写真は数年前、京都市文化会館(だったかな)の催しに展示していた、「野宮神社」の牛車。学芸員の方に薦められて、つい乗ってしまいましたが、本漆塗りのピカピカ、指紋などが付かないよう気を遣いました。
中国に発注して一千万円、国内で作ると五千万くらいかかるとか。フェラリーより高い!!!・・・
今年は源氏物語千年紀だそうで、各地でいろいろな催しが開かれている。
千年も前に書かれた物語が延々と読み継がれ、その時々の文化に影響を与えた例は世界的にも少ないのではないだろうか。
源氏物語は、乱暴にまとめてしまえば四季の移ろいに載せて、人の気持ちと運命の移り変わりをつづった物語。(←乱暴過ぎ?)
物語の本当の主人公は誰にも止められない時間の流れではないだろうか。出会って愛しあった者たちも、やがて別れ、亡くなっていく。喜びと悲しみ、嘆き、諦め、嘆息、人が呼吸するリズムで続いていく長い長い物語。
そして、永遠に続く愛がないからこそ、愛はより深く、恨みも嘆きも深くなると読み替えてもいいのかもしれない。
高校でも「いずれの御時にか…」と始まる「桐壺」そのほかを習ったけど、今でも教科書にはあるのだろうか。たぶんあると思う。あれは国民的教養のひとつだから。
でも、みんなのよく知っている源氏物語は映画、ドラマにしょっちゅうなっているようですが、案外そうでもないんですね。
映画だと戦後では長谷川一夫が2回(光源氏と、続編で薫大将)を。新源氏物語の市川雷蔵。あとは実写版では1966年と2001年のみ。源氏役は舞踏家と宝塚の元男役。
テレビドラマではだいぶ前の東山紀之さん、そして1980年の沢田研二さんなど。映画にしてもドラマにしても光源氏役に耐えられる男性が出てこないと、製作はないのかもしれません。時代劇でお金かかるから、こけたら大変でしょうし。
やばい!!
人妻、その相手は父親、父親は天皇とタブー三倍増し。恋愛はいやがうえにも盛り上がり、苦悩も三倍増し。表情でそれを表現するのは大変です。
非労働者の恋愛ゲーム、都中心、貴族中心の物語とある評論家が言っていたけど、現実の生活が厳しく夢もないから、物語に酔うという面もありますよね。
近くの亭主より、遠くの光源氏、これですよ。
中国に発注して一千万円、国内で作ると五千万くらいかかるとか。フェラリーより高い!!!・・・
今年は源氏物語千年紀だそうで、各地でいろいろな催しが開かれている。
千年も前に書かれた物語が延々と読み継がれ、その時々の文化に影響を与えた例は世界的にも少ないのではないだろうか。
源氏物語は、乱暴にまとめてしまえば四季の移ろいに載せて、人の気持ちと運命の移り変わりをつづった物語。(←乱暴過ぎ?)
物語の本当の主人公は誰にも止められない時間の流れではないだろうか。出会って愛しあった者たちも、やがて別れ、亡くなっていく。喜びと悲しみ、嘆き、諦め、嘆息、人が呼吸するリズムで続いていく長い長い物語。
そして、永遠に続く愛がないからこそ、愛はより深く、恨みも嘆きも深くなると読み替えてもいいのかもしれない。
高校でも「いずれの御時にか…」と始まる「桐壺」そのほかを習ったけど、今でも教科書にはあるのだろうか。たぶんあると思う。あれは国民的教養のひとつだから。
でも、みんなのよく知っている源氏物語は映画、ドラマにしょっちゅうなっているようですが、案外そうでもないんですね。
映画だと戦後では長谷川一夫が2回(光源氏と、続編で薫大将)を。新源氏物語の市川雷蔵。あとは実写版では1966年と2001年のみ。源氏役は舞踏家と宝塚の元男役。
テレビドラマではだいぶ前の東山紀之さん、そして1980年の沢田研二さんなど。映画にしてもドラマにしても光源氏役に耐えられる男性が出てこないと、製作はないのかもしれません。時代劇でお金かかるから、こけたら大変でしょうし。
やばい!!
人妻、その相手は父親、父親は天皇とタブー三倍増し。恋愛はいやがうえにも盛り上がり、苦悩も三倍増し。表情でそれを表現するのは大変です。
非労働者の恋愛ゲーム、都中心、貴族中心の物語とある評論家が言っていたけど、現実の生活が厳しく夢もないから、物語に酔うという面もありますよね。
近くの亭主より、遠くの光源氏、これですよ。