尼崎城址から東に向かって歩を進めると、大物(だいもつ)という町に出ます。
阪神電車の大物駅があります。
最初に目に付くのが大物主神社、境内には別段目障りになるようなものも、目を引くようなものもありません。
この辺りは公園が多いのが特徴でしょうか。
歴史の散歩みちと書かれた碑が数個ありました。
入船という名前はよく聞きますが、着船という言葉はあまり聞き慣れませんね。
意味は同じなんでしょうね。
両方とも橋の跡ですから、この辺りには川が流れていて、沢山の橋が架かっていたのでしょう。
そして碑の先には必ず公園がありました。
上記は駅の東側でしたが、西側になにやら戦跡の碑があるようなので行ってみると・・・
先の戦争の跡かと思えば、中世戦国時代の戦跡だとか。
えらい古いものが残っていたものですが、碑自体いつ造られたものなのか?
室町幕府の権力者・細川氏内部での争いで当時尼崎城主細川高国と甥の晴元が1531年この地で戦ったとありますが、高国が捕まって広徳寺で切腹した際には、敵将・三好康之に捕らえられたと書いてありました。
別段矛盾するわけではありませんが、ここでの説明と広徳寺での説明に統一性を持たせてほしいものです。
ここでの自刃したという説明と、広徳寺での切腹させられたという説明では多少意味が違ってきます。
阪神電車の大物駅があります。
最初に目に付くのが大物主神社、境内には別段目障りになるようなものも、目を引くようなものもありません。
この辺りは公園が多いのが特徴でしょうか。
歴史の散歩みちと書かれた碑が数個ありました。
入船という名前はよく聞きますが、着船という言葉はあまり聞き慣れませんね。
意味は同じなんでしょうね。
両方とも橋の跡ですから、この辺りには川が流れていて、沢山の橋が架かっていたのでしょう。
そして碑の先には必ず公園がありました。
上記は駅の東側でしたが、西側になにやら戦跡の碑があるようなので行ってみると・・・
先の戦争の跡かと思えば、中世戦国時代の戦跡だとか。
えらい古いものが残っていたものですが、碑自体いつ造られたものなのか?
室町幕府の権力者・細川氏内部での争いで当時尼崎城主細川高国と甥の晴元が1531年この地で戦ったとありますが、高国が捕まって広徳寺で切腹した際には、敵将・三好康之に捕らえられたと書いてありました。
別段矛盾するわけではありませんが、ここでの説明と広徳寺での説明に統一性を持たせてほしいものです。
ここでの自刃したという説明と、広徳寺での切腹させられたという説明では多少意味が違ってきます。