ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

口縄坂

2013-12-12 05:00:00 | 大阪にて

大江神社の階段を降りて暫らく西へ歩くと松屋町筋に出ます。この界隈を下寺町と呼び、沢山のお寺が並んでいます。おそらく東の高台に四天王寺があるので、少し下ったこの地域を下寺町と呼ぶようになったのでしょう。今までも何度とこの松屋町筋を車や自転車で通っていますが、とりわけ関心も無く、素通りしてきましたが、歩いてみると意外な物に出逢います。

               

いきなり一つ目のお寺の前に『植村文楽軒墓所』の碑が建っており、墓地の北側に『文楽翁の碑』が外から見えます。植村文楽軒という人を私は知りませんが、調べてみると文楽の創業者とあり、1751年生まれですから、私より200年ぐらい前に生まれた人でした。文楽翁と言うのは文楽軒から数えて3世目にあたる人だそうです。

             

口縄坂に至るまでのお寺の門にこのような掲示物がありました。東儀一族墓所とあり、ミュージシャンの東儀秀樹を思い起こしたのですが、それは芸名だろうと思っていたら、母親が東儀家の人だったようでした。聖徳太子の腹心だった秦川勝を祖とする雅楽師の名家だと書かれていますが、真実はどうでしょう。江戸時代には朝廷に仕える楽師と幕府に仕える楽師、二手に分かれていたようです。東儀秀樹は宮内庁で楽師として活躍後、プロのミュージシャンになった人ですが、死んだらこのお寺に葬られるのでしょうか。

                       

口縄坂の入り口にある掲示板、口縄坂の由来や周辺のお寺に多くの先人の墓があったと記されています。

             

でも曲ったところは未だ坂ではありませんでした。坂は蛇のような起伏になっているのでしょうか。

             

階段に辿り着くまでにあった善龍寺、門の横には再び口縄坂の由来が長文で書かれていました。“くちなわ”というのは朽ちて古くなった縄のことでヘビの古称、口縄坂の由来はやはり坂の下から見ると長く緩やかに蛇行し、階段が蛇腹のように見えたからという説が妥当だろうと書いてありました。

                       

でも実際に坂を前にして見ると、どのようにも蛇行はしてないし、起伏も有るようには見えません。おそらく近世になって造り直したのでしょう。そうなるといつまでも口縄坂と言ってるわけにはいかないのではないかと思いますが、どうでしょう。

             

坂を登り切って上から見ても蛇行は有りません。

             

坂を登り切ったところにあった織田作之助の『木の都』という私小説のワンシーンでしょうか、“口縄坂は寒々と木が枯れて白い風が走っていた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を昇り降りすることも当分あるまいと思った。青春の回想の甘さは終わり、新しい現実が私に向き直って来たように思われた。風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。”昭和の初めにはこの坂の右の丘に夕陽丘高等女学校があり、織田作はそこの女学生に淡い思いを抱いていたらしきことが窺われます。

             

天王寺七坂スタンプラリーというのを何処かで聞いたことがあるような気がしますが、こうやって何処のどの寺が対応しているのかは知りませんでした。この掲示板に書かれている坂は右から順に北から南へ並んでいます。この掲示板を貼っていたのは、さんご寺だったと思います。

             

口縄坂を登り切り、東に向かって歩いています。突き当りに赤いお寺の塔のようなものが見えていますが、谷町筋の向こう側にある建物です。

             

谷町筋まで戻ってきました。南の方には阿倍野ハルカスが聳えています。ハルカスまで7~800mというところでしょうか。

大江神社

2013-12-11 05:00:00 | 大阪にて

11月26日に初めて警察病院に行き、8220円の診療費を支払い、12月3日に2回目の診察に行き、またまた検査で6760円も支払わされ、6日にも来いと言うので行ってみるとC型肝炎の疑いもあるということでまた検査、8400円も支払う羽目になってしまい、今度は月末26、27日に行かねばなりません。結石の手術には最短で4日の入院が必要と言うことなのですが、未だ入院の日は決まっていません。1月31日にも予約があるので、手術はおそらく2月に入ってからだろうと思いますが、このようにいつでも良いような手術なら受けなくてもいいのではないかと思ってしまいます。

警察病院からの帰り、上町筋から谷町筋へと道路を変えるのですが、谷町筋に入る天王寺警察署西の信号で谷町筋の西側を走るか東側を走るかが決められるのです。要するにその信号で止まりたくないために、青なら谷町筋を渡って西側を走り、赤ならすぐに左へ曲って東側を走ることになるのですが、この日は信号が青だったので谷町筋を渡って西側を走り始めたのでした。

             

走り始めてすぐに西からの道があり、丁度五條宮を見つけた時と同じように奥に鳥居が見え、「こんなとこに神社があるやん」と思って、奥へと行ってみたのです。

             

鳥居に近づくと大江神社という名前であることが分りました。

             

鳥居の左横(南側)は坂になっており、愛染坂という名称が付けられています。谷町筋から西は上町台地を降りていく格好になり、幾つかの坂がテレビでもよく紹介されます。愛染坂の由来は近くに愛染さんと呼ばれ親しまれているお寺があるから。でも坂の両側に置かれている看板、片方は“車両通行禁止”であり、片方は“自転車は降りて通行してください”となっていますが、道路交通法では自転車も車両でしたよね。

             

境内の西にあったスカスカした建築物、何なのかと思い近寄ってみると、額のようなものがかかっていました。

             

昭和39年ですから東京オリンピックが開催された年、大江神社の社殿が新築され、奉納の謡会が催されたようです。その名残ですが、金や白で書かれた文字はきれいに残っていますが、墨で書かれた人名などは殆ど見えません。

                

拝殿の対面(南側)にも鳥居が建っていますが、こちらからは出入りすることは出来ません。真ん中の石碑は松尾芭蕉が1694年(元禄7年)9月26日にこの神社の南隣に存在した料亭浮瀬にて句会を開いたことに因んで1817年(文化14年)に建立されたもの、4面すべてに参加した歌人の句が彫られています。芭蕉の句は“あかあかと 日はつれなくも 秋の風”でした。右の写真は神社の中にあった階段の横に置かれていた“夕陽岡”と彫られた碑、今は夕陽丘と書きますが、昔は“岡”と書いていたのかも知れません。

             

一旦松屋町筋まで降りて北へ行くと次の坂が口縄坂、その北には学園坂があり、学園坂は自転車でも車でも通ったことがあったのですが、口縄坂ってどんな坂だろうと思いつつ、愛染坂ではなく神社の階段を降りていったのでした。

             

階段を降りたところの鳥居、こう見るとこちらから参るのが正解だったかもしれません。

                       

愛染坂の下から見上げたところです。自転車は降りて押すように書かれていましたが、これくらいの坂なら乗ってでも登れそうですが、道に模様が彫り込まれているので摩擦が大きく、ひょっとすると無理かも知れません。
             

BUCKET MOUTH

2013-12-10 05:00:00 | 大阪にて

三男の釣友T中君、昨年の11月に結婚し、今年の11月に長女が誕生しました。名前は男性も女性も使う漢字を使っていますが、一文字なので生野区出身でボクシングをやっていたあの漫才師の名前を思い出してしまい男かと思ってしまいます。三男が誕生を前に出産祝いをと、何故だか私まで巻き込んで家電量販店巡りをさせましたが、今回はそのお礼にということで赤ちゃんも連れて我が家にやってきたのでした。残念ながら赤ちゃんは眠ってしまっていましたが、まだまだ小さくて、起きていても抱いてあげようという自信はありません。やはり生まれたての赤ちゃんを抱くのは怖いですね。

             

内祝いでいただいたのが、この『BUCKET MOUTH』日本語で言うとバケツ口でしょうか。でもこれはバケツではありません。明らかに収納ボックスですが、専用の竿立ても付いていて、工作すればボックスの横に取り付けられるようになっています。強度も十分なので船の艫で使うよりは舷の低い所に置いて、座りながら釣るのに向いているようです。大きさは畳の大きさと比較するとよく分かると思いますが、結構デカいです。

             

中も取手のついた間仕切りがあり、少しは便利そうですが、後はただだだっ広いだけ、もう少し工夫が必要ですが、それは使い手次第ということでしょうか。前回串本に行った時は家でクーラーを貸してほしいと言われたので串本には持って行かず、帰りには姫の家のクーラーに冷蔵庫の残り物を入れて持ち帰ったので、次回はクーラー二つとこのボックスを積まねばならないような状況になり、車のラゲッジスペースはもう既に満杯です。

                       

話は逸れて2本の清涼飲料水、古座のAコープに売られていたものです。240ccしか入っていませんが200円近くの値段でした。物珍しげに買っただけですが、串本のAコープでは見かけません。古座の方が少々静岡に近いからなのでしょうか。静岡までの距離を考えると、串本~古座なんてホンのチョットの距離なんですがね。

                       

『静岡マスクメロンサイダー』の方は栓を開けるとメロンの香りがするのですが、味は甘いだけという感じ、『お茶コーラ』の方は味は普通のコーラと同じですが、後口にお茶の渋みが残ります。

仕事ができるようになりたければ釣りをしろ

2013-12-09 05:00:00 | 読書

参議院でも自民・公明両与党による秘密保護法案の強行採決という暴挙が行われました。今回は野党を取り込むことも出来ないほどの反対意見で包囲されていたにも拘らず、野党が求める審議も尽くさなかったのです。何故このようなことになるのかは前にも述べたように、事の是非は論外に置き、議員の過半数を握っているという数の論理だけで、兎に角・遮二無二この法案を通したかった安倍政権の異常さがそうさせたのでしょう。安倍政権の異常さは石破幹事長の「デモはテロと同じ」というブログでの発言にも表れていますが、一旦は取り消し・謝罪したものの会見では同じことを繰り返し述べました。石破氏は国会を取り巻いて大音量で意見を通そうとするのは恐怖であり、テロの手法と何ら変わらないという趣旨の発言だったと思うのですが、平和的に意見を述べようとするのと、他人を殺してまで自分の意見を通そうというのでは天と地ほどの違いがあり、恐怖感と言えば数を頼りに意見など聴かないという与党の態度の方がよっぽど強権的であり、憲法で保障された民主主義を守ろうというデモ隊の声が恐ろしいと感じるのは、憲法や民主主義を根底から覆そうとする石破氏らにとっては恐怖なのかも知れません。でも騙されませんよ、石破さん、貴方達は完全に官憲に守られているのですから、テロと同じような恐怖を感じるなんてウソでしょ。

さて、今日のタイトルは最近私が読んだ本のタイトルを使っているのですが、私が釣りをする人間だから、私は仕事が出来ていたということを証明したいわけではありません。実際そんなことは無かったと言ってしまえば、この本の内容にケチを付けることになりかねませんから、私の仕事についての真偽のほどは置いといて、釣りと仕事の関係について、釣りをする以前、準備の段階から釣行、竿出し、釣りを終えた後のことなどを例に挙げながら、仕事との関係を説いているのですが、釣り仲間を増やしたいのか、仕事が出来る人を作りたいのか、その辺りの本音がよく解りません。

             

本屋に通わなくなって久しくなりますが、本を選ぶのには家に配達してもらっている新聞の書評などを参考にしながら、丸善・ジュンク堂からネット通販で買っています。何より送料が無料というのが嬉しく、これならわざわざ電車賃を払ってまで本屋に行く必要がありません。近所にある本屋などには私が読みたいと思う本などなかなか置いてないのです。

『原発ホワイトアウト』現役官僚による空恐ろしい暴露小説です。この本を読むと原発にしがみ付く政治家、原発を推進するための電力会社の策謀、原発によって電力会社が儲かっていく様子がよく解ります。現実を暴露しようとする正義感の強いジャーナリストは権力の手によって抹殺され、原発は国家によって守られているように思えるのですが、最終的には・・・、小説ですから結末はどうなるのか、起承転結がハッキリ描かれています。

平将門は平安中期の坂東の武者、時代も姓も違うのに木曽義仲とよく混同してしまいます。ストーリーの展開はほぼ将門記と同じですが、話の起の部分で将門は祖父の平高望から「帝を越える真の王となるであろう」との言葉を得、一方その場に居た同年齢の平貞盛に対して「我が一族の繁栄の礎となる者」と諭されます。以降この言葉が二人を呪縛し、二人は無二の親友にもなり、宿敵ともなって行くのです。『絶海にあらず』で藤原純友の乱を読み、今回将門の乱を読んだのですが、同時期に起こった二つの乱、まとめて承平天慶の乱と言いますが、この東西の乱が共に相呼応して行われていたら、歴史は変わっていたかも知れません。そうそうこの矢野隆という著者は、私が昨年訪れた久留米市出身だそうです。

                       

「慰安婦の存在は国家当局とは無縁」だとか「南京大虐殺など無かった」という戦争好き系政治家共が声高に叫んでも恥じない時代になってきました。先の戦争への反省も無く、当に秘密保護法が制定されるのですから、これからは戦争への道を突き進んでいくのでしょうが、戦前・戦中を体験してきた人が少なくなる中、こうした意図的でない話を書いている人の本をよく読んで、自分は戦争に協力したり、騙されることの無いよう努力しなければならないと思っています。

             

写真右の本は満州に暮らしていたという女性が綴った当時の思い出、政治的や歴史的な臭いの無いこういった人が書いているものが、案外真実を言い当てているかも知れないと思って読んでみました。満州に住む彼女らが本当に何も知らされてなかったということが、戦後になってから満州事変を知って行くという件からよく分かります。

相変わらず古事記や日本書紀に関心があるのですが、現人神などと言って国民を騙し、戦争へと駆り立てて行った天皇家の真の歴史、本当に“万世一系”だったのかが知りたいのです。こんな本を読んでも真実の天皇家の歴史が解る筈もないのですが、記紀を原文で読める力も無いので、納得できる解説書に巡り合いたいのです。

             

そろそろ年賀状を作らなければならない時節、足らないけど年賀状を100枚買いました。早く買えば抽選で何か貰えるというので、応募してみました。たまにこのような募集をしている葉書が入っている製品があるけど、たいていは50円切手を貼れと書いているので応募はしませんが、今回は葉書の販売・回収・配達元なのでなのか無料だったのでした。

ハリハリ鍋

2013-12-06 05:00:00 | 田舎

去年の今頃、紀伊富田のU畑君の家に寄せて貰った時、近くの『Aコープとんだ』で売っていたカラスミの話が出て、売っているところまで案内してもらったことがありましたが、最近三男が『よってって』でカラスミを買って来いと言うので、見るのですが全く置いてなく、最近は42号線を富田橋のところで左折し、その『Aコープとんだ』を覗きに行っていますが、前回もカラスミは売っていませんでした。『とれとれ市場』なら売っているというので、Aコープからは左に出て白浜駅の方へ、堅田南の交差点・ローソンの手前の信号を左折して踏切を渡り、突き当りを右折すると一本道で西越の信号に出るので、左折し次の信号を右折すると『とれとれ市場』に到着です。U畑君もとれとれの湯に連れて行ってくれた時に通ったので、地元でも富田からとれとれ市場までは最短の道なのでしょう。

             

カラスミも買ったのですが、『とれとれ市場』へ行くと(最近はあまり寄りませんが)、たいてい買って帰るのが鯨肉、解凍をしたものも売っているのですが、買うのは冷凍のものです。解凍物は薄く切り難いのと早く食べなければならないのが難点ですが、冷凍だと半解凍にしたときに切り易いし、いつでも好きな時に食べることが出来ます。一時は高くて買えなかったクジラの肉も最近はかなり安くなりました。これだけで6000円足らずで済みます。一番上の一番高い尾の身が少々美味しくなかった感じがしました。

                       

我が家のハリハリ鍋の出汁は30年間以上、この本の出汁を手本にしています。著者は土井勝、よくテレビに出演している土井善晴はこの著者の次男です。今回はこの本を見ながら三男が出汁を造りましたが、「甘いな」と言っていました。でも鯨肉を入れると丁度良くなるのです。二人では一度で食べ切れず、二日間食べ続けました。

             

久し振りに作ってみたおでん、こちらはおでんの素を入れ、砂糖や醤油、だし汁などを加えて味をつけます。『とれとれ市場』で買ったおでん用のコロも入っています。食べるときに入れるのが春菊ですが、今回はこの春菊が問題でした。

               

スーパーで手にしたときは「きれいやな」と思って買ったのですが、洗おうと思って取り出してみると、腐った部分が多々あるのです。値段の安い『スーパー玉出』で買ったのではありません、より遠いけど、商品は安定している筈の『ディリーカナート』、いずみや系のスーパーで買ったのです。春菊は土が残っていることが多いので、必ず洗わなければなりませんが、この茎の間で腐っている部分を取り省くのは手間がかかります。

             

ひどいもんです。“新鮮野菜”と表示してあるのにこの様は何なんでしょう!これも商品偽装のひとつであることは間違いありません。出荷業者が悪いと言う勿れ、品物を点検していない販売業者も悪いのです。『大阪泉州産、K・C・S』と表示してあるだけ、袋のこの白い部分で根の方を見えなくしてあるんですね。


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股ヶ池明神

2013-12-05 05:00:00 | 大阪にて

桃ヶ池公園の橋の一つに赤い鳥居へと続く橋があり、何処へ続くのか分からなかったのですが、何か珍しいものはないかと橋を渡ってみました。鳥居の扁額には股ヶ池明神の文字、この写真を見てピンと来た人もあるかも知れません。NHKの朝ドラ『てっぱん』でロケ地として全国放送されました。と言っても私は当時、朝ドラを見る習慣はありませんでした。

             

昨日綴ったように聖徳太子が桃ヶ池で大蛇を退治した話が残っているそうなのですが、退治した大蛇を浮島に穴を掘り大蛇を埋葬したのですが、その後も怪異が続いたので霊を鎮めるために『おろち塚』を造ったと言われており、それは昭和初期まで残っていたそうです。その『おろち塚』の北一丁の地に、1780年代になって角田某の夢に出た蛇霊を奉るために丸高・丸長両龍王を祀ったのがこの股ヶ池明神だと言われているのです。

                       

社の壁に掛けてあった板に『平成25年度のニュース』と題して、新聞の切り抜きが貼られていましたが、全てスポーツ関連のニュースばかり、それも殆どが野球関係なので、些か不満です。

               

この狭い境内には幾つもの石碑や石像が置かれていました。左のものは『股池改修記念碑』と書かれています。真ん中にはネコとタヌキが合わさったような顔の像に袈裟を着けたような姿の像です。左の碑には『おさき大神』と一つだけ書かれた石と『松天龍大神』と『豊姫大神』と二つの神の名が刻まれた石が並んでいました。

                        

境内があまりにも狭いので、さして大きくもない御神木のクスノキの全体が写りません。

             

反対側に降りて来ると同じように『股ヶ池明神』と書かれた扁額のある石の鳥居、どちらが表でどちらが裏かよく分かりませんが、こちらは周囲の道路に面しています。

       

周りにもいろんなものが並んでいます。左は股ヶ池地蔵、真ん中はその祠に納められていた石ですが、何も彫られていません。右には何も書かれていませんが、中央に置かれている石には白い蛇が描かれていました。

             

これは境内にあった『股池改修記念碑』の裏側、田邊町・大字北田辺・町民一同の文字が見えます。

股ヶ池明神は神仏習合の様相を色濃く残す神社で、不動明王や地蔵菩薩、聖徳太子や更には弘法大師まで祀られているそうです。神仏習合の思想は平安時代から始まっている(形式としては奈良・飛鳥時代からあった)ように思えるのですが、明治初期になって廃仏毀釈の運動が広がりました。何故、長い歴史を破って廃仏毀釈だったのか、国家としての信教を神道に統一するため、仏教との分離を目的としていたと習いましたが、貴重な文化財をたくさん失いましたし、失いかけたものも多数ありました。私は今の仏教人と神社に仕える人を比べてみると、戦争への態度が著しく違うと感じています。仏教関係の多くの人は戦争への道(例えば秘密保護法など)に反対の声を挙げますが、神社関係の人からは全くと言っていいほど何の声も聞こえてきません。国家として富国強兵を強める中で虐げられた仏教というのは、人を殺すということに反対の思想であったので、時の政府に疎んじられ廃仏毀釈に至ったのではないかと思うのです。

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桃ヶ池公園

2013-12-04 05:00:00 | 大阪にて

南海平野線の線路跡を自転車で走っていたわけですが、それは全く阪神高速松原線の高架下を走っているのでした。1980年に松原線が誕生し、南海平野線が廃止されたのですが、前にも述べたように私は南海平野線に乗った覚えがありません。なんとは無くそうなんだろうなぁとしか分からないのです。でも阿倍野から駒川まで北西から南東へとほぼ一直線に走っていることから見ると、最初から家など無かった道路或いは軌道があったんだろうと言うことは簡単に想像できます。桃ヶ池まで来て懐かしく思いながら、少し散策してみました。

             

阪神高速の高架下を離れると池の周りには遊歩道が設けられています。南海平野線の“ももがいけ”駅は股ヶ池と書いていたそうです。おそらくこの池が見渡せる位置に駅があったのでしょう。

       

ここ桃ヶ池は阿倍野区にあり、私が通っていた高校の近くにあります。あまりに近過ぎてクラブの練習でここまで走ってきた覚えはありません。クラブでは大和川まで走って、再び帰ってきたことをよく覚えています。左の写真にはJR阪和線の高架が写っていますが、電車に乗ると天王寺を出て最初に右側に見えてくる池がこの桃ヶ池、暫らく走ると再び右側にシャープがある長池が見えてくるのです。逆に長池や桃ヶ池が見えてくると長旅も終わりだなぁと思うのです。

地図で見ると池は4つあるように見えますが、歩いているとそんな感じを受けることはありません。

             

中洲には広々とした公園があり、遊具は置かれていないので、小学生などが球技などを興じているのでしょう。私も上町台地を登って、降ってここで遊んだことがあるような感じがするのですが、何時の頃のことなのかあまりよく思い出されません。

                       

片隅に残る『国威宣揚』の文字が刻まれた碑、右側には大阪市長坂間棟治の名前が見えます。昭和11年から20年の終戦まで勤めていますから、戦争推進の役目を担った市長だったのでしょう。

               

                    

地図で見ると池が4つあるとように見えると書いたのですが、必要な所に橋がいくつも架かっています。地図で池を区切っているのは橋なのでしょう。だから橋の下の水は行き来しているのです。池の南端の方に蓮の花の茎が枯れて残っています。レンコンを栽培しているのかも知れません。でも公園内ですから、誰かが栽培しているのではないでしょう。

             

桃ヶ池から見える阿倍野ハルカス、霞んでいるので合成写真のように見えます。

                       

桃ヶ池はその昔百ヶ池と書かれたり、股ヶ池や脛ヶ池と書かれていたようです。池がいくつもあるから百ヶ池だとか、池の形が股引のようだからとか、聖徳太子の使いが池で大蛇退治をした際、深さが股までだったという説があるようです。

             

桃ヶ池では釣りは禁止ですが、釣りをしている人が2~3人いました。

池の畔にサギが佇んでいます。魚をくれと言う仕草は見せませんが、カメラを向けても逃げようとはしません。

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背戸口公園

2013-12-03 05:00:00 | 大阪にて

とうとう今年も後1ヶ月、時が経つのは早いものですが、歳を取るのも早いものです。大阪に居るとあちらこちらに出向いておれば、ネタも尽きることも無さそうですが、家に籠って早朝にモモの散歩に出るくらいではネタもそうはありません。ここ暫らくは、南海平野線跡の記事を書こうと今月初旬に病院の帰りに立ち寄ったことをネタにしたいと思います。病院は天王寺区なのですが、すぐ横は生野区、生野区を南北に抜けると平野区に到達することが出来るのです。

             

南海平野駅のあったプロムナードから西へ行くと内環状線があり、その道路を越えると南海平野線跡が残っていると言う情報を得たのでした。未だ秘密保護法案が国会で通ったのではありませんが、法案が法になってしまえば、このような情報を得るということが、ひょっとしたら罪になるのかと思えば、うかうかあちこちに取材に行ってる場合ではありません。どうかこのまま暫らくは、安心してあちらこちらに取材に行けるよう、秘密保護法案は廃案にしてもらいたいものです。

      

探していた南海平野線の跡地は案外すぐに見つかりました。そらそうですわな、南海平野駅のあった辺りからまっすぐ西へ見当をつけて走ればいいのですから。この線路跡を記した公園を背戸口公園と言います。公園内に曲がりながら敷かれた線路は砂場を越えてモニュメントに達します。

             

このモニュメントには南海平野線の駅名が書かれていて、左から(西から)恵美須町・霞町・今池・飛田・阿倍野・苗代田・文の里・桃ヶ池・田辺・駒川町・中野・西平野・平野とひらがなで残されていました。ここはひょっとすると西平野駅のあった場所なのかも知れません。

       

背戸口公園を越えると南海平野線の跡は阪神高速松原線の下に走るようになりますが、真実は逆で南海平野線の上に阪神高速を造ったというのが正しいのです。その側道を走っていると、中野という駅を彷彿させる信号がありました。今川改修の碑もありましたが、平野区の地勢には疎い私は今川とは町名だとばかり思っていました。現に今川と言う川があるのですね。まぁ川と言うより用水路と言う体を為しているのですが・・・。

             

この碑の傍に汚されてよく読めない案内板が埋め込まれていました。この季節ですから何処にサクラが植えられているのか、ピンときませんがこの界隈にはサクラが植えられていて、それを愛でるように花見が催され、日本古来から和歌や俳句で親しまれていたのだから、これからもそういう風土を大切にしていってほしいという趣旨の言葉が書かれていました。

               

阪神高速松原線の下の平地は南海平野線跡、その下には地下鉄谷町線が走っています。平野線の名残が谷町線の駅名にも表れており、ここにも田辺駅があります。そのまま進むと地下鉄の駅こそありませんが、桃ヶ池が見えてくるのです。

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五條宮

2013-12-02 05:00:00 | 大阪にて

警察病院からの帰り夕陽丘ストリートを西へ走っていると、左(南)側の奥に一瞬鳥居が見えたので、一旦上町筋まで上り信号を渡ってから、鳥居の見えた狭い路地まで引き返したのでした。12時を少し回った時間ですが、南から太陽が照りつけ真昼とは思えない影が出来ています。鳥居には文政十二己丑歳四月吉日とあり、もう後15年も経てば200年前のものということになります。

             

鳥居を潜ると標柱が建っており、左の柱には“欽明仰聖皇”とあり、明らかに欽明天皇が聖君であったと讃えているのであり、右の柱には“冶理逢煕運”と刻まれ、理を以って治めれば恩徳が広くいきわたるというような意味なのでしょう。

       

鳥居の横に有った木製のお触書、こう書いてあります。“定 車馬ヲ乗入ル事 魚鳥ヲ捕ル事 竹木を伐ル事 右條々於境内令禁者也 明治四十年 大阪府”明治40年と言えば100年チョット前、黒ずんでいますが板に墨で書いた文字がハッキリ残っています。真ん中は標柱の奥に有った碑“皇極開昌運”と書かれています。皇極天皇は栄えゆく運を開くと言うほどの意味なのでしょうが、この神社、天皇の名前がよく出てきます。右の写真は標柱から入ってきた鳥居の方向を写したものです。

             

境内へ入るところにあった標柱、これは分かり易い“清明 正直”と書かれています。この門から清廉潔白として入れますか、猪瀬知事?まぁ、選挙前に5000万円も借りておいて選挙には充てていないなどと言い張る魑魅魍魎の類ですから、こんな文言など目には入らないのでしょう。

             

こちらが拝殿です。

               

拝殿の右横にあった祠の長屋と稲荷社、真ん中の菊の御紋の入った扉があるのは宝物殿でしょうか。稲荷社の前にこちらを向いている狛犬は拝殿のもの、なかなか面白い顔をしています。

             

どうやらこちらが正面の鳥居のようです。勝山通りに面したこの神社ですが、今まで何度かは車でも自転車でも、前を通った筈なのに一度も気が付いていませんでした。

                       

このイチョウがこの神社の御神木、樹齢約500年と書かれています。江戸末期の記録に高さ22m、周囲5mと記されているとありましたが、ウソを書いてはいけません。江戸末期当時日本人はメートル法など使っていなかったのです。30年ほど前に枯れかけ、倒壊寸前だったのを手当したのだそうですが、周囲5mもあるでしょうか。

               

この神社の祭神は敏達天皇だとか、この地が中国(ここでは支那と表記)の唐制による我が国最古の都が難波宮で、その五条筋にあたり、敏達が皇太子の頃ここに住んでいたと伝えられていると記されていますが、難波に都が移されたのは孝徳天皇の頃だったと覚えているので、都がこの地に移されたのは敏達の皇太子時代よりずっと後だと思うのです。

また橘氏の祖神を祀る全国唯一の神社だとか、そんなことを書かれると橘氏とは何の縁も所縁も無い私などが訪れたのは、なんと筋違いのことだったのかと反省することしきりです。

右は勝山通りの五條宮前の交差点から見た神社ですが、何処に神社があるのかよく分かりません。

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