♂、15歳のころからの知り合い、かれこれ半世紀になる。。。しみじみと年月が過ぎたもの。高校の部活が一緒で、一度同じクラスになったこともある。
**部には専用の部屋があって、昼休みと放課後はほとんどそこで過ごしていた私。だからクラスにはほとんど友達がいなかった。何でも揃っていて、学校の中の隠れ家のように楽しかった。いろいろな人がいたけど、今かろうじて連絡くれるのはQくんだけ、当時は特別親密でもなかったのに不思議。
結婚後は没交渉、20年以上前にある集まりで再会してからは年賀状の交換だけ。それも3年前にこちらから一方的にやめたのに、まだ繋がっていたらしい。忘れずにいてくれて嬉しい。
私もこれから歳とるばかりで、いろんなことを忘れていくので、今の時点で憶えていることを前後の脈絡なく箇条書きしてみます。
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最初は何だったかなあ~一年生の冬の日曜日、みんなで潟元から屋島へ徒歩で上がったことがある。外出は制服が校則、その時の写真もどこかにあるはず。当時はコンビニなんてなくて、お弁当も売ってなくて、自分で作っていくしかないんだけど、Qくんはいつも握り寿司か海苔巻だった。お父様は堅いところにお勤めだけど、お母様がお寿司屋を経営されているとのことだった。
母曰く「父兄会にサンゴのかんざしして長襦袢の襟を赤く裏返して、粋な人やったわあ~」。田舎育ちの私はその話にそそられたものです。
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男前でしたね。うちの旦那も昔はとっても男前で、コリー犬みたいな顔してたけど、今はまあふつうの中高年。特に劣化したわけではありません。孫娘が怯えて逃げ回るのは「私に痛いことをする人」というのが理由、他意はないはず。でないと嫌われるおじいちゃん、かわいそう。
Qくんの場合、顔はまあまあだけど、何よりも態度が男前。例えば、七月のある日、学校をしばらく休んでいる部員の家に二人でお見舞いに行ったんですよね。午前中の授業終えて、二人で電車の乗って郊外の駅で降りて、駅前のうどん屋で「冷やしうどん」おごってもらった。当時15円とか、30円とかそんな値段。黙って割り箸も渡してくれて、「ああ、いい人だなあ」と感激したんですよね。(こうして書きながら、食べ物に吊られる自分の性癖を改めて反省している私)
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あとは何かな、あの頃は毎日一緒で楽しいことばかりだったので、一つ一つはなかなか思い出せない。そうそう、彼は学園祭の実行委員長をしていた。学校は放任主義、すべて生徒任せ。彼は何をしていたんだろう?パンフレットの編集、広告取り、バザーの仕入れ、業者の選定、生徒への様々な広報、をする実行委員をまとめる仕事。とても大人に見えた。
女の子には人気があったかも。私は同じサークルで、いわば身内。気軽に話していたけど、他の女の子と仲良くしてるのを見るのは面白くなかった。なんでだろ~不思議。個人的に付き合ってたわけじゃないのに。まあそこは女心の不思議なところ。共学校というのはいろんなところでいろんな思いが渦巻いているのであります。
今の子ならどうする?きっとsteadyな関係になれるよう行動を起こすかも。でも、あの時たとえそうなったとして、そのあとどうするの?結婚するわけじゃないし、一緒に過ごすったって田舎町の高校生、帰りに喫茶店かうどん屋へ寄るのがせいぜい。(またうどんかよ)。年末、彼は盲腸炎で入院して弟と見舞いに行って、年明け、お礼に家でパーティするからおいでよと誘われたけど、行かなかった。すねていた私。
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三年生になるとクラスも変わり、廊下ですれ違ったら挨拶する程度。あちら理系、こちら文系、校舎の棟も違うし、私はその頃、小説が大好きな別の男の子と、新古今がどうのこうのとかいう長い手紙をやり取りしていたので、なんかもう過去の人。
でも卒業したあとの春休みに電話貰って、もう一人の男の子と私と三人で、二年生で担任だった独身の先生の下宿へ押し掛け、すき焼き作ったんですよね。細かいことは忘れたけど、彼が車で迎えに来たと思う。彼はもう運転免許持っていて、コロナの中古車に乗っていた。まず先生の下宿へ行き、それから近所のスーパーで肉や野菜を買って、洗って切って、調理しながら、隣の部屋の物理の先生も来られて、「しかし**さんはこれからは++先生の後輩になるわけだね」とか話して、今思えばとてもいい卒業記念になった。なんか私のこと忘れてなかったのね、という感じ。嬉しかった。
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そのあと二年間くらいは、帰省した時連絡取りあってみんなで会ったり、泳ぎに行ったりして遊んでいた。二十歳の夏休み、一度、食事していたら「台風がひどくなったのでもう閉めます」と店を追い出され、彼が自分のコロナで一人一人を送り届けてくれた。風雨がとても強くなって、車が横に横に流される。とうとうワイパーが取れ、道端に停めて、ワイパー握って雨をふき取り、また走りとドリフターズのコントのような成り行き。今も笑い上戸だけど、昔はとってもよく笑っていた私は大笑いした。楽しかった。もう一人のすき焼きの時の男の子が「コロナでなくってボロナ」と悪口言っていた。
ごめんなさい。とても大変だったのに、それに気が付かない私でした。
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三年目くらいになるとみんな帰省しなくなるし、高校の時の遊び仲間も自然消滅。20代で最後に会ったのは私が結婚する直前、街で偶然。15歳の夏のうどん屋以来久しぶりに、近くの喫茶店でゆっくり話した。結婚するにあたっても、いろいろなことをクリアしてやっとたどり着いたと話すと、素直に祝福してくれた。四月から大阪の新聞社に勤めるという話をしていた。なにかの事情で卒業が遅れたらしかった。
あーーーーーだいぶ長くなったなあ。結婚したと聞いたのは人づてに。相手は高校の同級生。私が気をもんでいた取り巻きの女の子の一人ではなく、全然別の人。気をもんでいた人は東京のさる大学を出て、高校教師か何かになったらしいけど、奥様は地味な短大卒、美人。なぜか安心する私。ああ、私ってやな女。美人は許せるけど、頭いい人だったら許せない私って。。。。
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30代の終わり、ある会合で再会して、それからまた年賀状が来るようになった。家族写真の男の子が昔のお父さんそっくりで不思議な気がした。奥様は相変わらず美人だった。とっても幸せそうな写真。よかったーーーー。
(私ですか、家族写真の年賀状なんて一度もない。その年賀状もほぼやめてしまった横着もの)
奥様を亡くされ、お父様も亡くされ、どんな年末を過ごしているんでしょうか。来年は五年に一度の同窓会、太ってしまって行けない私。いかんですねぇ太ると世間を狭くするもと。
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Qくんとは深く付き合わなかったので、今も喪中欠礼くらいはやり取りできるけど、そのあとの新古今の男の子は、着地点もないままに、お互い言葉がきつくなりすぎて、疲れて(飽きられて)、別れた。もう亡くなった(のではないかと思う)
何十年も生きているといろんなことがある。若くて、愚かで、その時の人の思いに気が付かなかった私。今までの実際の暮らしの中で困ったとき、大した悩みもなく笑い転げていたことを思い出すこともあったが、別の人との別の人生にはまた別の困難があったことだろう。
この歳まで元気で来られたんだから、周りの人に感謝しなければ。と、一枚のはがきから、おばさんも来し方行く末をいろいろ思う年の瀬。。。