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日記

日々のあれこれ
前のはこちら→https://blog.goo.ne.jp/kawashima134

何でいじる必要がある?

2012年09月27日 | 未分類

あん?

棚上げにしてるんだからこれからもそれでいいんだよ。名前を残したい、手柄を立てたい邪心が拙速にことを運んでいいことなんて何一つない。

原理原則、主義主張なんてそれぞれ。相容れるはずもない。そんなものにこだわらず、実態をそのまま続ければ続けるほど実効支配している方には有利なのに、先のない年寄りの焦り?

個人の間の争いだって、相手が何かactionを起こすまで静観していればいいんです。

この40年間、いやそれ以前の細々とした交流の時代から、先人たちが知恵をつくして積み上げてきたものが、こんなバカな男のために、それに振り回される末期政権のために崩れ去るんだろうか。

たぶん喜んでるのは某大国の指導者と思う。あの付近は適度に緊張している方が、「我が国中心の世界秩序の為にはいいもんね」と考えている。

さらに言うともう一つの場所は相手方のやり過ぎと私は思う。建造物は撤去してこっちも棚上げにしてもらいたい。付近の漁業は入会地にするとか。

そっちに何も触れないのは、かの年寄りとかの国のある勢力の結びつきについてとかくの噂もあるらしいけど、私には確かめるすべはない。

でもなんであっちの方は一言も言わないのだろう。不思議。要するに原理原則なんてなくて、自分の勝手な都合で動いているということですかな。お粗末。


 

名古屋市緑区有松で。アメンボのように国も国境もなく、気楽に水に浮かんでいたいもの。

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なんともはや

2012年09月08日 | 未分類

写真は昨日と同じくMIDIでリアルオーケストラサウンド仮想楽団Medias様です。

赤い列車と白い雪~♪おしゃれなドイツ、冬の旅

 

http://7.pro.tok2.com/~medias/mfvo/html/deutchpic.htm


毎日何かの用事で外出、出先の冷房に疲れる。暑いなら暑いで私は全然OK、外と中の温度差が大きくて却って疲れると愚痴を言ってみる。冷房は苦手。

もう一つ苦手は犬の鳴き声。全国幾千万の愛犬家の皆様、申し訳ありませんと慌てて申し添えておきます。

建て込んだ住宅地で、早朝六時からけたたましく鳴き続ける犬。朝六時は早朝とは言わないかもしれないれけど、夏の間、気が休まらない。でもこちらもどんな迷惑かけてるかもしれないのでお互い様。夏の間はひたすら我慢。ちょいと睡眠不足。

犬ですか。嫌いですねぇ~~しみじみ。噛まないはずの犬に子供の時から何度噛まれたことか。その度にこちらが悪いような飼い主の言い方、態度。病院へ行っても、どの人も治療費など一円もくれなかった。犬も嫌いだけど、無責任な飼い主はもっと嫌いですね。

看板犬のつもりで、けたたましく吠える犬を店に繋いでいる店主。ハッとしてギョッとして、その本屋さん、二度と行かないけど。

昔の話だけど、お稽古ごと場所に愛犬を連れ込む先生もいましたね。先生の前で嫌がるそぶりも見せられないし、黙っていたら、犬の習性なのか、自分の方が偉いと思い込む。やりたい放題。トホホのホ。

犬が嫌いなのは心の冷たい人間なのかも。と少し我が身を振り返り、でも嫌いなものは嫌いと言うしかない。早く涼しくなって、ご近所の家が窓を閉めてくれるのを待っている。

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中上健次のころ

2012年08月23日 | 未分類

中上健次がなくなって、今年で20年だという。早いものである。8月の12日、その日は旅行中で名古屋にいた。40歳台だっただろうか。早すぎる死を傷ましいと思った。

多分その年の春先だったと思うが、ある文芸誌に久しぶりに登場。小説ではなくて長文インタビューが本人の写真とともに掲載されていた。すい臓がんを手術したとか、そんな話で、ずいぶん面変わりがしていた。

ご本人は「あれだけ飲酒したのに肝臓がんでなくてすい臓だった」ので、「助かると思った」と語っていた。でも失礼ながら、医学の素人の私が見ても助かるのは厳しいのではないかと思う、そのくらいのやつれ方だった。なんで本人を登場させたのか、本人の希望だったのか、編集側の都合だったのか・・・健康なものの驕りではあるけれど、可愛そうに思った。

一時期、中上健次を集中して読んだことがある。今印象に残っているのは「枯木灘」、「赫い髪の女」、それと題名は失念したけれど、紀伊半島の奥地を車で移動しながら、被差別を訪ねて話を聞いていくルポルタージュなどなど。どれも溢れる思いを言葉でねじ伏せる荒々しさを感じた。ご本人も書くこと、生きることにエネルギッシュな人だったのではないかと思う。

もう時効だから書いてしまうけれど、その頃、知り合いの人が中上健次の仕事部屋に出入りしていて、ご本人の素顔をいろいろ話してくれた。かなり個性的な人のようだった。ある編集者はその二人の関係をあまりよく言わなかったけれど、これから世に出て行きたい人を先輩作家が面倒見るというのはたぶんその頃が最後ではなかったかしら。心優しい面もある人だったと思う。

中上は原爆を書いた小説が嫌いだった。それは何も核兵器を容認しているというような話ではなくて、原爆を告発するような、あるいは被爆体験を書いた作品は下手で未完成でも世間に容認されるのが許せなかったのだと思う。これって言えるようでなかなか言えることではない。特に当地では。

30年くらい前には、当地のアマチュア作家の中には被爆者もいた。その人の作品は批評しにくかった。体験が生で語られるのならまだしも、告発が類型に堕しているように思われた。被爆者だから書いてもいい作品で、被爆者だから人が批評しにくかった。そういうなれ合いを中上は最も嫌っていたのではないかと思う。

自分にしかかけないことを書くことで貫いた中上は立派だったと思う。家族にこんな人がいたら平穏な心では暮らせないけれど、たぶんそれに耐えられる人が家族になっているはずだから私のようなものが心配しなくてもよろしい。

惜しまれつつ早くなくなるのも運命ならば、某作家のようにうんと長生きして、文芸雑誌の新年号には編集長がわざわざ自宅へ出向いたインタビュー記事を載せてもらうのもなかなかいいと思う。

もうとうに亡くなった文学史上の誰彼をクン付けで呼んで、「**クンね、あの人は下手だったなあ・・・」とのたまうのをありがたく読むうち、正月らしいめでたさがじわっと五感に満ちてくる・・・というのは私だけだったかもしれないけれど。

太く短くなんて、長生きできないものの負け惜しみ。どんなつまらないと見える人生だって長生きするのがいいに決まっている。代わり映えのしない毎日でも、その中に小さな小さな喜びがある。それを拾いながら健康で長生きしたいものである。

中上健次、久しぶりに読み直してみようかな。軟弱の対極にある作品の数々。

 

 

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画像ソフトの迷宮

2012年08月04日 | 未分類

香川県の四国村で。臼についた棒に牛をつなぎ、牛を歩かせてサトウキビの汁を絞り出すための専用の小屋。私が中学生のころ、近所に一つだけ残っていたけれど、今はほとんど消滅したのでは。


 

ブログ作成にデジカメで撮った写真はほぼ必須だけど、画像を加工するソフトもいろいろ。私は初め、ウィンドウズについていたペイントを使っていたけれど、途中からViXに替えた。こちらフリーソフト。窓の杜というところからダウンロードした。

このソフトは仕様がシンプルで、画像の切り取り、縮尺などがす早くできる気がするけれど、これも慣れだからいいのか悪いのかはよくわからない。

私が使っていて不自由なのは字や画像が重ねられないこと、ぼかしなどの加工ができないことくらい。ペイントは7ではいっそういろいろな機能がついてもしかしたら昔のプロ仕様くらいにいろいろできるのかもしれないけれど、ほとんど使わない。

で、そのViXが調子悪くなった。あれこれいじるうち、ViXにしてもライブラリー→画像とめんどくさい手順の末にペイントでしか開かなくなった。仕方ないので、さっきシステムの復元をしてみたら、元に戻った。やれやれである。

ViXはXPまでは対応。もちろん今も使うに支障ないんだけど、いつか使えなくなるのかなとちょっと不安。

「使い勝手が悪くなったのでシステムの復元した。なかなか渋いでしょ」とさっき自画自賛していたら、「バカが」と笑われた。確かに。自慢するほどのことではございません。コンピュータはちょっといじるだけでものすごく時間がかかるし、ほかにやることは山積みなのに。

 

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幸せな夏の記憶2

2012年07月25日 | 未分類

兵庫県、氷ノ山へ行く途中の滝。2007年7月。梅雨が明けたと勘違いして出かけるも天候悪くて登山は断念。7月の連休はだいたいこんな感じ。


これって何度も書いたことだけど、母の実家へ夏行くのはとても楽しかった。母方の祖母の命日が八月の初めで、その人は母が三歳の時に亡くなったので、私は顔も知らないんだけど、(ついでに言うと祖父も戦前に亡くなったとか)、写真の中の祖母はいつも夏休みとセットで思い出す。

どんな人だったのかなあ・・・生きていたら私のこと、可愛がってくれたかなあと、最近我が家へ来ると妙に私になついて、ずっと私から離れない孫娘を見ながら思う。

何が楽しかったかって、母の実家は山の中、我が家にないものばかりが揃っていたから。

我が家よりもまだ涼しい床の高い家、床下にはサツマイモを保存。庭や畑の果物各種。スモモは子供のおやつに。モモは販売用に作っていたけど、こちらもおやつにたくさん食べた。おいしかった。

山、木と草、花各種、ため池大小各種、川、近所の藁ぶき屋根の家とそこに住む子供達。棚田とその岸、坂道、お地蔵様、井戸水も冷たくておいしかった。近所の親せき数軒、どこの家にも子供達で勝手に上がって(戸締りなんてしない家ばかり)、勝手に遊んで、遊びの流れでそのまま泊めてもらって、翌朝、歩いてラジオ体操に行って、また帰って、昼からはため池で泳いで・・・田舎の子はため池で鍛えているので、みんな泳ぎが上手だった。

夏休みの宿題って・・・そんなもん薄い宿題帳一冊。一学期の終業式の午後、二時間くらいで終了。八月一日は恒例の海水浴、二日に絵を描いて(水田の向こうの八栗屋島が定番。今でも山の形は宙で描ける。緑ばかりを使う)、八月七日の祖母の命日あたりからお盆過ぎまでいろいろな親戚へ遊びに行って、また親戚が遊びに来て、月末に工作。これで一月の休みは終了。

夏休みって遊んだ記憶しかないけど、同世代の人ってみんな同じようなものだと思う。私の親は教育熱心ではなくて、ありがたかった。高校になると成績表など親に見せたこともなかったですもんね。親に心配かけないのが親孝行と言うもの。進路だって自分で決めて事後承諾。

祖父母のいない分、伯父夫婦が私たちきょうだいをかわいがってくれた。いとこたちも優しかった。遊ぶ道具なんて何にもなかったけど、一日中遊びの種の尽きることはなし。我が家近くにはない珍しい草花を採って帰って押し花にしたり、根から抜いて家で育てたりした。抜けないのは一つ上の従兄が手伝ってくれた。

とっても男前の優しい人だった。子供のころ、兄のいない私はその従兄との関係がとても心地よかった。

最後に会ったのはだいぶ前に実家で。たぶん30年は会ってなかったと思う。開口一番「どしたん?**ちゃん、太ったんと違う?」ですと。ちゃん付けで呼ばれることもめったにない今日この頃、ありがたいことだけど、遠慮がなさすぎるんと違う?

いやいや子供のころの付き合いは歳いっても子供のまま。それが嬉しい。従兄はずいぶん前から病気で寝たきりになり家で療養中だとか、最近では寂しい話ばかり聞こえてくる。

私だっていつまで元気でいられるか分からないけれど、緑に染まるかと思うほどの自然の中で思いっきり遊んだことを思い出すだけで、とっても幸せ。

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留袖のお色直し?

2012年04月26日 | 未分類

先日の留袖、脇で柄がきちんとあってないのが気になって、呉服屋さんに「着ていいもんだろうか」と尋ねると、「脇が合ってないのはよくあること。着ていい」との返事だったけど、翌日電話があり、脇を少し入れ、裾模様も寸法がおかしくならない程度に縫い直してくれることになった。やれやれ。

細かな柄ならわからないけど、はっきりした柄なのでこういうこともあるんですね。不覚でした。

嫌になったついでに、ついもう一枚買ってしまった。というか、返品してもいいので、お取り寄せ。こちら出来合い。寸法は身丈が長いけど、まあ何とか着られる範囲。だってレンタルの留袖、たいていワンサイズですもん。

うーーーむ、どちらも捨てがたい。しかしまあ無駄なことをするもんである。いっそのこと式の前半と後半でお色直しなんて前代未聞。初めから出来合いのを買っておけばよかったと今になって後悔。さらに言うならレンタルでも全然かまわなかったはず。お店へ行くのが面倒なばっかりにこんな面倒なことになって。

帯揚げ、帯締めは40年前のものなので、一部変色していた。こちらは新品を買った。最近のは金の糸で亀の形に編んだ飾りがついてるけど、あんなのはうるさいだけ。つけたくない。ついでに簪も。落ちないかと心配で邪魔。

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年度末なので

2012年04月01日 | 未分類

と言ってももう四月になったけど、写真整理をちょこっとやってみました。

先日の梅園で。土産物コーナーに、持ち主の家の雛人形の掛け軸を展示。三原地方では戦後、女の子が生まれたら親戚からお祝いに届いたそうです。明治時代の錦絵のような古閑な絵。表装もすべてプリント。こんな雛人形なら場所をとらずにいいかも

三原、安芸津付近は蛸がよく採れる。これは絞り布で作ったぬいぐるみ。瀬戸内海は魚の種類も多いし、季節によって揚がる魚が違うので、スーパーの魚コーナーで季節を知る。昨夜は舌平目を煮つけにした。わが実家地方では「下駄」と言う。下駄が出回ると本当の春~♪

何年か前の結婚記念日に。子の刻参りみたいなろうそく。そうそう思い出した。その年の24日は土曜日で終業式。午後残務整理して翌日当地へ移動、26日午後から式みたいな流れだった。こちらの試験も受け四月から非常勤で勤め始めたのだった。遠い記憶。

 

26年くらい前…つうことは私は18歳かあ…すみません、嘘です。

髪型の好みは一生変わらないようで。私は短い髪より長い時の方が多いかな。パーマもあまりあてない。これがまあすらりとした美人ならさまになるんだけど、そうではないので、いつもビミョー。

新しい年度、いいことがたくさんありますように。とりあえずは6月に向けてコアラの着物を頑張る。

友人のブログです。http://blog.kazeutau.shop-pro.jp/

手作り品を販売中。何かいいものがあればお願いします。 

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無題

2012年03月29日 | 未分類

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今から息子のところへ行きます。好きなものどっさり。共働きなのですぐ食べられるおかずのようなものも。

私の母が家へ来るとき、いろんなものを宅配便でどっさり送ってくるけど、私も似たようなことしてるかも。うちの母はいまだに「ついでに買った」とか言って私の着るセーターまで送ってくる。この歳でも母にとってはまだ娘。ありがたや。

  

愛嬌をふりまくりまくる一歳と十か月。元気いっぱい。一人なので甘やかされてるかも。次はどうするのかな????

赤ちゃんの時は息子に似てたけど、今はお嫁さんの特徴が出てきたかな。

六月にはお母さんの実家で待機してもらう。だって主役の座を奪いそう。

備忘として 本日投信一つ売却6年間で8%くらい利益が出た。欲は出さない。減らなかったただけで良しとしよう。 

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吉本隆明のころ

2012年03月17日 | 未分類

吉本隆明が亡くなったそうで。普段はほとんど行かない部屋に昔の本をまとめて突っ込んでるけど、久しぶりにじっくりと背表紙を眺めてみた。読んだのを忘れている本もある。ほとんどは十代終わりから三十代初めにかけて読んだと思う。いずれにせよはるか昔である。

きょう気がついたのだけど、私って、自分が生きてきたその時々で、自分に似た人とそうでない人を見分ける目安を自分の中に作ってきたんだなあと。

最近では海辺でワカメを採る人と、採らない人。子供の結婚式に自前の留袖で臨むか、合理的にレンタルで済ますか。なんてのがメルクマールでございます。

昔なら、吉本隆明を読む人と読まない人などというのも、目安の一つ。読まないのが圧倒的に多数、読むのはマイノリティ。その時はもちろん真剣に読んだはずだけど、読んだことさえ忘れているようでは何のために読んだかのかと愕然とする。かすかな記憶を手繰り寄せると、「犠牲の終焉」「異端と正系」「共同幻想論」などが、当時は、自分の道しるべとして胸に落ちた。

内容よりも、人と語ったその時の相手の表情とか、声とかなぜか断片的に、でもとても鮮明に覚えている。当時から今に至る親友も吉本をよく読んでいた。だからこちら側の人。これからも付き合いたい人。

子育てに大変な頃に読んだ「最後の親鸞」は、「それでいいのだ」と生活にまみれた自分の背中を押してくれるような本だった。私の勝手に読み方だけど、毎日の実感の中から生まれてくるものこそが本当のものだと、開き直るのに根拠を与えてもらったと今も思っている。知から非知へとsoft landingする徹底した信。それを追う論考がたいそうスリリングだった。

世間の圧倒的多数が信じて疑わない善なる価値、例えばつい簡単に口に出してしまう「反核」という考えに待ったをかけ、浅原彰晃も親鸞なら救われると話しただろうと言い切る吉本は、晩年まで私の心に揺さぶりをかける人でもあった。

お歳は私たちの親の世代、87歳というのは長生きだったんでしょうね。ここ20年ばかり、sub cultureの人たちとの対談も軽く読めて、あとでうーーーんと考えたりしてなかなか面白かった。

この先、これだけ刺激を受ける人に出会えるだろうかと思う今日この頃。謹んでご冥福をお祈りします。

 

 

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年の瀬に

2011年12月21日 | 未分類

思いがけず喪中欠礼のはがきが来た。仮にQくんとしておきましょうか。お父様がご高齢で亡くなられたとのこと。一度お会いしたことのある(こちらが弟と一緒に真夜中に勝手に押し掛けただけ)お母様はお元気なんでしょうか。

♂、15歳のころからの知り合い、かれこれ半世紀になる。。。しみじみと年月が過ぎたもの。高校の部活が一緒で、一度同じクラスになったこともある。

**部には専用の部屋があって、昼休みと放課後はほとんどそこで過ごしていた私。だからクラスにはほとんど友達がいなかった。何でも揃っていて、学校の中の隠れ家のように楽しかった。いろいろな人がいたけど、今かろうじて連絡くれるのはQくんだけ、当時は特別親密でもなかったのに不思議。

結婚後は没交渉、20年以上前にある集まりで再会してからは年賀状の交換だけ。それも3年前にこちらから一方的にやめたのに、まだ繋がっていたらしい。忘れずにいてくれて嬉しい。

私もこれから歳とるばかりで、いろんなことを忘れていくので、今の時点で憶えていることを前後の脈絡なく箇条書きしてみます。

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最初は何だったかなあ~一年生の冬の日曜日、みんなで潟元から屋島へ徒歩で上がったことがある。外出は制服が校則、その時の写真もどこかにあるはず。当時はコンビニなんてなくて、お弁当も売ってなくて、自分で作っていくしかないんだけど、Qくんはいつも握り寿司か海苔巻だった。お父様は堅いところにお勤めだけど、お母様がお寿司屋を経営されているとのことだった。

母曰く「父兄会にサンゴのかんざしして長襦袢の襟を赤く裏返して、粋な人やったわあ~」。田舎育ちの私はその話にそそられたものです。

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男前でしたね。うちの旦那も昔はとっても男前で、コリー犬みたいな顔してたけど、今はまあふつうの中高年。特に劣化したわけではありません。孫娘が怯えて逃げ回るのは「私に痛いことをする人」というのが理由、他意はないはず。でないと嫌われるおじいちゃん、かわいそう。

Qくんの場合、顔はまあまあだけど、何よりも態度が男前。例えば、七月のある日、学校をしばらく休んでいる部員の家に二人でお見舞いに行ったんですよね。午前中の授業終えて、二人で電車の乗って郊外の駅で降りて、駅前のうどん屋で「冷やしうどん」おごってもらった。当時15円とか、30円とかそんな値段。黙って割り箸も渡してくれて、「ああ、いい人だなあ」と感激したんですよね。(こうして書きながら、食べ物に吊られる自分の性癖を改めて反省している私) 

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あとは何かな、あの頃は毎日一緒で楽しいことばかりだったので、一つ一つはなかなか思い出せない。そうそう、彼は学園祭の実行委員長をしていた。学校は放任主義、すべて生徒任せ。彼は何をしていたんだろう?パンフレットの編集、広告取り、バザーの仕入れ、業者の選定、生徒への様々な広報、をする実行委員をまとめる仕事。とても大人に見えた。

女の子には人気があったかも。私は同じサークルで、いわば身内。気軽に話していたけど、他の女の子と仲良くしてるのを見るのは面白くなかった。なんでだろ~不思議。個人的に付き合ってたわけじゃないのに。まあそこは女心の不思議なところ。共学校というのはいろんなところでいろんな思いが渦巻いているのであります。

 今の子ならどうする?きっとsteadyな関係になれるよう行動を起こすかも。でも、あの時たとえそうなったとして、そのあとどうするの?結婚するわけじゃないし、一緒に過ごすったって田舎町の高校生、帰りに喫茶店かうどん屋へ寄るのがせいぜい。(またうどんかよ)。年末、彼は盲腸炎で入院して弟と見舞いに行って、年明け、お礼に家でパーティするからおいでよと誘われたけど、行かなかった。すねていた私。

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三年生になるとクラスも変わり、廊下ですれ違ったら挨拶する程度。あちら理系、こちら文系、校舎の棟も違うし、私はその頃、小説が大好きな別の男の子と、新古今がどうのこうのとかいう長い手紙をやり取りしていたので、なんかもう過去の人。

でも卒業したあとの春休みに電話貰って、もう一人の男の子と私と三人で、二年生で担任だった独身の先生の下宿へ押し掛け、すき焼き作ったんですよね。細かいことは忘れたけど、彼が車で迎えに来たと思う。彼はもう運転免許持っていて、コロナの中古車に乗っていた。まず先生の下宿へ行き、それから近所のスーパーで肉や野菜を買って、洗って切って、調理しながら、隣の部屋の物理の先生も来られて、「しかし**さんはこれからは++先生の後輩になるわけだね」とか話して、今思えばとてもいい卒業記念になった。なんか私のこと忘れてなかったのね、という感じ。嬉しかった。

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そのあと二年間くらいは、帰省した時連絡取りあってみんなで会ったり、泳ぎに行ったりして遊んでいた。二十歳の夏休み、一度、食事していたら「台風がひどくなったのでもう閉めます」と店を追い出され、彼が自分のコロナで一人一人を送り届けてくれた。風雨がとても強くなって、車が横に横に流される。とうとうワイパーが取れ、道端に停めて、ワイパー握って雨をふき取り、また走りとドリフターズのコントのような成り行き。今も笑い上戸だけど、昔はとってもよく笑っていた私は大笑いした。楽しかった。もう一人のすき焼きの時の男の子が「コロナでなくってボロナ」と悪口言っていた。

ごめんなさい。とても大変だったのに、それに気が付かない私でした。

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三年目くらいになるとみんな帰省しなくなるし、高校の時の遊び仲間も自然消滅。20代で最後に会ったのは私が結婚する直前、街で偶然。15歳の夏のうどん屋以来久しぶりに、近くの喫茶店でゆっくり話した。結婚するにあたっても、いろいろなことをクリアしてやっとたどり着いたと話すと、素直に祝福してくれた。四月から大阪の新聞社に勤めるという話をしていた。なにかの事情で卒業が遅れたらしかった。

あーーーーーだいぶ長くなったなあ。結婚したと聞いたのは人づてに。相手は高校の同級生。私が気をもんでいた取り巻きの女の子の一人ではなく、全然別の人。気をもんでいた人は東京のさる大学を出て、高校教師か何かになったらしいけど、奥様は地味な短大卒、美人。なぜか安心する私。ああ、私ってやな女。美人は許せるけど、頭いい人だったら許せない私って。。。。

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30代の終わり、ある会合で再会して、それからまた年賀状が来るようになった。家族写真の男の子が昔のお父さんそっくりで不思議な気がした。奥様は相変わらず美人だった。とっても幸せそうな写真。よかったーーーー。

(私ですか、家族写真の年賀状なんて一度もない。その年賀状もほぼやめてしまった横着もの)

奥様を亡くされ、お父様も亡くされ、どんな年末を過ごしているんでしょうか。来年は五年に一度の同窓会、太ってしまって行けない私。いかんですねぇ太ると世間を狭くするもと。

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Qくんとは深く付き合わなかったので、今も喪中欠礼くらいはやり取りできるけど、そのあとの新古今の男の子は、着地点もないままに、お互い言葉がきつくなりすぎて、疲れて(飽きられて)、別れた。もう亡くなった(のではないかと思う)

何十年も生きているといろんなことがある。若くて、愚かで、その時の人の思いに気が付かなかった私。今までの実際の暮らしの中で困ったとき、大した悩みもなく笑い転げていたことを思い出すこともあったが、別の人との別の人生にはまた別の困難があったことだろう。

この歳まで元気で来られたんだから、周りの人に感謝しなければ。と、一枚のはがきから、おばさんも来し方行く末をいろいろ思う年の瀬。。。

 

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田中好子さん死去

2011年04月21日 | 未分類
元キャンディーズの一人、女優の田中好子さんが亡くなられた。55歳とまだ若いのに。人が亡くなるのに順番はないけれど、自分より若い人が亡くなるのはとっても残念。
昔、歌番組でそのころ住んでいた家の近くの遊園地から中継していたのを憶えている。真冬、毛皮のコートを脱いで歌う時にはとっても薄着。寒かっただろうなあと、他愛ないことを思い出した。

で、この人は元気だろうかとふと思い出した。以前、夜中に眠れないときは、憶えている昔の同級生の名前をgoogleで探すという遊びをしていた。女の子は姓が変わるので探しにくいけど、男の子は大丈夫。

元気で頑張っているらしいと確認すると、私も安心する。それだけの遊び。ユーミンの何かの歌のフレーズに「昔が懐かしいのは今が幸せだから」というのがあったと思う。そう、本当につらい時、困っている時には目の前のことに精いっぱいで、とてもそんな余裕はない。

ある時、ネット上から突然名前が消えた。会社の役職を「一身上の都合で」引くという一文を残して。あれから二年、一度も消息が聞こえてこない。


もう一人の、とっても大切な友人は只今闘病中(らしい)。こちらも突然音信不通に。一度電話かけたけど、こちらからは連絡しない方がいいという感触だった。自分だけ元気なのが申し訳ない気持ち。

数年前、ちょっと相談事があった時、彼女は黙って話を聞いてくれて、「これからの20年間、自分がどう生きたいかよく考えてみたら」という誠に適切なアドバイスをもらった。私にはなくてはならぬ人、頼りにしているのに、連絡がないのはつらい。

高校で隣のクラス。体育、家庭科などは一緒に。あいうえお順が近くだったので、何となく憶えていたが、大学へ行って美術部へ入部するとぬあんと彼女がいたのであります。
それから45年の付き合い。思えば私はあの狭い美術準備室で生涯の親友と出会い、生涯の同居人(通称夫)を調達したのでした。

知っている人がいなくなるのは、自分の足元が少しずつ狭くなるような心細さ。歳とって子供や孫と出会えたのはよかったけれど、世代が違うと同じ地面には立っていない感じだし。

キャンディーズの中ではちょっと不器用に見えた田中さん、でもその雰囲気が「黒い雨」の監督に見いだされて主演を務めることになったんですよね。私はあの映画は見てないのだけど、(見ると小説の読み方を強制されるようで)、あんな真面目な映画も最近ではなくなりましたね。

謹んでご冥福をお祈りします。

          
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団塊の世代

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