもらえたが、その昔実父が言っていたことが現実になった現場を見たわけです。

という私も、自分の名前、そう好きではありません。名前は自分の人格と不即不離、もっと美人らしい名前がいいなあと思うのは自分の中の欠落しているものをよく自覚しているからか。小百合とか美咲(みさ)とか華絵(かえ)とか、美人な名前がいいなあ。

しかし、長男からは「たるみ」と呼ばれています。漢字で書くと「腹先垂身」だそうで。。。。
「お母さんは若い頃、浜崎あゆみみたいな感じだった」と言ってそれ以来のあだ名。トホホホホ。ホントの名前も「たるみ」と一音違い、それでむげに否定できない自分がいる。
もちろん浜崎さんに似ていたなんて冗談、つうか冗談にしかならない自分の状況。

ことほど左様に名前は大切。と唐突な結論でまとめてみました。
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きれいになる私

2008年03月28日 | 暮らし
写真は先日食べたピザ。なぜに卵?

長い間懸案だった息子の電磁調理器をきのう必死で磨いた。
今月の17日、マンガ、ぬいぐるみ、白いコートと一緒に預かって帰ったもの。

で、午後から出かけようと思ったがとても寒かったので昼御飯のあと、電磁調理器の黒く焦げ付いたのを少しずつこすって落とした。
「あんたあ、だんだんきれいになるね」と旦那が言うので「そうかしら♪」なんて答えていたら、「何考えとるん?あんたでなくてその調理器。どんな発想したら自分がきれいになるなんて考えられる?」と言われてしまった。

でも学校時代、先生がおっしゃっていませんでした?掃除は心を磨くんだって。
心を磨けば、やがて外に現れる…にはもう手遅れでしょうか。

あ~~、こうなったら少額でもいいから早く年金頂きてぇ~~

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コスプレ卒業式

2008年03月27日 | 暮らし
コスプレ卒業式

戦隊ものは毎年外せないようですね。東京の某大学とはえらい違いです。
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長い髪の威力・・・ワカメ採りの場合

2008年03月26日 | 暮らし
きょうは若い友達二人とまたまたワカメ採りに。中潮で、潮の巡りはそうよくなかったのだけど、この間案内すると約束して、あまり日があいてもと思い、三人で出かけた。

少々肌寒いし、採れるかなと心配だったけど、今日もたくさん採れて三人で山分けした。さらに驚くことには、浜辺にいたおじさん二人が私たちにいろいろと話しかけてきて、採ったワカメを下さったことである。
結果、この間くらいの量になり、三人で山分けした。そのあとおやつとコーヒーで岩場で話をしているとおじさんも加わってしばし歓談。

「う~~む、どうしたことだ???私一人で行くと一度もこんなことないぞ!!!」
としばし考えたが、あとではたと気がついた。
同行した一人は肩先までの長い髪、もう一人もほっそりとなかなかの美人、ふたりとも今日が海岸デビュー、ひゃあひゃあと楽しそうにしていたので、おじさんたちが寄ってきたのかも。
いゃあ、男性はいくつになっても長い髪、ほっそりした美人に弱いんだと実感。

「痩せるのは無理だけど、ちょっと髪でも伸ばそうかしら」と帰ってから旦那に言うと「とりあえず、採ったワカメでも頭からかぶればよかったんじゃないか。遠くからだと髪に見えるかもしれん」ですと。
うーーーむ、いいアイデアかも。でも冷たいじゃん!それに、水死体に間違えられたらどうする?
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原稿を書いた

2008年03月24日 | 広島案内
きょうは一日雨、朝県立図書館へ行って資料を調べ、午後から書きかけていた原稿を一気に仕上げた。

夜、旦那と昔の仮面ライダーの番組を見た。なかなかよくできているなと。脚本家市川森一氏の若き日の作品だと知る。場面展開が速く、限られた条件の中でよく作っていると思った。

以下は原稿

平和公園を歩こう   原爆供養塔の案内板
                  遺骨に名前をつけて……ある遺族の訴えから


約七万人が眠る場所

広島平和記念公園の北端に近い場所に、芝生で覆われて、小さな丘のような土盛りがあります。これが原爆供養塔です。この中には、名前の分からない原爆犠牲者の遺骨、名前はあっても引き取り手のない遺骨が合わせて約七万柱眠っています。
供養塔の管理は「広島戦災供養会」という民間団体が行い、毎年八月六日には仏教、キリスト教、神道などの各宗派が合同で慰霊祭を行います。
爆心直下からわずか約三〇〇メートルのこの付近では、原爆で多くの人が犠牲になり、被爆直後から毎日のように火葬が行われました。翌一九四六年(昭和二十一年)には多くの市民の力で礼拝堂と仮納骨堂が建てられ、市役所に保管されていたものや市内各地に埋葬されていた遺骨が安置されました。
その後も広島市の復興に伴い、道路工事現場、学校の校庭、公園、軍の施設跡などから原爆犠牲者の遺骨が次々と見つかり、毎年のように原爆供養塔に納められてきました。

現在の供養塔が完成

 一九五五年(昭和三十年)には、市民の募金と広島市の予算で現在の供養塔が新しく完成し、市内の各地、各寺院などに仮埋葬されていた遺骨も移され、合計で約五万柱が安置されました。その後は被爆後に多くの被災者が運ばれて亡くなった似島、周辺市町村や遠くは山口県の寺院など、また一九七〇年ころからは、市内各地でビルの建設が進むにつれて新たに見つかった遺骨が供養塔に納められてきました。

 遺族の元に帰れない遺骨

 広島で原爆の犠牲になった人は、一九四五年(昭和二十年)末までで十四万人±一万人と言われています。その約半数の人たちは、名前が分からずにここに納められています。火葬されたのもありますが、土葬されのちに遺骨が見つかってこちらへ運ばれたものもあります。遺族にとっては、家族の最期のようすが分からず、遺骨も引き取れないまま、いまだに行方不明ということになります。
毎年、広島市は名前の判明している遺骨の引き取り手を探していますが、最近では遺族の元へ戻る遺骨もほとんどない状況です。

遺骨に名前をつけて…ある遺族の訴え

現在供養塔の正面右側に納骨の歴史と、被爆当時の広島市の地図を書いた案内板があります。これは二〇〇三年(平成十五年)に遺族の○○さん(広島市安佐北区在住、現在八十一才)が声を上げたのをきっかけに、二年後に広島市が設置したものです。
○○さんは原爆投下のときは、軍隊に召集され高知県にいました。一月後に広島へ帰ると、爆心から約七百メートルの空鞘町(現、中区十日市町二丁目)の家は全壊、全焼していました。また妹二人は、己斐から宇品の救護所を経て佐伯郡○○(現、江田島市能美町)の親戚の家に落ち着き、八月十八日と十九日に相次いで亡くなりましたが、その言い残した言葉から、両親と、土橋方面に建物疎開に出かけた中学生の弟は行方不明ということを知りました。
当日の朝、町内の消防団の用事で外出していた父親はすぐに家に帰り、妹二人を助け出したあと、行方がわからなくなったそうです。「おそらく、妹二人を逃がしたあとまた家に引き返し、下敷きになった母親を助け出そうとしたのではないか……と想像するんですけどね」とのことでした。
両親と弟の消息を捜しても見つからず、姉と二人だけになった○○さんは、戦後長い間「家族を思い起こすだけでもつらかった」そうです。「原爆や戦争は忘れることにし懸命に生きてきた」とのことですが、会社勤めを終え、七十才を過ぎてから「戦争を繰り返してはだめ」と、再び父母と弟の足跡を調べ始めました。
やがて平成十五年(二〇〇三年)沖縄を訪れた○○さんは、沖縄戦の犠牲者一人一人の名前が刻まれた「平和の礎」を見て、原爆供養塔に眠る約七万人の犠牲者の遺骨にもう少し詳しい説明がほしい、そうすれば原爆の悲惨さがもっと分かるのではないか、と思うようになりました。
「両親は、自宅近くの本川の土手に埋葬されたあと供養塔に納められた。また学徒動員の関係者と連絡を取り、弟の遺骨は小網町の三光寺から供養塔に納められたことを突き止めた。だから両親と弟は供養塔の中で再会しているはず」と確信し、「今のままでは七万体といわれる人たち十把一絡げのようで……その人がこの世で最後にいた場所がその遺骨の名前、どこから収容された遺骨かを供養塔の横に掲示してください」と一人で運動を始めました。
 
 少しずつ広がる運動の輪

 その訴えに、広島市と広島戦災供養会は「戦後長い時間がたって遺骨の収集状況もよく分からず、今さら難しいのではないか」と反応はよくなかったそうです。
「分かるだけのことでいいのです。今ならまだ間に合います、と思っても相手とケンカをしたらおしまいですから、どうすれば実現するかいろいろと考えました」とのこと。二〇〇三年の十一月二日からは供養塔の前で、一人で手作りのビラを配り始めます。
「原爆供養塔に『名札』を立てて下さい」……一年五か月かけて九五一枚配ったそのビラが新聞記者の目にとまって記事になったこと、記事にするにあたって記者が市に取材したこと、その意見に賛同した一般の人、近所の人、趣味の仲間、学識経験者、市会議員など約百名の人が市当局にはがきを出すなどして働きかけたことなどがきっかけになり、案内板の設置が検討されました。そして最終的には秋葉広島市長の決断で議会に図られて予算がつき、二〇〇五年の八月五日に、現在の形の案内板が完成しました。

 遺族の思い、ヒロシマの願い

案内板が取り付けられた日、○○さんも立ち会い、「やっと願いがかないました」と目を潤ませて話しました。市の担当者は「遺族の思い入れの深さにぐっときた。今後も寄せられた情報はしっかり調べ、案内板を充実させる」と約束したそうです。
「長い間、気にかかっていましたが、ようやく胸のつかえが取れたような気持ちでした」。今年の春、当時を思い出してそのように話していました。
その後、いくつかのミスが見つかり、何度か修正されて現在に至っています。
改めて案内板を見てみましょう。約七万柱の遺骨のうち、いつどこから納骨されたのか分かっている遺骨のほか、それさえも今では分からない遺骨がたくさんあることが分かりますね。また、戦後長い期間にわたって、遺骨が発見され続けたことも説明されています。
被爆直後の混乱ぶりと、どこの誰とも分からずに亡くなった犠牲者が非常に多かった、そのことがこの案内板から読み取れるのではないでしょうか。


参考 広島戦災供養会 「慰霊の記録 原爆供養塔(増補版)非売品二〇〇五年
   中国新聞    「供養の夏へ『弟の最期を』」  二〇〇三年七月十九日
           「論説室から 命の重さ」    二〇〇四年一月二五日
           「供養塔案内板訂正し再設置」  二〇〇五年八月六日
   毎日新聞    「原爆供養塔遺骨収集場所表示へ」二〇〇四年六月二七日
                                 など
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ワカメ採集にみられる人の性格に関する一考察

2008年03月22日 | 歴史、社会、家族
管理人は瀬戸内の沿岸に住み、この時期、趣味と実益を兼ねて渚に打ち上げられるワカメを採集しているが、そこで出会うに人々の装備、採り方などから、いくつかの類型に分けてみた。

①重装備型
すべて中年以上の男性。帽子、釣り用のバケツ、手鈎をつけた自作の竿(2mくらい)、長靴。さらに岩についたのを採るハサミなどの刃物も持つ。足元は長靴。

行動パターン。入江の奥、いろんな海草が流れ着く場所に立つ。ふだんは釣りをする人らしくあまり動かずにじっと海面を見つめ、流れ寄せてくるワカメを株ごと引っ掛けてて採る。小さな切れ端は相手にせず、砂浜には目を向けない。

性格分析。正統的、まじめ、行きすぎると頑固に。

②軽装備型
中年以上の女性に多い。一人で、たまに夫婦で採集する。
長靴、ビニール袋、簡単なスコップなど。

行動パターン。こちらは「今夜のおかずが採れればいいわ」というだけの動機で、採り方に迫力が見られない。砂浜に打ち上げられた海草の屑をひっくり返してワカメの切れ端を探すが、切れ端はたいてい大きくなりすぎて先がちぎれたものなのでおいしくない。採れなくてもあまり気にせず、次々と場所を移す。

性格分析。温和、順応的、行きすぎると自己主張のない付和雷同型に。

③海岸デビュー奥様編型
②よりいくらか若い40台前半までの層。雰囲気の似ている二人で行動。ワカメが採れる話をどこからか聞き、とりあえず来てみたが、波はザンブリコ、ワカメは波間にゆらゆら、何もかも珍しいという都会育ちの奥様。ガーデニングに使うようなおされな長靴、ビニール袋など。
道具としては「糸の先に重りをつけたもの」????を昨日見た。
重りを足元のワカメの中に落とし、絡めて採るつもりらしいが、敵も浮くもの、ぬめるもの、折角の装備もアイデア倒れと見えた。

つか、なんでせっかく足元に流れ着いたワカメを手で採らん???そんなに海水が怖い???ようわからん???

性格分析。おしゃれ、優美、おしとやか。

④支離滅裂型
中年以上の女性。必ず一人で行動する。服装はテキトー、足元は一度登山靴の金具が錆びて(当たり前だッ!!!)懲り、以後は普通のスニーカー。ビニール袋二つ以上。道具は一切なし。

行動パターン。採る場所は小さな入り江の入口で直接大きな波のくる場所。波が引い時に近寄ってきたワカメをさっと手で採り、次の波が来るまでに素早く逃げるが濡れることもたびたび。一度濡れると後は膝から下までならぬれても躊躇しない。
長靴は水の中では抵抗が大きくて歩きにくいが、スニーカーは自由に動けるのが利点。
遠くから見るといい年したおばはんが渚で遊んでいるように見える。飽きると岩場へ行き、岩についたワカメも採る。この採り方が一番効率がいい。

性格分析。明朗、いい加減、反権威主義、臨機応変。行きすぎなくても、まんまわがまま。

はい、私めは④でございます。今回もたくさん採った。採ったはいいが、洗ってゆでて、二人暮らしなのに、あ~~~どうすればいいんだようΣ(´Д` )
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速達届く

2008年03月20日 | 暮らし
朝、遅い朝食を食べていたら息子からの速達。中は誓約書が一枚、保証人の欄に署名捺印してほしいという意味らしい。

早速送り返したが、社会人になる以上、たとえ親子でもこのような場合、あいさつ文の一つも入れておくべきと手紙を書いた。苦言を言えるのは親だからこそ。

しっかり頼むよ、わが息子よ。
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体調悪し

2008年03月20日 | 暮らし
写真は北野天満宮ちかくの一条通り。和菓子屋、豆腐屋、自転車屋、などなど。こんな町で暮らしてみたい。

先日、京都から信楽をうろうろした時、温度差に体がついて行けず風邪をひいたらしい。
帰り、息子を京都南インター近くの阪急竹田駅で降ろすつもりが、京阪の伏見稲荷まで行って欲しいとのこと。友達から電話があったので待ち合わせていたのかもしれない。

そのあと桂川PAで夫と運転を変わり、岡山県の吉備SAまでの二時間あまり、私が運転した。早く帰りたいので、120~140でぶっ飛ばす。途中から頭が痛いなあと思っていたら、なんと夫がエアコンでがんがん冷やしていたのであった。自分は上着着て日の当たる助手席に座っていたので、暑かったらしい。
暑かったらまず上着を脱がんかい!!!コラッ!!!

翌日から頭痛がひどくてドッと病の床に←うそです。
午前中は用事を済ませ、午後から二階や下のテキトーな場所でテキトーに眠る。
いくらでも眠れる。寝ても寝てもまだ眠い。やはり先月からの疲れがたまっているのかも。

被爆証言集にあと、コラムを一本書く予定で資料をいろいろそろえてはいるが手付かず、二十三日までには仕上げたい。

そのあと例年のルーチンワーク、労働保険のとりまとめと。。。こちらはエクセルで。初めのころ、電卓でやっていたときにはあきれるほど数字があわず苦労したもの。交通費は算入、こちらも一年に一度のことで備忘として書いておこう。
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新名神で信楽へ

2008年03月18日 | 旅行
今年になって本当にあちこちしているわけで、土日はぬあんと、京都から信楽あたりをウロウロしておりました。

信楽といえば紫香楽宮、聖武天皇の時代三年余り都が置かれ、近年その遺構が発掘されたそうですが、そちらへ回る時間はなく、窯元などを巡っておりました。

今までの名神は琵琶湖に沿って米原まで北上、そこから名古屋の北部へと出ますが、こちらは草津から南下して名古屋の先までほぼ最短距離を通っています。
開通してまだ一月足らず、新しくてまっすぐな道は運転も楽です。
信楽インターまでは人工物が一切見えない山の中、といってもそう険しくはなく、なだらかなどこまでも続く山並みを左右に見ながらのドライブです。

信楽町内はインターが開通したのでお祭りムード、これからは観光客も増えることでしょう。
ここの焼き物といえば狸ですが、甕、庭に置く椅子とテーブルや蛙、ふくろうなどエクステリア全般、植木鉢、食器もいろいろありました。
時間がなくてゆっくり見られなかったけど、新しい道も開通したし、地元旅行社がツアーを企画するかも。楽しみにしておこう。

コアラ大好き息子はコアラの置物を探し、とても可愛いのがあったけれど、大きいので断念していました。でもそう何度もくるところじゃないし、落ち着くまで預かってやればいいのにと、四千円くらいのことで後悔いっぱいの母でした。

本当は引越し前の荷物の整理を手伝う予定でしたが、息子が断固拒否。じゃと、遊びに連れ出したので却って邪魔になったかも。不肖の親です。

右奥はコアラの椅子。
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涙の文豪ミニ…半角の怪

2008年03月14日 | 暮らし
写真は上海の東方明珠塔(シルエットはどらえもん?)

お若い方はご存じないでしょうが、パソコンにウィンドウズなどのOSが標準装備される前は、ワープロのソフトというものを購入してパソコンにダウンロードし使っていました。
ふた昔以上も前ですが、「松」というソフトが15万くらい、黒い字だけのドットプリンタがこちらも十万ととても高価でした。

で、文章を書くだけの人はワープロ専用機なるものを使っていました。
ワープロ機能だけのパソコン(?と言えるかどうか)がたくさんで回っていました。シャープの「書院」とかNECだったかなの「文豪」とか「文豪ミニ」とか。

今整理している被ばく証言の原稿ですが、校正をお願いしたところご本人が全文書き換えフロッピーディスクかなんかに入れて持ってきたらしい。
が、ぜんぜん開かない。ひょえーーーーー

「これ、ソフトは何ですか?」と伺うと「文豪ミニです!」と言われたとのこと。
その話を聞いて、いまだに使っている人がいるのにびっくりした。
私なら「こんなもの受け取れません、文章を作るのはこちらの役割、いらんことをせんで欲しい」と喧嘩を売るところだが、そんな喧嘩っ速い人はわが会には私以外におらず、だいいちそれではせっかくのあちらの好意が台無しなのでほかの会員の尽力で印刷所などに問い合わせようやくXPのワードで開くようになった。

がしかし、メール添付のファイルを私も校正したが、今度はシャカシカシャカシャカといつまでも保存できない。しかも文章のなんでもないところで半角分の空きができる。しかもたくさん!!!!!!!
あ~~~~~~~~~~~~どうしたらいいんだよう~~~~~~~

慣れて使いやすいのについ固執してしまうのは私も同じこと。いろいろと考えさせられた一件でした。これから一字ずつ、半角分のスペースを落としていきます。落とし漏れがあるかも。何でこんなことを…とやる前から徒労感いっぱい。

最近ネガティブな話が多くて申し訳ありませぬ。
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医学界の怪

2008年03月14日 | 歴史、社会、家族
どこぞの国立か公立の医学部で、学位をもらったお礼を学部長と教授が受け取り、収賄の疑いで過去にさかのぼって捜査が入ったらしい。
本来なら公務員だからそんなもの受け取ってはいかんですね。でも学位にまつわるこれに似た話は聞いたことがある。広く行われている悪しき慣行では?

もちろんそれで具体的な便宜を図ってもらうわけではないけれど、長年にわたって同じ業界で仕事する以上、出さざるを得ない無言の圧力なんだろうか…怖いですねぇ。
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県立図書館に行く

2008年03月12日 | 歴史、社会、家族
写真は高松市、常願寺のカンアヤメ。

原爆の記事をいくつかコピーするつもりで午後から出掛けた。
久しぶりに行くとすっかりやり方が変わり、古いものはCD-ROM、新しいのはマイクロフィルムから探すことになっていた。

CD-ROMの方はいいとして、マイクロフィルムを読み取る機械の操作に職員の方が二人かがり。
「あれっ!!」「一度オフにしてエラーが消えたらどうたらこうたら」「ひゃあ、フィルムが切れそうで怖い!!」と言いながら、遅々として進まず。
時々、新聞の字が裏表反対になって画面に出てきたリする。フィルムの入れ方
を間違えてるんじゃない??

「あのう、お時間大丈夫ですか」と聞かれたので、「大丈夫ですよ。焦らずゆっくりしてくださいよ」と年長者の余裕。あくまでも余裕で対応する私。
三十分くらいすったもんだの挙句、やっとコピーができた。

粘り強くチャレンジした職員の方、気長に待った私、どちらも偉い。褒めてやりたいって…普段はマイクロフィルムの資料を見る人はいないのだろうか。
研究者ならわざわざ町中の庶民相手の図書館まで来ないしね。

がしかし、県立の図書館がこんなことで……備え付けた機械は職員の方は全員操作できるよう、研修した方がいいかもしれませんね。
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褐色が鮮やかな緑に

2008年03月11日 | 暮らし
元は褐色ですが、湯をくぐらせると緑になります。不思議ですね。
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