狩野永岳<かのう・えいがく>は、幕末期に京を中心に活躍した画家です。京狩野家第九代として、激動する幕末期に京狩野派を再興した人物です。生年寛政2年(1790年)は、若冲没の10年前。亡くなったのは慶応3年1月2日、同1867年は明治改元の前年、坂本龍馬や中岡慎太郎たちが非業の死をとげた動乱の同じ年です。永岳享年78歳。
永岳は朝廷禁裏、摂家九条家、東本願寺、紀州徳川家、譜代筆頭彦根伊井家、臨済や真言の本末寺などの御用絵師。また近江長浜や飛騨高山などの豪商富農たちとも深い絆をもっていました。狩野派の絵描き集団、工房の連中を養うことは九代当主として、かなりの重荷であったろうと推察します。
彼も若冲同様に晩年、実年齢を加算しています。以下は、高木文恵氏の記述。[1]
永岳は、慶応三年(1867)正月二日に没した。享年七十八歳であった。京狩野派の菩提寺は、真宗大谷派の浄慶寺で、墓所は東山の泉涌寺の裏山にある。永岳の年齢については、ひとつの謎がある。六十四歳までは実年齢を称しているのに、六十五歳からは二歳加えた年齢を称していることである。年紀はないが、七十八歳で亡くなったはずなのに七十九歳と記す作品があり、京狩野派に伝わる資料では、永岳が八十歳まで存命したことになっている。これらはいずれも二歳加齢したためと考えられる。どのような理由からなのか、今後の検討を必要とする。
また脇坂淳氏は「狩野永岳の年齢加算問題」と題して記しておられる。[2]
狩野永岳(1790~1867)の作品は今日、相当数が知られるようになり、彼の作品の中には制作時期を示す年紀、あるいは制作した時の年齢を記した作品が存在する。…1853年3月までは通年の数え年を表記し、翌年の1854年2月になると急に年齢を増す。永岳は64歳から新年を迎えると65歳になるのが普通であるが、[そのうえに2歳を加算して]一気に67歳という年齢を標榜するのである。そして以降は年が変わるたびに67歳に1歳ずつを加えて80歳の年に没する。実年齢は78歳であった。
永岳は嘉永6年3月(1853)までは、通年の数え年64歳を記している。ところが翌年の嘉永7年2月には65歳ではなく、2歳加算の67歳との年齢を書している。嘉永6年3月(1853)から翌嘉永7年2月までの1年足らずの間に、3歳加齢しているのである。一気の加算であるか、二度三度にわけての加齢であるか。それは不明ですが。
嘉永7年11月27日、安政に改元された。しかし彼の年齢加算は、改元の9カ月も前である。また嘉永以降の改元は永楽没の慶応3年までに、安政、万延、文久、元治、慶応と五度もあった。しかし永岳の加齢は、嘉永6年から7年にかけての1年足らず間の、実1歳プラス2歳のみで、度々の改元とは無縁である。両年加算の後、永岳はただ単に1歳をふつうに足しただけである。
狩野家資料には「禁裏御内、狩野縫殿助(永岳)、八十歳」。ボストン美術館「雪景山水図」には「金門(禁裏)畫史狩野永岳八十翁筆」とあるという。
通説「還暦すぎては年はなし」は、確かのように思う。しかし改元ごとに一歳加算するという説には、納得しかねる。これは川上不白の略記載の推測でしかない。わたしも還暦が近いだけに、考えるところが多い…。
[ 参考資料 ]
[1] 高木文恵著『伝統と革新―京都画壇の華 狩野永岳―』
彦根城博物館編発行 2002年10月刊
[2] 脇坂淳著「狩野永岳の年齢加算問題」
「京都教育大学紀要」№102 2003年3月刊 所収
<2010年5月5日 南浦邦仁> [ 227 ]