ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲の年齢加算 №5  <続・司馬江漢> 若冲連載56

2010-05-15 | Weblog
司馬江漢(1747~1818)のことをこれまで、わたしはほとんど知りませんでした。せいぜい江戸時代後期に油絵を描いた江戸の画家、その程度の理解でした。今回いくらかの本を読み、江漢が驚くべき多才な畸人であったことを、十二分に堪能しました。以下、にわか勉強ですが。
 江漢の画作は、まず幼くして狩野派に習う。これは若冲も同様です。そして父を亡くした10代なかばの江漢は、生活のために浮世絵師となる。そして20歳ほどの彼は師匠、天才絵師の鈴木春信に近づくほどの力量をみせる。錦絵美人画で高名な春信急逝ののち、困惑した遺族や関係者に請われ、春信の贋作を数多く描いたといわれています。売れっ子絵師を失ってしまった版元、彫師、摺師など、関係者の失職困窮を救うためです。また彼はのちに鈴木春重を名のり、美人画を数多く描いています。
 その後、宋紫石(楠本幸八郎雪渓)について、中国清の南蘋画を習得し、平賀源内を通じて西洋絵画に傾斜する。そして日本ではじめて銅版画エッチングを創始。独自の油画も生み出す。
 蘭学仲間にも加わり、天文地理学に通じ、天動説の一般普及にも貢献しています。精巧な銅版画、江漢作「地球全図」「天球図」も有名です。蘭学では、前野良沢、杉田玄白、大槻玄沢などの学者に交わる。平賀源内のつながりでしょう。
 文人としても多く書き残しています。そして自由平等の思想を説く。封建時代人としては珍しい先進のひとです。「人間はこれ世界虫、上下をとわず、すべて同一の人間」「上天子将軍より、下士農工商非人乞食に至るまで、皆以て人間なり」「人間が牛馬ではなく、人間が人間らしく生きて、人間を尊ぶ」など、幕末前の同時代を超えた「市井の哲人」、奇才でした。
 また事業として江漢は多くの品々を制作したが、驚くべきものに補聴器やコーヒーミル(オランダ茶臼)もある。阿蘭陀茶臼は写真でみましたが、デザインも優れ、現代に「江漢ミル」複製を製作発売しても、かなり売れそうなほどの優品です。エレキテルで知られる「非常の人」、平賀源内の弟分だけのことはあります。

 さて司馬江漢は、還暦明けの文化5年正月(1808)を期して、年齢を一気に加算。実年齢62歳を71歳とした理由をみてみましょう。なぜ突然、9歳も加算したのか?
 細野正信氏の説として、成瀬不二雄氏がふたつの見解を紹介しておられる。[1]
 両説を確認する時間がなく孫引きしますが、いつかは原文を拝読したいと思っています。[2]

 まず『巷説集』(崎陽隠士輯 天明2年刊1782 長崎県立図書館蔵)の記載です。この本は、長崎のオランダ語通訳、日本人通詞にかかわる百余話を記したものだそうです。江漢は親しく接した通詞の吉雄幸作らを通じて知ったであろうという。
「養老山人とて一畸人ありて、或時己の齢に一時に九歳を加えて大悟散人と称すと云、何謂か分明ならずと雖、俄に世を欺くは佯老散人とも可称歟」

 そして江漢が晩年、老荘思想に傾斜したことから、『荘子』寓言篇(雑篇第27)の「九年而大妙」に注目された。
 顔成子游はいった。わたしは先生の話しを聞くようになりましてから、…八年たつと生と死の区別を意識しなくなり、九年たつとすべてを一体とする絶妙の境地に達することができるようになりました。
 原文では「一年而野、二年而従、三年而通、四年而物、五年而来、六年而鬼、七年而天成。八年而不知死、不知生。九年而大妙。」

 いずれも説得力のある見解です。しかし、わたしはあえて追加したいと思う考えがあります。江漢は晩年、「ただ老荘のごときものを楽しむ」としていますが、禅寺の鎌倉円覚寺の住持、誠拙和尚の弟子であると記しています。江漢は、老荘思想と禅に親しんだのです。
 彼の伯父、父の兄は、絵心の達者なひとでした。江漢「六歳のとき、焼き物の器に雀の模様のあるのを見て、その雀を紙に写し描いて伯父にみせた。また十歳のころ、達磨を描くことを好み、数々画いては伯父に見てもらった」と、自ら記しています。
 幼いころから江漢は、達磨に惹かれていたようです。達磨・菩提多羅は天竺より六世紀、中国の北魏の少林寺に到る。同寺の岩窟で面壁端坐。面壁九年という。
 江漢は達磨の大悟九年を、還暦を過ぎたとたん、一気に達する、あるいは到達しようと考えたのでしょうか。

参考資料
[1] 成瀬不二雄著『司馬江漢 生涯と画業 本文篇』八坂書房 1995年刊
 「江漢の生没年について」「文化五年の年齢加算とその理由」所載
[2] 確認しました。細野氏は、江漢は九年を加え、大悟の心境を装ったとされる。大妙は「すなわち大悟の意である。九歳年齢を加えて、一足とびに自らにいいきかせるように悟りに入ったつもりになったのである」。また『巷説集』はいまはなぜか、長崎の図書館にはない。崎陽隠士は、行文から推して後に松平定信に属した通詞、石井恒右衛門と考えられる、としておられる。
 細野正信著『司馬江漢ー江戸洋風画の悲劇的先駆者ー」読売新聞社 昭和49年刊
 細野正信編『日本の美術 232 江漢と田善』至文堂 昭和60年刊
<2010年5月15日 南浦邦仁> [229]

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