上下逆さにしました。
三角形を山に見立てて、朝霧とタイトルを考えました。
きのうは潮騒だったんですよね。
かくのごとく、いーかげんな私。
美術館だと、薄い発泡スチロールみたいなのを裏に貼って厚みを出すけど、これはハガキ用紙。
少しだけなので手書き。パソコンで書くのは却って手間がかかる。最近、プリンターも全然使ってないし。
やれやれ、一休み。
桜餡のきんつば。ひんやりと春の味わい。
気が付けば2月ももう終わり。春が待たれます。
紺色つながりで
10年前、名古屋へ行ったとき、瀬戸まで足を伸ばして、旧窯元のお宅の座敷で休憩させてもらった。
テーブルセンターが和風。
アメリカで陶芸を勉強する年配のグループの人たちと遭遇。
次の展示では、自分の織ったものを組み入れてテーブルセンターにしたいなと思う。
織ったもの一枚では、薄くてたくれて邪魔になって、全然使ってないのです。
裂き織りをする地元の友達と、次は二人で展示しようと先日約束した。
上の縁の布は、帆布か酒袋のようなしっかりした布。結局はセンスなんてすよね。
たくさんいろいろなものを見て、ヒントをもらいたいものです。
本日の断捨離。
片手に箒を持って階段の掃除、もう片方の手にはテキトーに抜き出した本三冊。
小久保氏は地元作家で、芥川賞と直木賞の両方の候補になられた方。もう故人と思います。
40年くらい前、全国的に、新聞社などがカルチャーセンタを始め、中国新聞の講座でも小説教室がスタート。小久保氏が講師に。
私はもう行きたくて行きたくてたまらなかったのですが、子供が4歳と3歳とか、そんなかんじ。週に一度の2時間を工面する才覚がなく、仕方ないので誰に教えてもらわずに一人で小説書いていました。
えらいですか?
全然。
やむにやまれず、もうそうするしかなかった。としか言いようがない。
パソコンもワープロもない時代、推敲、清書には本当に苦労しました。明け方まで起きていて、翌日は10時ころから寝る。の繰り返し。それでも体壊さなかったのは若かったからでしょう。
2年後くらいでしょうか、市が市民から文芸作品各種募って本にする事業が始まったのが。たまたま子供を体操教室に連れて行って、その施設にポスターが貼ってありました。だいぶ前から募集していたのに全然知らなくて、締め切りまであと一か月。
これは割と楽に書けた記憶が。100枚まで。私は97枚。トントンと原稿用紙を揃えて、キリで穴を開けて紐を通して封筒に入れて。
子育てに追われ、日常にまみれた30代の大いなる達成感。
その時は二席で、一席は小久保氏の教室の同年齢の女性でした。選者も小久保氏。教室には行けなかった私だけど、拾ってもらって嬉しかった。
そのあと、中国新聞が主催で「地元文化人の集い」なるものに呼ばれ、出席して小久保氏とも少し話しさせていただいた。
夏の刻印はご自分の体験をもとにした作品で、戦争で死んだはずの自分が、原爆でたくさんの人が亡くなった広島へ生きて帰ってきた。あの戦争は何だったんだろうという問いかけ。
ある時、原爆で死んだ人はコカ・コーラも知らなかったと気が付いて、それからコーラが飲めなくなったと、話していたのは他の人だったかな。
この時一席だった人から、ずっと後に一緒に同人雑誌やろうと誘われたけど、もう売れる原稿しか書かないとお断りしたんだったかな。(といいつつ、今日も駄文を書く私)
原爆を、正面から小説に書く人もいなくなって、それは時代の流れだから仕方ないんだけど、今の時代の困難をどう定着させるかという、大きな構えの作品をそろそろ読みたいものであります。
今期の芥川賞はウーバーイーツか何かの配達員の話でしたか?久しぶりに読んでみましょうか。
さて、されどわれらが日々です。初刷が1964年、この本は72年の83刷。ものすごく売れたんですね。私は1968年頃、正門横の古書店で買った記憶があるので、たぶんそれは人に貸して帰ってこなくてまた買ったんだと思う。
10年前にも文庫本で読んだ。失恋するくらいで自殺してはいけないとか、結婚の日取りまで決まっているのに東北へ行って教師になって、式場のキャンセル料はどうするの?とか、つい要らんこと考えたのはそれだけ私も年取ったからでしょう。
ベストセラーは高く売れないはずだけど、よかったら買ってください。
あとは会場に掲示するタイトル、案内のはがき。搬入の荷づくりに、無料で貸してくださる会場へのお礼を買うなどなど。
あと少し、頑張ります。