この小説には島崎藤村の「破戒」の同じ部分が二度?引用されている。
主人公瀬川丑松が子供達の前で、被差別民だとカミングアウトして謝る場面である。
好き嫌いで言うと私はこの場面が嫌いである。まるで罪人みたいに、何でそこまで卑屈になって謝る必要がある。。。。と百年後の私は思ってしまう。
「破戒」は差別に苦悩する人の姿をリアルに書いたことで、文学史上の金字塔の扱いだが、明治時代の差別意識がどれほどひどいものであったかを今によく伝えている。それは作者島崎藤村も同様であろう。でなければ、瀬川丑松をなぜアメリカへと旅立たせる?
日本で生きさせてやれよと、私は思う。被差別民は日本にいてはいけないのかと。
翻ってこの作品である。この作品は私小説の体裁で、はじめに前書きとして小説を描くに至った経緯が挨拶文として出てくる。挨拶の主は主人公、五十嵐今日子である。ここからがもう小説なのだが、うかつな私はここは前書きと思って小説の最後まで読み、別れてしまったのでショックだった。
なのに表紙に著者自身の結婚写真を使っている。私は混乱してしまった。別れたあとでこんな写真使ってどういう意味なんだろうと?????
しかし著者自身は幸せに結婚生活を続けているらしい。(Wikipediaによると)
私の理解能力の欠如を棚に上げた上であえて言いますが、この最初の書き方、ちょっと紛らわしくないですか。そして表紙に自分の結婚写真使うと、限りなく私小説として読まれまてしまいせんか。
これ読むと結局「ああ、の人と結婚するのはとっても高い障壁がある」と思い、「のものは幸せになってはいけないのか」とむかつく基。
厳しいことを言うようだが、これでは差別の再生産。乗り越えたのなら、その乗り越え方をこそ、私は読みたい。愛はどんな障壁をも飛び越えるという感動的な小説になっていたのに。残念。
読者は人の不幸が好きだけど、おもねる必要はないのです。
著者の結婚前後の頑張りは敬服するし(小説の通りなら)、相手を思いやるその善意を疑うものではありません。しかしながら「破戒」からの百年は何だったのかと、しみじみと空しい。
昔の写真。鯉幟が大きすぎて、勤め先の屋上に立てさせてもらい、屋上に長男を抱いて上がっている若い日の同居人。三男が、ロック歌手みたいとあせっていた。
確かに、怪しすぎ。
主人公瀬川丑松が子供達の前で、被差別民だとカミングアウトして謝る場面である。
好き嫌いで言うと私はこの場面が嫌いである。まるで罪人みたいに、何でそこまで卑屈になって謝る必要がある。。。。と百年後の私は思ってしまう。
「破戒」は差別に苦悩する人の姿をリアルに書いたことで、文学史上の金字塔の扱いだが、明治時代の差別意識がどれほどひどいものであったかを今によく伝えている。それは作者島崎藤村も同様であろう。でなければ、瀬川丑松をなぜアメリカへと旅立たせる?
日本で生きさせてやれよと、私は思う。被差別民は日本にいてはいけないのかと。
翻ってこの作品である。この作品は私小説の体裁で、はじめに前書きとして小説を描くに至った経緯が挨拶文として出てくる。挨拶の主は主人公、五十嵐今日子である。ここからがもう小説なのだが、うかつな私はここは前書きと思って小説の最後まで読み、別れてしまったのでショックだった。
なのに表紙に著者自身の結婚写真を使っている。私は混乱してしまった。別れたあとでこんな写真使ってどういう意味なんだろうと?????
しかし著者自身は幸せに結婚生活を続けているらしい。(Wikipediaによると)
私の理解能力の欠如を棚に上げた上であえて言いますが、この最初の書き方、ちょっと紛らわしくないですか。そして表紙に自分の結婚写真使うと、限りなく私小説として読まれまてしまいせんか。
これ読むと結局「ああ、の人と結婚するのはとっても高い障壁がある」と思い、「のものは幸せになってはいけないのか」とむかつく基。
厳しいことを言うようだが、これでは差別の再生産。乗り越えたのなら、その乗り越え方をこそ、私は読みたい。愛はどんな障壁をも飛び越えるという感動的な小説になっていたのに。残念。
読者は人の不幸が好きだけど、おもねる必要はないのです。
著者の結婚前後の頑張りは敬服するし(小説の通りなら)、相手を思いやるその善意を疑うものではありません。しかしながら「破戒」からの百年は何だったのかと、しみじみと空しい。
昔の写真。鯉幟が大きすぎて、勤め先の屋上に立てさせてもらい、屋上に長男を抱いて上がっている若い日の同居人。三男が、ロック歌手みたいとあせっていた。
確かに、怪しすぎ。