いつもコメントをくださる奇特な方、「na-ga」さんから鰻蒲焼についての便りが届きました。
「うろ覚えなので原典調べてほしいのですが、丑の日の薬食いは もともと「う」のつくものなら何でもよく、うどんが主流だったけど 、源内はコピーでうなぎに誘導した。 そんな話だったのでは 。
なまずは「う」がないので、丑の日には食べないと思います。
うなぎと丑の日は縁はあったけど、 源内はそれをコピーで主流にした点で、貢献したとは思います。」
『万葉集』に大伴家持の鰻歌が二首あります。現代語訳で
痩せた石麻呂さんに、申し上げます。夏痩せに、よいものだそうです。鰻を捕って食べてごらんなさい。<16-3853>
痩せながらも、生きていたら結構だろうに。ひょっとして、鰻を捕ろうとして、川に流されるなよ。<16-3854>
石麻呂は吉田連老のこと。彼は生まれつき身体がたいへん痩せていた。大伴家持はこの歌をつくって、からかったとされています。
夏バテや虚弱体質にウナギは効果があると、このころには認識されていたのでしょうね。
また土用の丑の日に川で水浴すると病気にならないとする俗信は、いまも各地に残っているそうです。家持は石麻呂に水浴をすすめながら、「あの細い体では流されてしまうかも」と心配したのでしょうね。
少し気になるのは当時、鰻を「むなぎ」といっていました。「うなぎ」ではなく。丑の「う」音とは異なるのです。
「う」のつく、ウリ、ウドン、ウシ肉などを食べるとよい、などと風習が広がったのは、だいぶ後の時代、夏土用のウナギが定着してからのことかと思ったりします。戦前にモロゾフが仕掛けた2月14日のバレンタインデー。昭和40年代になって、やっとチョコレート業界は盛況成功期をむかえる。そしてだいぶ遅れてホワイトデーが便乗しました。「ウ」のつく食べ物もそのたぐいではないかしら。
食い合わせ、食べ合わせという言葉風習があります。わたしが祖母に聞かされたのが「ウナギと梅干」。同時に食べると腹痛になるという。科学的には何の根拠もないらしい。しかし注目すべきは「うめぼし」です。「う」がつきます。なぜか、一緒に食べてはいけないのです。ともに夏バテ防止の食べ物とされていたはずですのに、磁石ではないですが正と正、プラス同士の反発を嫌ったのかもしれないとも思います。
夏土用の丑の日にはさまざまの祭りがあります。この日は新暦7月下旬にあたりますから、病気退散祈念が多い。京都をみますと、下賀茂神社ではこの日、子どものひきつけ除けの石を三宝にのせて参拝者にわかつ。
梅宮神社では神供として、桂川のアユを供える儀式がある。結構、油が乗っていますか?
東寺弁天堂では池のドロ「東寺の泥」を授ける。これを皮膚に塗ると霜焼けにかからないという。夏に霜焼け除けとはずいぶん気が早いです。
そして日蓮宗各寺では、夏土用丑の日の灸には格別の効果があるとする。焙烙灸(ほうろくきゅう)とよぶそうです。
「ウナギを食べてはいけない」とタブーを守っている地も、国内には多々あったそうです。丑寅年の生まれのひとは、生涯の守護本尊が虚空蔵菩薩で、一生ウナギを食べないという風習もある。ウナギは虚空蔵の使いともいうらしい。
禁忌の地では薬として、ウナギをどうしても食べざるを得ないときには、神社に絵馬を奉納する。神仏の秘薬鰻は本人の信心から、本当によく効くそうです。
京都市馬町小松谷では、土地の三島神社に参ってからウナギを食べると万病に効くという。
いずれにしろ、脂肪に富んだ魚類を夏バテ防止に食する。またこの日には、黒いものを食べるという風習も、どうもあったようです。何で読んだのかはさだかではありませんが…。 皮が黒くこげたウナギ蒲焼は、ぴったりでしょう。ナマズも可かもしれません。赤い梅干を嫌うのも、黒色志向からかもしれません。
源内は当然、『万葉集』石麻呂を読んでいたのでしょう。また黒い食べ物でもある。滋養に富んでいる。民間で信じられていた鰻信仰もある。さらには知りあいの鰻屋が、売れずに困っている。蒲焼ウナギ売り出しキャンペーンに成功すれば、ウナギ好きの源内は恩人として、その店でいくらでも堂々と無銭飲食ができる…。「本日、土用丑。蒲焼鰻を食おう。夏バテ退散。万病絶効!」。名キャッチコピーですね?
ところが、柳田國男は「江戸で鰻蒲焼の大流行をみたのは、天明5年1785よりはそう古くからではないらしい」(俳諧評釈)。天明5年は、源内没1779の6年後です。そんなはずはない! この記述には、あっと驚く片瀬為五郎です。
『耳袋』には「浜町河岸に大黒屋といえる鰻屋の名物ありというは天明のころのことにや、御府内・江戸にて鰻屋のはじめなるべし」。柳田は『耳袋』説をとったのでしょう。
ところが、南方熊楠は寛延4年1751、江戸のこととして「深川鰻名産なり、八幡宮門前にて多く売る…このころまで、いまだ江戸前鰻という名をいわず、深川には安永ころ(1771~1781)「いてう屋」といえるが高名なり」(日本及日本人)。これは『新増江戸鹿子』からの引用です。
「いてふ」いちょうは銀杏ぎんなんですが「胃腸」かしら、そのようにも思ってしまいます。
蒲焼の江戸での流行は、源内在世中のことであったと、わたしは確信します。もしかしたら夏土用丑の鰻蒲焼導入1号店は、源内推薦「銀杏屋」鰻蒲焼「胃腸屋」かもしれません。 なお京の鰻蒲焼は江戸よりいくらか早く、元禄期から増えだしたようです。また江戸にも18世紀初半ころに「軽少」な商いの蒲焼屋がはじまったとあり、軽少というからには、固定した店を構えぬ、おそらく天秤棒肩担ぎの移動式蒲焼屋から、鰻蒲焼商人が出現したようです。
<2010年5月29日> [ 233 ]
「うろ覚えなので原典調べてほしいのですが、丑の日の薬食いは もともと「う」のつくものなら何でもよく、うどんが主流だったけど 、源内はコピーでうなぎに誘導した。 そんな話だったのでは 。
なまずは「う」がないので、丑の日には食べないと思います。
うなぎと丑の日は縁はあったけど、 源内はそれをコピーで主流にした点で、貢献したとは思います。」
『万葉集』に大伴家持の鰻歌が二首あります。現代語訳で
痩せた石麻呂さんに、申し上げます。夏痩せに、よいものだそうです。鰻を捕って食べてごらんなさい。<16-3853>
痩せながらも、生きていたら結構だろうに。ひょっとして、鰻を捕ろうとして、川に流されるなよ。<16-3854>
石麻呂は吉田連老のこと。彼は生まれつき身体がたいへん痩せていた。大伴家持はこの歌をつくって、からかったとされています。
夏バテや虚弱体質にウナギは効果があると、このころには認識されていたのでしょうね。
また土用の丑の日に川で水浴すると病気にならないとする俗信は、いまも各地に残っているそうです。家持は石麻呂に水浴をすすめながら、「あの細い体では流されてしまうかも」と心配したのでしょうね。
少し気になるのは当時、鰻を「むなぎ」といっていました。「うなぎ」ではなく。丑の「う」音とは異なるのです。
「う」のつく、ウリ、ウドン、ウシ肉などを食べるとよい、などと風習が広がったのは、だいぶ後の時代、夏土用のウナギが定着してからのことかと思ったりします。戦前にモロゾフが仕掛けた2月14日のバレンタインデー。昭和40年代になって、やっとチョコレート業界は盛況成功期をむかえる。そしてだいぶ遅れてホワイトデーが便乗しました。「ウ」のつく食べ物もそのたぐいではないかしら。
食い合わせ、食べ合わせという言葉風習があります。わたしが祖母に聞かされたのが「ウナギと梅干」。同時に食べると腹痛になるという。科学的には何の根拠もないらしい。しかし注目すべきは「うめぼし」です。「う」がつきます。なぜか、一緒に食べてはいけないのです。ともに夏バテ防止の食べ物とされていたはずですのに、磁石ではないですが正と正、プラス同士の反発を嫌ったのかもしれないとも思います。
夏土用の丑の日にはさまざまの祭りがあります。この日は新暦7月下旬にあたりますから、病気退散祈念が多い。京都をみますと、下賀茂神社ではこの日、子どものひきつけ除けの石を三宝にのせて参拝者にわかつ。
梅宮神社では神供として、桂川のアユを供える儀式がある。結構、油が乗っていますか?
東寺弁天堂では池のドロ「東寺の泥」を授ける。これを皮膚に塗ると霜焼けにかからないという。夏に霜焼け除けとはずいぶん気が早いです。
そして日蓮宗各寺では、夏土用丑の日の灸には格別の効果があるとする。焙烙灸(ほうろくきゅう)とよぶそうです。
「ウナギを食べてはいけない」とタブーを守っている地も、国内には多々あったそうです。丑寅年の生まれのひとは、生涯の守護本尊が虚空蔵菩薩で、一生ウナギを食べないという風習もある。ウナギは虚空蔵の使いともいうらしい。
禁忌の地では薬として、ウナギをどうしても食べざるを得ないときには、神社に絵馬を奉納する。神仏の秘薬鰻は本人の信心から、本当によく効くそうです。
京都市馬町小松谷では、土地の三島神社に参ってからウナギを食べると万病に効くという。
いずれにしろ、脂肪に富んだ魚類を夏バテ防止に食する。またこの日には、黒いものを食べるという風習も、どうもあったようです。何で読んだのかはさだかではありませんが…。 皮が黒くこげたウナギ蒲焼は、ぴったりでしょう。ナマズも可かもしれません。赤い梅干を嫌うのも、黒色志向からかもしれません。
源内は当然、『万葉集』石麻呂を読んでいたのでしょう。また黒い食べ物でもある。滋養に富んでいる。民間で信じられていた鰻信仰もある。さらには知りあいの鰻屋が、売れずに困っている。蒲焼ウナギ売り出しキャンペーンに成功すれば、ウナギ好きの源内は恩人として、その店でいくらでも堂々と無銭飲食ができる…。「本日、土用丑。蒲焼鰻を食おう。夏バテ退散。万病絶効!」。名キャッチコピーですね?
ところが、柳田國男は「江戸で鰻蒲焼の大流行をみたのは、天明5年1785よりはそう古くからではないらしい」(俳諧評釈)。天明5年は、源内没1779の6年後です。そんなはずはない! この記述には、あっと驚く片瀬為五郎です。
『耳袋』には「浜町河岸に大黒屋といえる鰻屋の名物ありというは天明のころのことにや、御府内・江戸にて鰻屋のはじめなるべし」。柳田は『耳袋』説をとったのでしょう。
ところが、南方熊楠は寛延4年1751、江戸のこととして「深川鰻名産なり、八幡宮門前にて多く売る…このころまで、いまだ江戸前鰻という名をいわず、深川には安永ころ(1771~1781)「いてう屋」といえるが高名なり」(日本及日本人)。これは『新増江戸鹿子』からの引用です。
「いてふ」いちょうは銀杏ぎんなんですが「胃腸」かしら、そのようにも思ってしまいます。
蒲焼の江戸での流行は、源内在世中のことであったと、わたしは確信します。もしかしたら夏土用丑の鰻蒲焼導入1号店は、源内推薦「銀杏屋」鰻蒲焼「胃腸屋」かもしれません。 なお京の鰻蒲焼は江戸よりいくらか早く、元禄期から増えだしたようです。また江戸にも18世紀初半ころに「軽少」な商いの蒲焼屋がはじまったとあり、軽少というからには、固定した店を構えぬ、おそらく天秤棒肩担ぎの移動式蒲焼屋から、鰻蒲焼商人が出現したようです。
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