日記

日々のあれこれ
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「幻の大連」 松原一枝

2011年08月31日 | 読書
著者は今年1月、95歳で亡くなった作家。
子供のころ大連で過ごし、その時のことを住んでいたものにしか分からないことを軸として、後から調べたことで補強しつつ書いたもの。僅か三年前の本なので、90歳を超えての記憶力、文章力にただただ脱帽である。

一言でいえば、戦前の大連は日本人にとっては豊かで自由な土地。また大陸の入り口なので人の往来も多く、国際色豊かな美しい街。そこでの暮らしが楽しく回顧されている。

著者の一家は敗戦前に東京に引き上げ、著者は同人雑誌を足がかりに、満州のことが書ける作家として世に出る。出版社の肝いりで内蒙古やロシア国境近くまで女一人で旅行したときの様子も面白い。

戦局はとうに不利になっているのに、満州の日本人の間ではそう逼迫した感じもなく、著者は大した危険も感じずに旅をしている。中国大陸は広い。前線はどこか遠い所にあり、大連に住む日本人は最後まで、大丈夫とたかをくくっていたのではないだろうか。

この中では甘粕正彦元大尉と船に同乗したり、川島芳子を何度も大連の町で見かけたと、歴史の生き証人のような話も面白かった。

ただ一つ不満を言えば、戦後、満洲国成立のいきさつや、無理な戦線拡大がわかり、また民間人が苦労して引き揚げてきたことなどもあったはずなのに、著者はどう感じたのかの記載が一切なかったこと。
人はいろいろな考えをしていいわけだから、是とするか否とするかは個人の自由。そこのところを正直に書いてもらえば、この本も時間の奥行きが感じられたと思う。残念。

豊かな生活も他国人の犠牲の上に成り立っていたのであれば長く続くはずがない。日露戦争から日本の敗戦まで僅か40年。大連は、遅れて世界デビューした日本帝国主義の仇花とあえて言っておこう。

今になって観光資源としての日本統治時代の遺跡、建物の数々。激安ツアーで結局は中国の旅行会社にぼったくられるのは先人の罪滅ぼしかもしれません。トホホホ。逞しき中国人のぼったくりの数々についてはいずれまた。
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「アカシアの大連」 清岡卓行

2011年08月30日 | 読書
写真はホテル30Fから見下ろす大連駅。

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群像1969年12月号に発表、翌年1月の芥川賞を受賞した小説。
作者についてはこちらなどを参考にしてください。

清岡卓行年譜

作者は長くセリーグ事務所に勤め、年間の試合スケジュールを作っていた人。野球が大好きだったらしい。

先日の大連旅行で、ガイドさんが「アカシアの大連という小説が日本にはあるでしょ」と話していた。40年も前の、日本人も忘れているような小説を中国人が知っているなんてびっくりして、久しぶりに読む気になった。確か本棚のどこかにあるはずと探しても見つからないので、初版本を取り寄せる。箱入り。そうそう昔は箱に入った本が多かったと思いながら読んだ。

懐かしかった。前に読んだ時は私も若かったなあとしみじみ。

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大連での戦争末期、死の観念に捉えられてひきこもる青年。戦争が終わり、周りは引き揚げを始めるが姉たちの婿は満鉄の技術者で、残るよう中国側から要請され、家族はそのまま大連で暮らす。が、それは永遠に続くわけではなく、一度は入学した東京の学校も休学したままである。

宙ぶらりんの大連の町で主人公は美しい女性と出会う。その人の仕事を手伝ううちに、生きる方へと気持ちを変えていく。

話としてはそれだけのことだが、長く評論と詩を書いてきた作者が、大連の町で出会った美しい女性で後に妻となった人の早すぎる死をきっかけに初めて書いた小説。

内地のしがらみから離れ、おしゃれで豊かな暮らしのできた大連の町。春になるといっせいに咲くアカシア=ニセアカシアの香りに町中が包まれる夢のふるさと。が、しかし、そこではもう二度と暮すことはできない。二度と帰れない青春とふるさと。日中国交回復まで、中国は日本人が自由に行くことのできない国でもあった。

自分の全てを形作った大連の町を、抒情いっぱいに定着した作品。今はこんな小説はおそらく誰も書けないし、書いたとしても読まれない気もする。気恥かしいまでの抒情も、大連を舞台にすると違和感がなくなるから不思議である。町の名前に独特のオーラがあるのかも。

山のふもとの主人公の家というのは大連テレビ塔の下あたりだったのだろうか。今は公園になり、そこから高層ビルの林立する町が見下ろせるだけ。海水浴に行ったり、旅順まで遠足に行ったり、日本人が雑誌を発行したり、日本人が自分の町として住んだのが大連。
今回初めて知ったのだけど、東西の本願寺に大連神社まであったそうな。大連が生まれ故郷と言う人は今はもう少ないだろうけど、40年前の発表当時は共感する人も多かったのでは。

あとでよく探したら、講談社の文学全集「われらの文学」で読んだんだった。道理でいくら探しても単行本はないはずです。こちら布張り。布張りの本も最近とんと見なくなりましたね。
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大連いろいろ

2011年08月29日 | 旅行
まだまだ大連ネタ、続きます。しつこいです。



大連駅は1903年にロシアが建てていたもの。1937年、上野駅風に改築。東北の入り口のイメージ?



宿泊したホテルは駅のすぐ横。渤海明珠酒店。明珠は真珠のこと、酒店はみなさんご存知のようにホテルのこと。こんな便利な場所にあるのに、駅まで買い物行くのもままなりません。出かけるのがガイドの張さんに見つかり「何かあったら自己責任ですからね!!」と言われましたです。



満州国時代の電車がいまだ現役です。レトロです。電車の前に人を掬うような部品がついています。



フラッシュは遠慮したので画像悪いです。室内は木材にニスを塗る古いタイプ。懐かしき昭和の香り。



電車の照明も超レトロ。日本のお座敷のような。どこからかバンドネオンが聞こえてきそう。



こちら満鉄が誇る当時世界最速の列車、アジア号をけん引していた機関車。1975年まで現役だったそうです。運転席に上がって見学できます。垂直のはしごをよじ登るのが面白いです。知人は怖いと下で待機。



大きいです。戦前の満鉄の株券は、この機関車の絵をあしらっていたそうで。以前被爆のお話を聞いた方によると、敗戦と同時に紙くずになった株券その厚さ20センチくらいは、あきらめきれないお父さんがしばらく家に置いてあったとか。

こちら


満鉄の在りし日の雄姿。ただし機関車の音は別物。音が違うとチェック入れるのは鉄道マニアの人でしょう。息子用に、今回の鉄道写真を入れて専用ウェブページ作って見せたら喜ばれた。息子は鉄ちゃん歴三十有余年。いつの日か仕事が暇になって海外へ旅行してほしいもの。

そのほかには



旅順博物館。日本統治時代に作ったとか。現地の文物のほかに大谷探検隊のものも。東洋の「大英博物館」を目指したとも言われている。デザインもそれらしく。おそらくその頃は東洋の盟主になるつもりだったのでしょう。

さらには



乃木将典の長男が、日露戦争で戦死した金州の南山古戦場。ゴミ解体業者の横を通ってここまで登る。ガイドの張さんは「上には何もない」と言ってたけど、ロシア兵の慰霊碑はあるらしい。言えばまた文句言う人がいそうで黙っていたのかも。中国とロシア、日本の関係を思い知らされる。



振り返れば発展著しい大連市金州区。港に面し日本企業も多く進出しているそうです。



金州は清の時代、清朝の提督府のあった古い町。2001年、傷んだ建物を修復して公開していたそうですが、今は荒れています。管理人もいるんだけど、朝からカードケームして、お客さんに無関心、お金も徴収しません。駐車場のほかに、一部は畑に。茄子やカボチャを作っています。



屋根の上の動物たち。謂われを説明されたけど忘れた。



正岡子規の句碑。「行く春の酒をたまはる陣屋哉」
日清戦争の従軍記者として金州に来て、旧松山藩主にごちそうされたとき詠んだそうな。
愛媛県出身の満蒙開拓団が作った句碑が近年見つかり、日中友好の証としてここに置かれたとか。というか、たぶん日本人観光向け。地元の人は無関心のようでした。

またこの史跡自体が荒れ果てています。

正岡子規は広島から1895年四月に出港。その前に比治山でで詠んだ句の句碑があります。私も写真撮りに行けばいいんだけど暑いのでリンクをつけます。

正岡子規、広島の句碑

「ひろしまぶらり散歩」のページです。広島の情報が盛りだくさん、いつも参考にさせていただいています。ありがとうございます。






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大連 近代の面影・・・2

2011年08月28日 | 旅行
日本が中国に進出した時には西洋風の建物を建てましたが、ロシアは自国の様式をそのまま持ってきたようです。

なぜ?日本の近代化はひたすら西洋に追いつくのが目標。ロシアは自分たちの様式に自信を持っていたのかな。今になればそこだけ異国が埋め込まれたような不思議な空間になっているのが旧ロシア租界。ロシアは、まさかすぐに日露戦争になるとも思わず本気で大連を経営しようと思っていたはずです。



アカシアと建物



屋根の形いろいろ



ステンドグラス



大連の町は中山広場から放射状に10本の道が延び、ヨーロッパのような街並みが作られました。なぜか広場の周りは塀がめぐらされ、美しい街路が一望できないようになっています。向こうの塀の出入り口が空いていたので外へ出て写真を撮ろうとしたら、見張りをしていた男性に追い払われました。ちょうど一週間前、大連では市民のデモがあり、警備が厳しくなっているのかも。残念です。

大きな木の間から丸い屋根が少し見えているのが1910年完成の大清銀行大連支店、現在は中信銀行中山支行。

左の建物は1950年コンサートホール兼劇場として造られた大連人民文化倶楽部。



旧ヤマトホテル=大連賓館の説明板。完全に日本人向けですね。川島芳子もここで結婚式を上げたとか。



反対側の旧横浜正金銀行。1909年完成。現在は中国銀行遼寧省分行。



右の黄色っぽい建物は1936年完成の旧東洋拓殖銀行大連支店。国策としての植民地事業を進めていた半官半民の会社。現在は交通銀行大連市分行。

現在もこの付近は大連市の中心として、金融機関その他が集まり美しい町並みを見せています。塀がなければ言うことないんだけど、現在の中国政府は人民が広場に集まること自体を警戒しているのでしょうか。

このあと日本は張作霖の爆殺事件から満州事変、満州国成立、日華事変と中国大陸へ戦線を広げるのでした。



こちらは旅順にある「川島芳子」が一時住んだ家。1911年の辛亥革命で清朝王族の「川島芳子」一家は日本の参謀本部を頼って旅順にのがれ、この旧ロシア軍官舎に住んだ。当時は10代?
非公開で今はだれも住んでいないらしい。



その説明板。「日本間諜」とある。歴史の激動期、日本と中国の間で翻弄された数奇な運命。合掌。
旅順はこのほかにもたくさんのロシア時代の建物が残るらしいが見学せず。旅順駅向かいの警察署もそうらしいが、写真撮るのはちょっと怖くて遠慮した。



旅順の旧ヤマトホテル。大連では一応ホテルだけど、こちら招待所。安い宿だそうで、外国人は宿泊しない方が無難のようです。

そういえばツアーでお世話になった男性が、カトマンズ…?だったかなでパスポート、お金少々、一週間先の航空券以外を盗られたことがあったそうで。サバイバル生活を話しておられたけど、外国旅行は危険と隣り合わせ。自分自身のこととして肝に銘じたいと思います。

大連は日本関係の観光地が多く、狭い場所に見どころ満載。ここに住んだ人はもう高齢になっているはずてだけど、訪ねてみればきっといろんな思いがよぎるのでは。



こちら大連港第二ふ頭。日本が戦争に負け、中国にいた日本人約20万人がここから引き揚げたそうです。荷物は手に持てるだけ、命だけを携えて何年にもわたりたくさんの人がここから日本へと。戦争に負けるとはそういうことなんですね。中国の奥地からここまでたどり着いた人たちはどれだけほっとしたことでしょうか。今は飛行機で大連~岡山が2時間くらい。当時は舞鶴まで二日かかっていてたそうで。

そういえばツアーの中に「ハルビン生まれ。五歳で親に連れられて引き上げた」という方がいました。「何も憶えてないけど、舞鶴に着いたのだけは憶えている」そうで。ガイドさんから「ハルビンも旅行しやすくなったから是非行ってください」と言われてましたけど。。。。

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楽しい中国

2011年08月27日 | 旅行
あまり細かなことにこだわらないのは国民性。頭の凝りをほぐして、ゆっくり周りを見渡せば楽しいことがたくさん見えてきます。



今年はウサギ年。中国も日本も同じ。それが嬉しい。ウサギも嬉しい。よかったよかった。大連テレビ塔で。



旧満鉄本社敷地内のマンホール蓋。Mに線路の断面を組み合わせる。このタイプはアジア号を保管する倉庫にもあった。



これってミッキィ…じゃなさそう…星海公園で。星海公園は日本人が開発した海水浴場。日曜日で大勢の人でした。



旅順博物館で。大谷探検隊がインドから持ち帰った仏像いろいろ。勝手に連れてこられて怒っているみたい。



自動車の振りして実は三輪車。三輪車に車のボディを乗せたもの。地元メーカーマツダも昔はこんなに作っていたらしい。



金州の旧提督府。正岡子規の句碑のそばで地元の人たちがカードでゲームをしている。句碑を喜ぶのは日本人だけ。



大連駅に隣接する超市=super market。ここで私はなんちゃって茅台酒まおたいしゅを買いました。詳細は省略。うーーーむ、中国人は逞しい。




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大連、食べものいろいろ

2011年08月26日 | 旅行
三泊四日の激安ツアー、食事は栄養補給と割り切りそう期待してませんでした。まあまあだったかな。本当はもっと美味しいものがありそうだけど、それはまたつぎの機会にということで。



行きの機内食は軽食。中国東方航空。



ご飯代わりのパン。食べやすい。



大連ビール。レストランでは25元。



海鮮料理の店。持ち帰り用の魚の販売もあり。ナマコの左上は蚕のさなぎ。



魚は日本とほぼ同じ。海が繋がってるもんね。



大連駅地下街は韓国の食材、小物、海産物の干物などを販売。看板の後ろが地下への階段。大連駅はロシアの建てたものを1937年、上野駅に似せて建てたとか。いずれも東北への入り口ということでしょうか。



バスの中で土産物の試食販売。こちらウーロン茶のクッキー。



餃子は東北地方の名産。でもなんか冷凍っぽかった。仕方ないか~激安ツアーなので。日本人向けに焼き餃子も。



夜、夜店へ。こちら果物屋。



ミカンはちょっと高いらしい。



スモモの量り売り。100gの値段らしい。



帰りの機内食。ポークライス。ビーフヌードルとどちらかを選ぶ。二時間のフライト、水平飛行になってからのサービスなので忙しそうだった。

朝はホテルのバイキング、あとは昼と夕は毎日中華料理。日本のようにきれいに盛り付けしてなくて、ドンと出てきます。いろいろ食べられて良かったけど、味は日本の方がメリハリがきいておいしいかも。







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大連、近代の面影

2011年08月25日 | 旅行
大連は日本が中国へ進出する足がかりとした港町。今も当時の面影が残ってます。



1898年、日清戦争後の三国干渉でロシアは遼東半島を租借。旧ロシア租界のメルヘンティックな建物群は今は主に商業施設に。



1903年、ロシアは、東清鉄道の終着駅として旅順駅を開業。ロシア風の駅舎。



1904年から1905年、遼東半島を主戦場として日露戦争。1905年、203高地攻防戦。現在の203高地をバスの車窓から。



頂上近くまで車道あり。残り10分くらいを徒歩で登る。いざ出発。歩けない人は1,300円だったかな(高けぇー)払うと頂上までワゴン車の送迎あり。



頂上から。きょうは晴天、旅順港がよく見えます。



1905年、日露戦争の講和条約を調印した水師営会見所は復元されたもの。元は農家の納屋だったそうで。



1906年、南満州鉄道株式会社(通称満鉄)設立。本社を大連におく。建物は、現在、鉄道関係の役所と軍が使う。



重厚な造り。



1906年、日本は、旅順に関東都督府陸軍部を置き、鉄道などの権益を守備する。満州事変後は関東軍司令本部。満洲国成立後は本部は新京(現在の長春)へ移る。建物はロシア時代の1904年以前に建てられ元の用途などは不明らしい。近年改装され、現在は関東軍司令部歴史博物館。

この手前まで来た時、年配男性のツアー客とガイドが、張作霖爆殺事件と満州事変について見解の違いから言い争い、一気に緊張した雰囲気に。結局この建物前まで行かずに引き返す。
「さらに尖閣諸島問題をどう思うか」と話に出て、「政治の話は出さないようお願いします。私は学者ではなく一ガイドです」などと返す場面も。

うーーーん、歴史や政治については個人の見解はいろいろ、ツアーでそんな話を持ち出さない方がいいのでは。文句あるなら、自分より下の立場のガイドではなく、せっかく中国に来ているのだから北京の中国政府に抗議してほしい。
話し合って分かりあえるものでもないでしょう。わかり合えないということを確認したのは収穫だったけど。



満鉄は最盛期には85もの会社を経営していたとか。こちら満鉄経営の旧大連ヤマトホテル。1914年完成。現在は大連賓館というホテルに。



エントランス。重厚。



一階ホール。豪華

あす以降、まだまだ大連の歴史は続きます。乞ご期待。
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大連の逞しき人々

2011年08月24日 | 旅行
今回利用したツアーは阪急交通社岡山発直行便で、「大連・旅順・金州4日間」のツアー。大連駅隣接の「渤海明珠酒店」へ三連泊。移動がなくて楽でした。日程もまあまあゆっくり。北京、上海などでは見られない中国の生活も見えて楽しい旅でした。



ホテルの前は大連駅の駅前広場。路面電車やバスの乗り場もあり、賑やかです。写真の電車は満州国時代のものだとか。1元均一運賃です。二日目の夜に乗りました。室内は木材多用で超レトロでした。

歩道もありますが、歩道でない所も自由に歩いています。車優先で、車は停まってくれないので左右をよく見て渡ります。中国人は上手に渡り事故もないのですが、見ていて怖い。決まりを作ってその通りにことが進む日本。こちらは臨機応変の中国的秩序。




星海公園は日本統治時代に開発された海水浴場。大勢の人で賑わっています。人もたくさん、鳩もたくさん。



午後は旅順へ。満鉄経営だった旅順ヤマトホテルは一階に店が入り、上階は安いホテルになっています。周りには露店がたくさん。



旅順から列車に乗り大連へ帰ります。



農村地帯を走る列車。ホームは低く、お客さんは梯子につかまって乗車します。



家族の荷物を自転車に乗せて見送りに来たお母さん。犬と一緒に今から帰ります。白い柵の手前が一応、駅のようです。



夜は夜店に。雑貨が安いです。知人が私の持つ扇子二本、合計8元を5元に負けるよう交渉中。なぜか日本語のとてもうまい美人の中国人女性は、彼氏とどこかへ行ってしまいました。店のお兄さんはなかなか負けてくれません。シャツにはスーパーマリオに似たキャラクターが。



果物は包装なしの量り売り。桃は二個で4元、一個25円くらい。ブドウは一房5元、70円くらい。近郊で出来たものらしく新鮮でおいしいです。知人と二人、夜、ホテルでいただきました。



翌日は観光もほぼネタ切れ。金州へ出かけ、金州博物館へ。展示物も少なく、時間をもてあまします。博物館の前を、大きな袋に草を入れて男性がゆっくりと歩いています。



清代の役所であった金州副都統衙が復元されています。その前を通る自転車の振り分け荷物。私が子供のころは大人がよくこんなふうに荷物を運んでいました。



三日目、満鉄アジア号を展示しているのは鉄道関係の倉庫のようです。その近くまで行くと、鉄道関係の制服でしょうか、たくさん干しています。車の上にも。
車は右側通行ですが、臨機応変に。バスのドライバーさんも慣れたものです。そして大連のアカシア。



極めつけはこれ。道路の真ん中に何十人も人が集まっています。交通事故?で若い男性が二人顔から血を流しています。ガイドさんいわく「殴り合ったんでしょう」とのこと。道路の両脇からもひとがどんどん集まって来ます。車は人をよけながらも順調に流れています。

携帯をかける男性は服が大きく敗れ、傍らの女性にしっかりと服を掴まれています。車線変更で接触したみたいです。日本なら接触くらいではまず殴り合わないのでは。彼我の国民性の違い。

今回は中国の人たちのたくましさを改めて実感しました。便利で清潔で力をつかわなくて済む日本人は、中国人の気迫に初めから負けているのかも。もう二度と中国と戦争しない方がよさそうです。
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大連の反省

2011年08月23日 | 旅行
四日間、中国の大連に行っていました。大連とはこんな感じの町です。



ホテルの窓から、朝。ビルとビルの間に、旧ロシア租界の素敵な屋根の建物が見えます。



というようなところへは10分間だけ下車観光、あとはこんな所へ行きます。お茶の説明を受けてからお茶を買います。中国は三度目ですが、行くたびにお茶が高くなるような気がします。
話をよく聞いてなかったのでうろ覚えですが、普通サイズのお茶缶で\2,000から\3,000くらいだったかな。それを四個買うと一つおまけがつくというようなお店です。。人さまが売り、人さまが買うのだから私は黙って見てましたけど。。。。



昨日、夕食へ出かける前の自由時間にホテルの近くの店でいろいろと買い物。ジャスミン茶は4元(=約50円)、これ二袋でお茶缶一つ分くらいです。三袋の堂々の大人買い。しめて12元(=約150円)

ツアーの皆さんと安く買えた話で楽しく盛り上がっていたら、お世話になった中国人ガイドさんの言われるには「そんな安いものは中身は何か分からない!!!!」だそうで。

で、淹れてみました。



美味しいジャスミン茶でした。超高級ではないけれど、家で飲むには充分。そういえばツアー中、薄く色のついた白湯のようなお茶しか出てきませんでした。お茶がまずいくらい情けないことはない。あとは押して知るべし。しょうがないか、安いツアーだから。グスン、、、



枕もあります。頭髪が薄くなるのを防ぐ機能のある枕とかいろいろあるそうです。手前は夜店で買ったプラスティックの扇子5元(=約70円)です。



いえいえ人様のことは申せません。流れでこんなものを買いました。横にあるのはおまけの種肉入。



象です。銅と真鍮?



後ろはこんな感じで。

値段を正直に夫に話すと「エッ」と絶句したなり顔が引きつりました。はい、反省しています。毎日眺めて、この反省をこれからの生活に生かしたいと思います。










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会津いろいろ紀行

2011年08月20日 | 旅行
8月12日、五色沼と会津磐梯山へいったあと、会津若松市内のホテルへ向かう道すがら…



夕焼け空に突如浮かび上がる巨大観音



大きいです。何なんでしょう?



横顔。お城みたいな建物の中にあって、きっと喜多方ラーメンも食べられる????
あとで調べたら「会津慈母大観音」という観音さま。個人が建てて、ここは「会津村」という観光施設らしい。最近宗教法人にもなったとか。3月11日の地震にも耐え、これからも来園者を優しく迎えることでしょう。



翌日13日は夫は安達太良山登山、私は午前中会津若松を見学して夜までに広島へ帰ります。



JR只見線は7月末の豪雨で線路が流され、現在間引き運行。列車内に懐かしい扇風機が。久しぶりに見た。



一つ目の駅七日町で下りて街を歩く。昔の商業の中心地で、古い建物や近代洋風建築がよく残る。それは別にまとめてご紹介したので省略。街にはこんな標語が。



野口英世青春館にある、英世の使っていた机。100年くらい前になるのでしょうか。
初めは玄関番として医院に住み込み、毎夜二時、三時まで勉強していたそうで。



こんなポスターも。堀内さんは行列に参加?松平容保に扮するのかも?会津人の誇りを感じるポスター。

途中、男子高校生に城までの道を聞く。丁寧に教えてくれた。
城下町の賢そうな男子高校生。白い開襟シャツ。少年には、この盆地の土地を出たあと、きっと洋々とした人生が開けていることでしょう。そう、野口英世のように。

それにしても…白虎隊の少年たちもこの年頃だったんだなあ。若さが眩しい私はついウルッとする。



会津若松城。立派なお城です。戊辰の役では、上野彰義隊のようにすぐに片がついたと私は勘違いしていたけど、1か月も籠城したそうで。東北人は粘り強い。写真に一緒に納まるアルバイトの方も暑そうです。



いよいよ会津ともお別れ。磐越西線の車窓からはいろんな角度で会津磐梯山の堂々とした姿が見える。稲も青々と育ち、豊葦原瑞穂の国のめでたさ。早く原発がおさまり、福島が復興しますように。

この美しい自然がいつまでも残ってほしい。そう思う眺めでした。

只今知人と中国旅行中。これは予約投稿しています。コメントのレスは帰国後になりますが、なにとぞご容赦ください。

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会津若松・七日町かいわい

2011年08月19日 | 旅行
JR只見線で会津若松から一駅、七日町で下りると商業で栄えた町の面影を残す町並みが。



これに乗っていきます。午前七時台、乗客はほとんどありません。



数分で七日町。無人駅



昔の商家?



骨董店。似た店はいくつかあったけど、朝が早いのでどこもまだ開いてない。



明治以後も商業の中心だったらしい。元は呉服店(塚原呉服店)で今は野球用品を売る店らしい。



その細部。



業種不明?



立派な造り。



造り酒屋



洋風建築。活性炭製造輸入販売をされているようです。



角を曲がるとまた街並みが。



時代劇みたい。



陶磁器店。二階の壁の厚いことから、火事の多い土地だったのかも。



こちらも造り酒屋。間口広し。



竹屋。竹の用途、広島ではカキ筏用がほとんど。京都は建築資材。会津でも建築資材?伝統的な日本家屋が多いのかも。



とても立派な商家。開いていたので、ここでお土産を少し買う。建物の由来など聞けばよかった。残念。



二階も立派。



蔵も付いている。手前は旧会陽医院。現在喫茶店と野口英世青春館。

会津若松は「戊辰戦争で頑張った頑固者の土地」という認識でしたが、明治以後も会津地方の中心として発展したことがよくわかりました。また幕府がさっさと降参したのに、親せき筋の会津藩が激しく抵抗したのは、徳川家末端に連なることが殿さまから臣下までの心の支えだったからでしょう。

松平容保が着用するのは天皇拝領の陣羽織だそうで。尊王攘夷に頑張って薩長を倒せと言われたら、そりゃ頑張るでしょう。会津城の展示は容保と白虎隊にも多くを割いていました。会津の人たちには忘れられない歴史でしょう。

そういえば震災の後、会津地方へ自衛隊の山口の部隊が支援に行くとかで、手締めの儀式があったとかニュースで見ました。150年経っても、土地の記憶というのは容易に消えないものと思われます。








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「天上紅蓮」 渡辺淳一

2011年08月18日 | 読書
平安時代末期の白河法皇と愛妾璋子(たまこ)の物語。62歳と14歳で恋愛関係になり、孫の鳥羽天皇に嫁がせても付き合いが続き、法王の子を産み、のちの崇徳天皇になる。

白河法皇と璋子さん、やりたい放題。法皇は日本中の一番の権力者、だれも逆らえない。その上若い女性と付き合うだけの体力がある。これって男の夢見る老人の理想の姿。璋子さんは法皇からいろいろ教えてもらったそうで、このあたりの書き方はやらしい。やらしいのを下品に書くのは簡単だけど、頑張っていろいろと想像力を刺激するように書いている。最近元気のない中高年の男性はぜひとも読んで、気持ちだけでも青春時代に立ち返っていただきたい。

で、女の私が読むと、なんか男の人に都合のいい話だなあとしらけるのだけど、最高権力者も老いには勝てず、天皇の妃にして法皇の愛人という恵まれた立場の璋子も後ろ盾を失い、新たな妃も立って何かと不本意なことが増えてくる。

満ちた月はいつかは欠ける。後半の日本的な無常観が読ませどころかな。最後は落飾した璋子が法皇の幻と魂の交歓をするところで終わる。自然と溶け合う二人の人生。

資料をたくさん参考にして史実にのっとりながらも、小説家の想像力で味付け。やらしくもやおい小説。まだ子供の女の子を自分のものにするとか、不義の子を産んで、その子が天皇になるとか、源氏物語っぽい所もある。面白く読みました。364ページと大部ながらすぐ読めます。挿画、装画もきれいで楽しめます。

写真は今年3月。京都で。
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福島県、東吾妻山付近の花

2011年08月17日 | 旅行
西吾妻山付近は標高1,600m~1,900mくらいの亜高山帯。砂礫地、湿原、樹林帯、火山とそれぞれの環境に適応した花や木が見られます。短い距離で次々と花が替わるので見飽きません。



浄土平にある説明板



ヤマハハコ 乾燥地に



マルバシモツケ 赤いのは実



ミヤマアキノキリンソウ 季節はもう秋



マイヅルソウ こちらも実



ミヤマホツツジ 花も終わりかけ



ゴゼンタチバナ 実



コバイケイソウ 花も終わり 毒草



チングルマ こちらも実



チングルマとエゾオヤマリンドウ 花が茎の上にだけつくのがエゾオヤマリンドウ



イワオトギリ



ウメバチソウ 浄土平で見かけた



コイワカガミ 花は終わっている。残念!!



オオカメノキ 桶沼湖畔で

福島市のこの日の気温は34.2度と猛暑。でも山の上では夏から秋へと、足早に季節は移っているのでした。
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東北の山、東吾妻山へ登る

2011年08月16日 | 旅行
8月11日に登りました。

            


福島駅前でレンタカー借りて、磐梯吾妻スカイラインを目指します。

           

気持ちのいい田園地帯を走ります。向こうの雲のかかる辺りのようです。



道路は現在無料。ぐんぐん高度を稼ぎます。活火山帯です。山は曇ってます。



浄土平にはレストラン、みやげもの屋、案内所、天文台などがあります。そこから鎌沼経由で山頂まで。片道一時間半の予定。向こうに見えるのは一切経山、明治時代には大噴火したそうで盛んに噴煙を吐いています。こちら側からは登山禁止です。



少し上がると吾妻小富士が見えてきます。



湿原、木道、湖。そして誰もいない静かな眺め。極楽。



山頂が見えてきました。右手から回り込みます。ガスってます。



山頂は真横から吹きつける強い風雨。寒い)))))真っ白で何も見えません。



ただちに撤収。風、強いです。向こうは下山方向を示す道標。頂上は平らなので天候が悪いと下りる方向を見失います。



だあれもいません。聞こえるのはヒュウヒュウと風の音だけ。



下山して桶沼へ。だあれもいません。



湖畔に斎藤茂吉の句碑が。「五日ふりし雨はるるらし山腹の吾妻のさぎり天のぼりみゆ
ったく。きょうもその通り。いつも雨や霧の多い所なのかも。



駐車場に戻り吾妻小富士へ。こちらは観光客多数。カルデラをこわごわ覗きこむ。



駐車場に戻って今夜の宿、新野地温泉を目指します。お天気はいまいちだったけど、人がいなくて静かな山旅でした。
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東北、美味しい旅

2011年08月15日 | 旅行
今回の旅行は仕事終わって新幹線で東京まで。

品川の○ランドプ○ンス新○輪ツイン、素泊まり一人3,700円へ宿泊。どんな屋根裏部屋かと思ったらちゃんとした部屋でした。いゃあ、民宿より安いなんて、ありがたい。

品川駅から上り坂を10分くらい歩く。夜10時過ぎても、ものすごく蒸し暑い。都会は暑いのかしら。東京でクーラーなしの節電なんて、ちょっと難しいのではと思った。



若い時はもちろん東京大好き、東京は一日かけてワクワクしながら行くところ。今はこんな宿に心ひかれます。
「日本秘湯を守る会」のちょうちんがかかってます。

         

夕食、若い仲居さんが部屋まで持って来てくれます。東北美人の摺れてないはとっても感じのいい人。思わずチップを差し上げようかと思ったくらい。上げなかったけど。この後次々料理が来ます。

山の幸いろいろ。特に美味しかったのが、鯉の洗いとこんにゃくの刺身。酢味噌で。

          

          ごま豆腐

          

          鯖の味噌煮。味がよく染みて骨まで軟らかい

さらに天ぷら、ご飯、汁もの、デザート、食前酒にはおかみさん手作りの梅酒がグラスに1杯と量もとっても多い。途中から写真はやめて食べるのに専念。

デザートは果物の三種盛り。さすがくだもの王国福島。

          

朝食は大広間で。こちらも美味しく頂きました。

お値段はホームページの割引券持参で一人9,975円でした。こちらも驚きました。

宿へのアクセス。今回は福島駅前でレンタカー借りて途中山へ登って行きました。駅前から土日はバスが出ているようなので、それで行かれてもいいのでは。八月のどの日もまだ空きがあるようです。

露天風呂で夫が「福島を応援するために来た」と相客に話すと「福島県民を代表してお礼言います」と言われたそうで。

           

すみません、食べかけで。ラーメンはどこでもとびきり美味。麺は太めで腰があり、スープは辛くなくこってりでもなく。広島のラーメンは麺が柔らかすぎ。激辛とかの色ものに走り過ぎ。ごまかしのない味は東北の気風かも。

           

福島駅から少し行ったところの果物直売所看板。桃が激安。量り売り。試食し放題。宿で食べる分だけ三個買ったけど全部で200円なんて感動の安さでした。とーーーっても美味しい完熟した桃、50個くらいが二千円の大箱もありました。

           

桃は風評被害が大変らしい。農家の方が気の毒です。写真は読売新聞福島版から。
試食させていただくとき、夫がつい「放射能は大丈夫ですか」と聞くと哀しそうな顔をされていた。紺野果樹園様その節はどうも済みませんでした。今日にでも自家用に取り寄せようと思っています。

いかんなあ、東北で太った。。。。
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団塊の世代

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