ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

流星雨

2010-05-16 | Weblog
語り紹介の達人というべきプロフェッショナルがおられる。映画なら浜村淳さん、本の紹介解説なら児玉清さん。おふたりの熱い語りを聞いていると、観たい読みたいという気についなってしまう。
 児玉さんはNHKラジオ、朝の「ラジオビタミン」にもときどき出演され、名調子で本を紹介される。偶然聞いた一冊が、津村節子著『流星雨』(岩波書店1990)。
 描かれた時代は、慶応4年すなわち明治元年から、戊申戦争が終わり会津藩が斗南に転封になった直後の明治5年まで。主人公の姉妹は10代です。
 このブログ連載の4月18日に「容保桜」かたもりざくらのことを紹介しましたが、京都府庁中庭に咲く容保桜、かつて幕末に京都守護職であった会津藩主・松平容保にちなんでつけられた桜の名である。この地には、守護職屋敷があったことによります。

 容保の会津藩は幕府を、そして天皇を守るため、全力をあげて京を守護しました。しかし時代の流れに抗せず、賊軍・朝敵とされ追討令をうける。会津若松の鶴ヶ城籠城戦、一般人をも巻き込んだ市街での激戦。会津は徹底した非情な攻撃をあびる。「賊軍の死体は埋葬してはならぬということで、あちらこちらに散らばっている戦死された方々の御遺体は、腐ってひどい臭いを放ち、新しいものは野犬や狐、狸が餌にして食いちぎっており、まるで地獄でございます」

 籠城に間に合わず、郊外に逃げる主人公の上田あきたち。上田家は、父とふたりの兄が激戦で戦死。祖母は厳寒中の逃避行の途次に死去。祖父儀右衛門と、母しづ、妹かよ。会津降伏のあと、多くの人たちとともに徒歩で、本州最北の地、下北の斗南(となみ)に向かう。
 斗南は政府から与えられた転封地であるが、表向きは3万石だが、実質の石高はわずか7千石。会津藩は、28万5千石であった。この不毛な厳寒の地に、旧会津藩士の家族が1万数千人も押し寄せる。耕作もかなわぬ、生き抜くことは至難で会った。たいていの住まいが掘立小屋で、真冬には風が莚で覆った小屋内を吹き抜け、炉の横に置いた鍋水も凍る。
 新藩名「斗南」は、移住を機に命名された地名です。中国の詩文「北斗以南背帝州」からとったそうです。陸奥国もまた天皇の領土。われら朝敵・賊軍にあらず。ともに北斗七星を仰ぐ帝州の民である。いまは北の果てで忍従の日々を送っていても、いつかは南に帰り隆盛を図る。薩長藩閥政府に対する反骨を秘めての命名という。
 
 妹かよは「母さま、殿さまは将軍さまのご命令で、天子さまのおられる京都をお守りする役目をしておられたのでしょう。それなのになぜ、会津は賊軍になって討たれることになったとですか」
 母しづは「殿さまは騙されなさったのじゃよ。将軍さまも、殿さまを見捨てなさったのじゃ。殿さまほど忠義の心篤いお方はおられぬのに…」
 姉のあきがいう。「私は承服しかねます。なぜ会津だけ犠牲にならねばならなかったのですか。なぜ会津をあれほどまで、いためつけねばならなかったのですか。たかが会津一藩を叩き潰さねば、維新は成らなかったのでございますか」。あきの眼から、涙が溢れた。

 言葉であらわせないほどの厳寒の小屋のなかで、祖父儀右衛門の病が重くなる。かよは母のしづに「お医者さまをお呼びしようと思います」。しかし彼女たちには、医者に支払う費えもない。
 母しづは「そなたの考えていることはわかる。そんなことをして、もし命が助かったとしても、おじじさまが喜ばれると思いますか。生きるために他人さまがしたことを批難することは出来ぬが、戦死されたそなたの父上や兄上たちの名を汚すようなことをするくらいならば、一家揃って餓死したほうがよい」
 「おじじさまを見殺しにしてもよいと…」
 「そうです。見殺しにしても、自分を汚すようなことはなりませぬ」
 あきは、商人の妾になって家族を救おうと、ふと思ったのでした。母はあきのこころを見抜いていたのです。

 紹介は以上です。「読んでみようかな?」そんな気持ちになられましたか? やはり、児玉清さんの語りにはかないませんね。
 ところで、児玉さんの年齢ですが、一年ずれておられます。戸籍上は、昭和9年(1934)1月1日だそうです。しかし本当の出生日は前年の、1933年12月26日。親御さんは、1週間ほど遅らせての出生届けをされた。
 理由は「生まれたばかりの赤子が、数日で数え年2歳になってしまうのは不憫だから」ということだそうです。数えでは、生まれた途端に一歳、つぎの正月で二歳になってしまいます。
 満年齢採用の法的決定は、1902年のことだそうですが、児玉さんより少し年上のわたしの母は、いまでも正月元旦に歳をとり、誕生日でも加算しています。年齢には、満と数えのふたつが共存しています。
 わたしの記憶では、昭和30年代ころまで、年配者は年齢を数えでいうことが多かったと思います。お葬式の享年・没年齢は、いまだに踏襲しているのでしょうね。

※この本『流星雨』はまず岩波書店から刊行。そして文春文庫でも出ていたのですが、どうも品切れのようです。わたしは図書館で岩波版を借りました。書籍流通については、考え思うことが多々あります。ところで最近、調べているのが「本のシルクロード」。深い探索ではありませんが、近いうちにお披露目しようと思っています。乞う、ご期待?
<2010年5月16日 南浦邦仁> [230]
コメント (2)
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