日記

日々のあれこれ
前のはこちら→https://blog.goo.ne.jp/kawashima134

ガスorIHヒーター?

2011年01月31日 | 暮らし


写真は昨日紹介されたレストラン。はじめのころは友人、家族でよく行っていた。今は家で白いご飯に簡単なおかずのほうがしみじみとおいしい。年とるとみんなこうなのかしらん?
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17年使っているガス台が、さすがに使いにくくなってきた。この際思い切ってシステムキッチンにすればいいのかもしれないけど、実家の台所、高くて奥行きも長くて小柄な(縦に)私にはとても使い辛い。今までのセットに組み込むタイプでガスとヒーターとどちらかかな????と最近あちこちの店を巡っている。

うーーーん、ガス台も今はずいぶんフラットになったけど、やはりIHヒーターを見ると掃除が簡単そうで、迷ってしまう。

けさ近くのデオデオでいろいろ説明を聞いてきた。うーーーむ、知らないうちに世間はとんでもないことになっているようで。。。。全部の鍋に対応するのは結構高い。我が家はアルミの鍋。それは使えない機種もあるとか。やれやれ。

それに全機種に魚を焼くロースターがついている。自動で掃除するという実態は高温で汚れを焼いて受け皿に落とすそうで。その受け皿を掃除するのは誰よと思わず突っ込みたくなる私。

向こう側の排気口もどうにかなりませんかね。落ちた水分は自然に蒸発させるそうだけど、落ちた10円玉はどうよ?その際は最悪メーカー修理になります。ですって。

私の希望、加熱部分は三つ。魚焼きなどはいらない。掃除が面倒。17年前、探しに探してやっと見つけた一つを流し台ごとつけてもらった。今回もそんなガス台を探したけど、家庭用では皆無。

いっそのこと、ホームセンターで数千円で売っている一口の1Hヒーター、あれをもう一つ買い足して、魚焼き器はテレビショッピングで追加。これだと合計1万円くらいの出費。毎日避難生活キャンプ生活みたいで、それはそれで楽しいかも。夫とけんかしたら、各自、ヒーターひとつ持って別々の部屋で炊事。あ~~、考えたらだんだん楽しくなってきた。

「そっちのおかずおいしそう、ちょっと頂戴」「だめ、これは一人分しかないのでやれん」「ふん、ケチ」「ケチはどっちや」などと夫婦の会話もいやが上にも盛り上がる…なんて冗談はさておき、うーーーん、どうするよ。。。。

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県北の豪雪

2011年01月29日 | 広島案内


近所の理髪店の外壁にかかっていた写真。これ以上アップにすると著作権的にまずいと思うので大きいのはやめておきますが、大変な豪雪です。

左端の写真では、スコップで除雪していますが、作業する方の頭しか見えません。右端のは、屋根から今にも落ちそうな雪。

こちらへ来た18歳の十二月、毎日粉雪が舞うのでびっくり。海を隔てた斜め向いの県では一月末から二月はじめの一週間はさすがに寒かったけど、それでも制服のみでコートなし、短いソックスに生足、プリーツスカート翻して自転車通学していた乙女だったもんね。

学校の門の付近でたまたま出会った同じサークルの男の子(自宅通学)に「(ここは)こんなに寒いんですか」と聞くと相手はムッとして「今年は寒波が来てる。わし(この地では男性一人称は年齢を問わずこれ。初めはダサくてびっくり)だって寒い」とのたまった。別に責めてるわけじゃないのに。変なの。。。

そうなのよ、「今年も寒波が来てるんだから寒いと言う前にしっかり着込みなさい」と昔の男の子に助言するも聞こうとせずに基本は薄着。風邪のウィルスも貰ったらしく、しっかりと風邪引いている。仕事場の暖房がきつくて、家は私一人なので節約してコタツ以外は暖房してないし、マンションの囲まれまくって半日しか日の当たらない家は寒い。寒さに体がついていかないのかも。

今帰ったので聞いてみると「タミフル」が効いたそうで。私も風邪引かないように気をつけなければ。。。。

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今日は一日織りの教室へ

2011年01月28日 | 暮らし


今年から裂き織りの名古屋帯をつくる。写真は整経台から外して綾棒を通したところ。縦糸の交差をそのま織り機に移すのが肝心で、私はいまだ一人でできません。情けなや。

教室は先生所有のアパート二戸前をつなげたものでかなり広い。織り機は大小合わせて20台近く。糸や他の道具、今までの作品を入れたたんすなどでぎっしりいっぱい。
昼休みは畳の部屋の座卓で談笑しながらお弁当食べて、おやつもいただいて、楽しい。初めは織りの用語がさっぱり分からずなじめなかったけど、「いつまでも分かりの悪いボーとした人」というポジションを得て、居心地いいです。自分が中心になって引っ張っていくばかりも疲れます。人についていくのもいいものです。

私のような歳になると、人様に頭を下げてものを教わるのも貴重な経験で、大切なこと。世の中には自分の知らないことがいっぱい。人生も折り返し地点を大分過ぎたけど、これからも頑張ろうと思うのでした。



先日お礼のお菓子が届きました。私は何も関与してないけど、半分以上食べたかな。いけませんねぇ。

来週は別の週刊誌の記者さんがわざわざ取材に来られるそうです。掲載されるかどうか未定ですけど、決まればまたここで一瞬だけお知らせします。(長く置いてると身元がばれる)

独自の治療法を10年以上前には学会で発表したりしていましたが、大学や大きな病院に属する肩書きもなく、本人は言いませんが、殆ど関心も持ってもらえず悔しい思いもしたようです。それからは実績を積み重ねることを最優先にしたのかな。聞いたわけじゃないけど。

大学に残った同級生からは、年賀状の添え書きにたった一言「科学は信仰にあらず!」というあり難いご忠告をいだだいたことも。私なら腹立てて絶交するけど、そんなことしませんねぇ。

人助けになるのが何より嬉しいことかなと、横から見て思います。まあそんな気恥ずかしい話は全くしませんけど。
何年かに一度、春先、山へ花粉を採りに行くのが、私としてはとても楽しい。日差しも暖かく、わいわいとばかな話をしながら、遠足気分。今度は二、三年後かな。いつまでやれるかわからないけど。
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港といろいろな船

2011年01月27日 | 広島案内
毎日コタツにしがみつくのも少々飽きたのでふらふらと港へ行きました。きょうは風もなく、暖かな日差しが有り難い日でした。



釣り針にかかったヒトデ。干物になってます。いつも釣り人多し。今は「タナゴ」だそうで。



マツダ工場前の自動車運搬船。デカッ!!



期間限定、カキ小屋。カキを炭火で焼いて食べます。持ち帰りもあります。



看板







旧陸軍桟橋の一部。日清戦争から太平洋戦争までの約50年間、ここからたくさんの兵士が出征。



広島港湾事務所(旧・宇品港水上警察署)1904(明治34)年築。
百年以上前の木造洋風建築。今は倉庫か何かになっているらしい。



消防艇。船の火災に出動。水上消防署所属。



漁船多数。日帰りの漁に出る小型船。



松山行き高速フェリー。一時間ちょっとで松山へ。



出港しました。早い!!



結婚式もできるそうで。



その船。



似島(にのしま)行きフェリー。



右、江田島行き。左、似島行き。向こうの島が似島。約20分の船旅。通勤、通学、市内への買物など、島民の足。



国際旅客ターミナル。釜山行きフェリーは長らく運休中。

海は南に。太陽も南に低く。うーーーむ、海の写真は難しいです。

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宮島入り江めぐり

2011年01月23日 | 広島案内
先日来、中国新聞に戦時中の軍の施設の紹介あり。島の南部の藪を分け入ってたどり着くらしい。
ひざが痛いので、そこまでは行けない。本日は桟橋起点に時計回りになるだけ遠くまで行ってみる。
このコースは観光客皆無というか人そのものを見かけない。静かなウォーキングとなりました。



長浜の長浜神社。こちらも鳥居は海中に。



もうアセビが咲いている。



ヒサカキ



コシダ



廃屋



フユイチゴ



杉ケ浦。カキいかだとカキ舟。この入り江は旅館が一軒。高校の修学旅行で宿泊。



夫婦鹿。



包ケ浦自然公園で。アメリカ製バイクで来た人たちが清掃ボランティアをしていました。



鹿たくさん。



包ケ浦全景。昔は海水浴で賑わった。今は自然公園になり、キャンプ場、テニスコートなども。



広島湾。



シキミ。



ああー歩くのも飽きた。



鹿。



親子鹿。



シロダモ



再び長浜神社。堤防で談笑する若い男女のグループ。




こちら厳島神社の大鳥居。自重で立ってるそうで。この付近のみ人がめちゃくちゃ多し。

きょうは風もなく暖かい一日でした。宮島の観光地はごく一部。あとは広大な原生林と野生の鹿、鹿、鹿。。。
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知人の出版記念会

2011年01月22日 | 暮らし
というのがYou tubeにあった。盛会で楽しそうだった。いいなあ~
前のときは声がかかったけれど不参加。今回は知らなかった。人付き合いが悪いので世間を狭くする私。。。

本(短編集)は百万円以上掛けての自費出版(と本人が言っていた)。自費出版でもコード番号の取れる会社に製作を頼むと流通に乗る。アマゾンでも取り扱っている。作家みたい。作家って人から言われなくても、自分で言っても全然OKですもんね。いいなあ~

たとえ自費製作でも本の体裁を取れば、作ったいきさつなどわからないものね(とひがんでみる)。といいつつ、本を出すということも大切とは思う。

私も、ずっと歳とって一生の記念にと自腹を切って本を作るのもいいかもしれない。でも誰に買ってもらう?たとえ千円でも、対価として他人の財布を開けさせるのはとても大変なこと。自分の思いを読んでもらってまだお金いただくなんて、それはわずかな才能にだけ許されることと思っている。

無料で配りますか。自分でこの本はお金貰うだけの価値がないと言っているようなもの。なんだかね。そんな自分の価値を下げるようなこと、したくない。

私自身の経験として、いただいた本や同人誌はぱらぱらと拾い読み(すみません)。
で「上手です、よく書けてます。ゆっくり読ませていただきます。これからも頑張ってください」と返事を差し上げる。彼女からもいただいたんですよね。本気で批評して差し上げるのが親切とは分かっているけれど、相手がそれを望むかといえばそうではないと思うから。すみません。

昔、ごく短い期間だったけど、文章を書いてお金をいただいていた頃(わっ自慢くさっ)、それはそれは怖くて貴重な経験をした。お金を出して読んでもらうのと、お金を貰って読んでもらうのと、同じ文章でも天地の違い。
一字一句に怒られまくった無知な私は、世に流通する活字がいかに編集者の真摯な検証、検討の元に作られるかをようやく知った。人の書いたものにいちいち引っかかるのもあの頃の経験からかもしれない。今ではいい勉強をさせてもらったと思っている。
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で、話題変わって今年の大河ドラマ。浅井の長女(子供)が短刀振り回したりしてどうよ。なんか辛い。もう見ないからいいけど。

いくつかのKeywordでこのブログと夫のサイトが同時に出るので、一部の記事を削除しました。コメントくださった方、本当に申し訳ありません。
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写真は広島市役所前のワビスケ 2005年1月
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「ぼけの予防」 須貝佑一

2011年01月20日 | 読書
類書は多くあるけれど、岩波新書というブランドと著者の経歴、すなわち東大医学部保健学科→朝日新聞記者→京都府立医科大学へ入学→認知症の専門医というのに引かれて読んだ。

私は老人性の認知症、その中で一番多いアルツハイマーになる人は先天的に決まっていて、それが歳とって発現するとおもっていた。が、そうでないらしい。若いときからの生活習慣に左右されるとのこと。すなわち、魚と野菜中心の低カロリー食、お酒は適度に、タバコは厳禁、適度な運動と人付き合いなどが大切。ということでは他の生活習慣病の予防と変わりない。
本書では、医学的なデータを基に説明するが、医学用語はなかなか頭に入らないので、私なりに多少乱暴にまとめてみました。

また歳取るまでにしっかりと知性を磨いておくと(これを認知的予備能力が多いと表現)、アルツハイマーの出る時期を遅らせることができるそうな。脳細胞は生まれたときが最大であとは死滅していくのではなく、訓練次第で増やすこともできると最近の研究で分かってきたんだそうで、これってボケ防止の朗報だと思う。パズルしたり、語学の勉強したりするのがいいらしい。

体を動かして社会に参加し、くよくよせずに腹八分目。結局は古来経験的に言われてきたことを守ればいいんですよね。

写真は二年前のお正月に我が家へ来た母。無理やりぬいぐるみを持たせたらあら不思議、かわいい顔になりました。

大正生まれの母はいまだに裁縫得意。毎日ゲートボールに出かけ、週に一度お茶と短歌を習っている。時々新聞の地方版に載せてもらうのが励みらしい。ありのままを素直に読む万葉調の短歌です。近代人は自我が邪魔して、なかなかあれほど素直になれません。

考えてみたら短歌も俳句もつくったことないなあ。。。。ボケ防止に作ってみますか。

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それと先日の「街場の大学論」の追加。
日比谷高校時代の友人の一人に「トミタ」君という人がいたそうで。あるとき二人で自衛隊のことを授業で発表することになり、「トミタ」君に連れられて防衛庁へ出かけるとスイスイと通してもらえる。

お父さんは防衛庁の偉い人、のちに警察庁から宮内庁へと渡り歩く。ある種の高級官僚は省庁の垣根をやすやすと越えて移動する。これは戦前の「国体(旧字」の根幹を成すものと振り返って内田氏は納得するわけです。

「トミタ」君のお父さんはあの富田メモの富田氏。「知らぬまに靖国神社に戦犯を合祀して、それ以来私は参拝しない。それが私の心だ」という昭和天皇の言葉を書き残した人。あの時、真贋論争まで起きてけっこう話題になった記憶がある。
長く続く制度というのは何であれしたたか、というのが私の感想。
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冬の着物

2011年01月19日 | 着物


きょうは昼から思い立って、県立美術館の「日本伝統工芸展」へ。本日初日だけど、人少な目。10人くらいかな。連れ立って来る女性グループは午前中集合、お昼も一緒にというケースが多いからかも。静かでよかった。すばらしい技の数々をゆ作り見られる贅沢感~♪

雨の日以外はなるだけ着物で外出したいので、きょうも着物。見たあと美術館の手洗いでパチリしました。

今日は泥大島の着物と羽織。帯はサザンカ柄の塩瀬。この時期しか締められません。帯揚げは地元デパート、福屋かそごうで15年くらい前に買ったものだけど、帯締は呉ポートピアランドのフリマで三本500円だったか1,000円だったかで買ったもの。あまりに安かったので値段失念。羽織の紐だってまともに買うと高いので、たんすの中を探していたら、古ーーーーい、珊瑚の羽織紐発見。親が買ってくれたらしい。まさか40年もたって使うとは。これだから着物と着物周りの品々は侮れません。

襟足出すと寒いので、チャッチャと梳かしてニット帽、さらに狐かなんかの襟巻き。バッグもそこらのをテキトーに。



さらにコートも着ます。ウール地なので暖かいし、「きものきもの」してないので、この時期の外出にはよく着ます。うーーーん、どう見ても怪しいご隠居さんといういでたち。はたまた着膨れた女ドラえもん。でも着物着て外出すると、外出の目的の楽しさに加えて着る楽しさと、楽しさ二倍増。これからも頑張って着物で外出しようと思うのでした。

おっと工芸展の感想でした。この伝統工芸展、高1のときから、途中ブランクはあるけれど延々見続けているんですよね。工芸とは用の中の美。どんなに高価なものでも、実用品として作られるのが大前提。その縛りの中で、気の遠くなるほどの時間を掛けて技を磨き、新しい美しさを追求する。それは時には油絵や彫刻のような芸術よりも緊迫した姿を見せる。そのことに私は感動する。

着物は27枚。各地特産の織物に友禅。友禅も伝統的な花鳥風月ではなく、主題も色使いもとってもアートしている。そしてそれを支える確かな腕前。感動しまくる私。

きょうは一人で静かに感動できて結構でした。



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「街場の大学論」 内田樹

2011年01月19日 | 読書

写真は私の好きな地元のケーキ

著者は神戸女学院大学の教授。物書きへのデビューのきっかけは、書き続けていたブログが小さな出版社の目に留まってのこと。やがて大きなお座敷からも次々と声がかかり、これは朝日新聞社発行の単行本を昨年年末、角川文庫として文庫化されたもの。

私立大学の現場に身を置き、大学改革や入試改革がどうあるべきかを考えている。巻末には文科省役人との対談もあり。早いものは2000年の日付があるので、10年のタイムラグがあるが、主張はおおむね正鵠を得ていると思う。

学問の成果は混沌や無駄の中から生まれるのだと私もまた思う。学内の管理が進み、市場原理が学問研究に投入されるなんてとんでもない。
近所の県立大学が立て替えられ、市民講座へ行ったことがあるが、午後8時には鍵の束を持った守衛さんが、ネズミ一匹学内にいてはならぬという気迫の元、入念に戸締りをチェックしていた。びっくりした。昔は、そして今でも一部の大学ではこんなことはないと思う。時間と空間を管理されて、そこから何が生まれる?

大学一回生の夏休みから秋に掛けて、大学の中で暮らし、夜はプールで泳ぐというとんでもない学生生活を送った人を身近に知ってますけど。学生に管理はいかんです。まあその人が大成するかどうかはあとは本人の努力次第ですけど。

また大学を取り巻く学生街というのも大切。人は人の出会いのなかから多くを学ぶもの。一生同居する人を調達するのも、この学生街のアマルガムから。はい、それは昔の私です。婚活なんてものに大金かける前に、とりあえず拾ってもらえてよかったと安堵する今日この頃。。。。ということで多くは共感できた。

で、それ以上に日比谷高校での交友、校風が面白かった。なるほど、当時東大進学数NO1を誇っていた学校ってこんな感じだったのね。地方の城下町の学校から東大へ入ったわが母校の数少ない同窓生は、きっと凄いカルチァショックだったんだろうなあ。勉強はしなくてもできて当たり前、ふだんの会話に政治や哲学なんかを話す高校生なんて、世界が違うわ。でも違う世界を知って面白かった。

東大では最後の立て看板を片付ける山本義隆を目撃する話。一つの運動の終わりと時代の終わり。誰一人関心を示さなくても黙々と最後の片づけをする。片付けて、運動を総括して、それでその運動の価値は定まる。
そうなんですよね。あらゆる場面で無責任な放り投げ、多すぎ。上は総理大臣から、身近には公民館のサークルまで。

この本は岡山駅の書店で先週購入。最近実家へいくときJR使わないので、久しぶりにいくととてもきれいになっていたのでびっくりした。



で、箱はこれです。一日に数を決めて作り、売り切れたら店を閉めます。9時開店前には行列ができています。シンプルだけど、味は濃厚。

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昔の冬の暮らし

2011年01月15日 | 歴史、社会、家族
写真は今度織る名古屋帯の胴の部分。糸の本数と長さを割り出し、整形機にかけて縦糸の形を作ります。手元で二ヶ所糸が交互に交差しています。平織りのこの基本的な構造は、古今東西変わらないはず。日本では縄文時代にはすでに機織をしていたとか。

糸に触っていると、自分がその歴史に繋がっていることを感じるから不思議。

お正月も終わり、昨夜というか今朝まで頑張って納税の準備もほぼ終わって、きょうは午後からのんびりしています。少しずつ日が長くなるこの季節に、忘れないうちに昔のことを書いてみます。
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ある年の二学期の最後の給食の日、小さなクリスマスケーキがついていた。それは先生たちがお金を出し合ってみんなにくれたもの。黄色っぽいバタークリームの上に仁丹の粒のようなアラザンの銀の粒と、チョコレートの文字。
持ち帰って弟たちにも分けたのかもしれない。

冬休みの宿題は薄いワークブック一つ。終業式の日、学校から帰って夕方までには片付ける。あとは塾もお稽古事もなにもない二週間。子供は大人の邪魔をせずに遊んでいればそれでよし。弟妹を遊ばせたらもっとよし。

暮れになると早朝から餅つき。その音で目が覚める。台所のかまどに大釜がかかり、何段にも重ねたせいろの中でもち米が蒸しあがる。
搗くのは父(当時30代半ば?)と大学生の叔父。搗いて丸めて、もろ蓋に並べ、北座敷へと運ぶ。祖父と高校生の叔母と子供たちは丸める仕事。末弟は小さいのでそこらへんでうろうろ。

臼の中のもちを、搗き手と息をあわせて、リズミカルに手早くひっくり返すのは母の役割。3O歳くらい?若い。

搗きあがったもちの塊をちぎって、ぽんぽんと台の上に置くのは祖母、多分今の私くらいの歳。昔の人は何でも手作り。えらいなあ。当時はそんなことで誰もいちいち感心しないけど。
私、自慢じゃないけれど、餅つき一度もしたことありません。餅つき機も持ってません。

お正月は初詣などはしない。あれはどこか遠いところの風習。
その代わり元旦には「お座」をする。真宗系の布教師を呼び、家で仏様の話をしてもらう。近郷近在の誰が聞きに来てもいい。座敷とその続きの部屋、庭先、表にもあふれかえる年寄りと子供。
話が終わると「お集め」という名のカンパ。世話する人がざるを持って回る。一人が入れるのは50円とか100円とか。その場で金額を言い、記録係りが次々と書き付ける。

そのあと「しっぽくうどん」を無料で振舞う。子供は仏様よりはうどんが目当て。だし汁は、金時にんじん、大根、サトイモ、油揚げを一緒に煮込んだもの。お変わり自由。100食単位で準備していたと思う。
母は毎年、この準備をほぼ一人でしていた。お運びだけは近所の人にも頼んでいたと思う。

なんでこんな面倒なことことするかって。それは偏に祖父のprimitiveな信仰心のなせる業。素朴な信仰とさぬきうどんのみごとな合体。これが追憶の正月風景。
だから台所の隣の居間の掘りごたつは、正月明けにやっとセッティング。それまでは暖房一切なし。寒かったはずだけど、あまり寒かった記憶もないのはなぜ。

この麗しくも面倒な正月行事は弟の高校受験まで続いた。とうとう母が「春には高校受けるけん、お正月に大勢の人が来るんは困る」と祖父に頼んでいた記憶が。

このお座はお寺でやると確か「報恩講」とかいう名前になる。(うろ覚え)
農閑期、お寺さんの大切な行事。今のコンサートツアーのように有名布教師が各寺院を回り歩く。我が家は祖父の好意で宿をよく提供していた。布教師が我が家の「お内仏」を拝んでくれる。祖父はことのほかそれをありがたがっていた。

大きな事業を起こすでもなく、死後大金を残すでもなく、争わず、望まず、うらやましがらず、一生涯、勤勉、質素、まじめ、感謝の日送り。
いゃあ、昔の日本人って、なんであんなふうでいられたのだろうと思う。人格もまた歴史的、社会的諸条件に規定されるというあれなんでしょうね。

二月になると旧正月が。このときにもちょこっともちを搗く。どうも節目にもちを搗かずにはおられないのは遠い先祖から引き継いだ、体に染み付いた風習らしい。


お正月明け、隣のおばあさんが死んだ。呼ばれて、枕元で「白骨の御文章」を上げる二年生の私。そのときにはもう暗記していたけれど、一応お経本を持って読む振り。
黒っぽい木綿の布団、近所と親戚の人。昔は人は家の畳の上で死に、家からあの世へと旅立った。

我が家では毎夜、仏壇の前で正信掲と御文章各種をあげるのが慣わし。祖父が喜ぶので、毎夜参加。普段は5円、「白骨」単独で読むと10円貰った。これは114銀行の貯金箱にその場で入れる。それがたまると学校へ月に一度来る子供銀行に積み立て。日本はまだまだ貧しい時代。

三学期はひたすら寒い。さえぎるもののない麦田の上を強い西風が吹く。学校から帰ると、祖母が火鉢でスルメやかきもちを焼いてそれがおやつ。
無口で不器用な祖母は気が強くて仕事の速い母にいつも遠慮していた。遠慮しているから、時々私に母への嫌味を言う。言われても私は誰も告げ口しない。そうするのがいいのは、子供にも分かる。家族は小さな社会。その中で子供はいろいろなことを学ぶ。

ポケットにおやつを入れ、藁ぐろの陰で、西風を避けながら凧揚げをする。
近所の従妹の家に遊びに行く。トランプやすごろくをする。梅が咲いて、その根元にスイセンが咲き始める。少しずつ色味を加える庭先。まだまだ冬は続く。。。。。

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瀬戸大橋の見えるホテル

2011年01月13日 | 旅行
前行ったのは2004年年末、約六年ぶりに実家母と出かけました。駅までの送迎あり。



午後4時20分、向こうに瀬戸大橋の橋の数々と四国、香川県の山々が。



5時前、もうすぐ日没です。



話に夢中になるうちに5時44分、すっかり暗くなりました。手前下津井港。



夕食いろいろ

屋上階の温泉からも橋がよく見えます。海峡から吹き上がってくる強風で、露天風呂の首から上はさぶーーーー)))))湯気もここでは上へと立ち上らず、横へと吹き飛ばされます。顔がさぶいーーーーー)))))



9時からホールでショーが。瀬戸大橋音頭、炭坑節などを女将、仲居さん、お客さんで踊ります。温泉場の雰囲気が盛り上がります。「袖ふれれ合うも他生の縁」
こちら
私の下手な写真よりはこちらをどうぞ。これが全てフロント、調理場などの男性スタッフとは驚きです。プロ並みの名演技。顔が大迫力))))



午前7時前。



右を見ると香川県の塩飽諸島が。
幕末、日米修好通商条約調印のために太平洋を横断した咸臨丸の水夫はこの島の出身。複雑な海流を乗り切る技術を買われてのことでした。
江戸時代は天領として保護され、島民が自治をしていた島。島は島民共有の財産で、瀬戸大橋の工事のとき、橋脚を建てる無人島の地権者を、国内外から探し出すのに大変な手間がかかったそうです。



朝ごはんいろいろ



朝焼け。



冬の朝。

お正月気分もいよいよ終わり。80代の親との旅行、いつまで続くことか。二人分の宿泊代を出すと言い張る母に「出す振りだけでいいよ」と断る。ねぇ、この歳で、親孝行の真似ごとくらいしないとね。
駅で分かれて、私は家へ。そして家には、たまりにたまった仕事が私を待っているのでした。
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「あてにしない生き方」 井形慶子

2011年01月13日 | 読書


著者は、離婚した若い頃、赤ん坊を連れてやむにやまれずイギリスへ旅行し、その後何十回となくイギリスを訪ね、イギリス風の家を日本で建てたり、雑誌を創刊したり、イギリスに関する本もたくさん出した人。

著者自身が人を当てにせず、自分の力できちんと生きていて、その生き方がものの見方にも反映している。イギリス人は歳をとっても精神的に自立し、新しいことに挑戦している。ということはそうなんだろうと思うけれど、それは経済的な基盤があってのこと。

イギリスでは社会福祉が行き届いていて、日本みたいに老後の心配はしなくていいらしい。それを補完して、教会、その他の慈善団体の弱者救済のシステムもよく機能しているとのこと。すばらしいなあと思う。

しかし、人は自分の見たいものしか見えてこないという側面もある。ここまでイギリスを持ち上げ、日本人ももっと自立しようといわれても、そう単純にうなずけない自分がいる。自立も大切、相手も尊重しつつ、日本的な助け合い、親族、知り合い、地域社会のつながりも活用次第ではまだまだ捨てたアイテムではないのではないかと。

母親と温泉へ行っていた。事前の予想通り、宿で早く寝すぎて夜中に目が覚め、明け方まで眠れないといういつもの展開。一部屋しかない部屋で、明かりをつけるわけにもいかず、過去、どんだけ時間をもてあましたことか。トイレで、風呂場で、洗面所で、人を起こすまいと気を使いつつ起きて時間をつぶす辛さ。

過去の失敗にかんがみ、高速バスに乗る直前に慌てて買った軽く読めそうな一冊。おかげで、旅館の洗面室に布団を敷いて横になって読了。旅館こりごり。

写真はイギリス、カッスルクーム。2008年6月7日、快晴。

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黒滝山・白滝山

2011年01月10日 | 広島案内
きょうは三原市忠海町にある黒滝山と白滝山に登山。瀬戸内国立公園の一部。



いつもながらの「必殺!!手抜き弁当」。7、8分で作った。お恥ずかしい。



広島高速、雪。



山陽道上り小谷SAは地元ベーカリーのproduce。おしゃれ。パン、惣菜類も市内の本店と同じような品揃え。



麓、観音院から見る黒滝山山頂。

写真は2004/1/1 この日は多分息子たちが誰一人として起きてこないので、放置して山へ行った記憶が。山頂には奥の院があり、初詣客が多かった。きょうはわりと静か。



絶景。平山郁夫は広島市内の修道中学二年生のとき、建物疎開に動員されて被爆。帰郷し、出身地近くの忠海中学を卒業。



黒滝山から。大久野島、大三島、遠くに四国の山々などが見える。



山火事あと。



白滝山の龍泉寺から海を見下ろす。



魔崖仏。



白滝山山頂



北方向。広島空港などが見える。



山頂から。左手にしまなみ海道、多々羅大橋が見える。
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このあと竹原、日帰り温泉「かんぽの宿竹原」へ寄り帰宅。



広島高速。グリーンのライトアップ。家まであと五分くらい。やれやれ。

呉線沿線は海に面して暖かい。お正月の陽だまり登山でした。
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さっき次男が来た

2011年01月09日 | 暮らし





何でそんなことを記事にするかと言うと、近くに住んでいるのにめったに来ないからである。

大学出て自宅から通う会社に就職して、しばらく家にいたけれど、(自宅じゃ彼女ができても呼べないだろうから←本人が言ったわけじゃなくて私が先回りして考えただけ)、今は近くで一人暮らしをしている。彼女はいるのかどうか。。。何ごとも親の都合のいいようには進まないようで。

三男の落研の高座は、何度も京都まで見に行ったけれど、次男のボクシングの試合は一度も見たことない。自分の生んだ子供が、いくら競技でも赤の他人に殴られているところなんて見たくない。つらすぎる。
中四国の学生の試合はいつも地元広島で。決勝戦で惜しくも敗れて、準優勝したこともあったらしいけど、それでも見に行ってない。

朝日新聞の土曜版で、ボクシングの亀田選手の話が連載されている。とってもハングリーな生い立ち。毀誉褒貶の激しい三兄弟だけど、私は男の子が三人並んでいるだけで、ついウルッとしてしまうのである。仲よさそうだし。
それにボクシングする男の子って、あんなしんどいこと、やむにやまれずにやっているんだと思う。器用な人間は、もっと楽でかっこいいことをしているはず。

次男はお正月の忘れ物を取りに来た。空けてないワインを持たそうとしたが要らないというので、お歳暮でもらったハムをやった。素直に持って帰ったので、嬉しかった私。
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必殺!!なんちゃっておはぎ!!

2011年01月08日 | 暮らし
お正月のお餅を利用しておはぎを作りました。



材料、おはぎ2個分
お餅2個、冷ご飯一膳分、水適宜、餡、黄な粉など

お餅に杯一杯くらいの水を入れ、電子レンジで暖めます。

お餅がペースト状になったらご飯を入れて混ぜ、再び電子レンジで暖めます。



さらにお餅とご飯をよく混ぜ、手に黄な粉をまぶして2等分し、黄な粉の上に広げ、餡をのせて包みます。



出来上がり。ほんとのおはぎみたいでおいしいです。よかったらお試しください。

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団塊の世代

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