18世紀の京都の画家、伊藤若冲は伏見深草の石峰寺門前の居宅で亡くなった。寛政12年9月10日1800年。実享年85歳であったが、彼は88歳と作品に記し米寿年齢を残している。まわりのひとたちもみな「若冲88歳」米寿とした。この3歳加算はなぜだったのか。また何歳のときに加算したのか?
ずいぶんマイナーなテーマに深入りしてしまったものです。このブログのアクセス数も低減するばかり。このまま進めていいのかしらと、自問自答したりもしますが、走り出したら止まらない…。誰も深く追及しなかった話題です。もう少しやってみようかと思っています。
これまでいわれてきたのは「還暦後は年なし」、改元のたびに一歳加算したとする説。それだと若冲の享年は87歳になってしまう。還暦数え61歳以降の改元は二度でした。
わたしは「還暦過ぎれば歳知らず」などと勝手に呼んでいます。そして加算のタイミングや意図は、改元とは無関係であるようだと、考えています。また若冲は、1歳ずつ加算したのか? あるいは3歳を一気に足した? それとも一気2歳と後に1歳か? 逆に1歳と後の2歳か?
今回はまず、還暦を過ぎてからの節目の歳、祝いの年をみてみます。
66歳 禄寿 六(ロク)禄より。日本百貨店協会が商売のために勝手に決めた祝寿年。
70歳 古稀(古希) 杜甫・曲江詩「人生七十古来稀」。現代では決してマレではないですが。
77歳 㐂寿(喜寿) 七七七
80歳 傘寿 八十の「傘」略字から(マイPCでは字が出ません。嗚呼…)
88歳 米寿 八十八の「米」字。
90歳 卆寿(卒寿) 卆字の九十から。
99歳 白寿 百引く一は「白」。若冲の弟の号は「白歳」だった。彼は俳句が好きで絵も描いたが、兄より先に逝った。家業の青物問屋にちなんでの白菜ハクサイであったのでしょうか。九十九は「つくも」。若冲画に「付喪神図」がありますが、ゲゲゲの鬼太郎も顔負けのお化け図です。
100歳 百寿(ももじゅ) 一世紀から「紀寿」とも。
111歳 皇寿 白一十一の組み合わせ。
120歳 大還暦 かつての長寿世界一記録者だった泉重千代さんのためにつくられた祝歳語。
250歳 天寿。該当者なし。
1001歳 王寿。平安時代に生まれたひと。
新旧とりまぜ、まだまだいろいろあります。江戸期の祝いの記録をみていますと、古稀、㐂寿、傘寿、米寿がよく出てきます。またこれらの長寿記念年を迎える前年、予祝をやっています。その予祝の日に、いきなり一歳、加算するのです。下駄ばき底上げです。
画家の富岡鉄斎(1836・1・25~1924・12・31)は、大正13年12月31日に89歳で没した。わずかあと1日生きていれば数え卆寿90歳。しかし彼は89歳の夏ころから、すでに90歳落款の作品を描いている。家族や仲間友人や弟子による予祝があったのであろう。[1]
中国近代の文人画家・斎白石(1863~1957)は数え年75歳のとき、77歳と称している。㐂寿の祝いを2年早く行ったのであろうか。彼は95歳で没したのだが、97歳と落款しており、研究者のあいだで混乱が生じているという。[1]
常煕興燄(じょうきこうえん 1582~1660)は中国の黄檗僧だが、日本で黄檗禅をひろめた隠元を助けた人物。79歳の7月ころ、病のために起きることあたわず。9月早々、傘寿80歳を予祝。9月29日に示寂。[2]
『黄檗文化人名辞典』には、米寿88歳の予祝の記載があったはずですが、だれだったのか再度、調べてもわからなくなってしまいました…。
参考
[1]成瀬不二雄著『司馬江漢 生涯と画業 本文篇』1995 八坂書房
[2]大槻幹郎・加藤正俊・林雪光共著『黄檗文化人名辞典』1988 思文閣出版
<2010年5月22日 南浦邦仁> [ 231 ]