ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲の年齢加算 №7 <平賀源内と鈴木春信> 若冲連載58

2010-05-23 | Weblog
江戸で活躍した司馬江漢の師で、親友でもあった平賀源内(1728?~1779)。本草博物学、物産学、オランダ蘭学を修め、殖産興業や鉱山開発にもつとめた。さらには小説や戯作でも売れっ子作家になる。また医者・蘭画家であり、エレキテル・静電気発生仕掛見世物兼医療機など、技術機械にもたけた発明家の「非常の人」常ならざる天才、あるいは詐欺師・大山師とも称された。
 
 ところでウナギの蒲焼を夏の土用丑の日に食べれば夏バテしない、この風習を広めたのは平賀源内であるとか、ないとか確証がないらしい。『放屁論』という彼の著作があります。オナラ話しばかりの本ですが、読むと笑いが止まらない。実に愉快な傑作です。この本の後編に、自虐の文があります。現代文意訳で、
 この男、何ひとつ覚えた芸もなく、また無芸でもないけれど、どっちつかずの「筑羅ちくらが沖」(朝鮮と日本九州のあいだの洋)、磯にも波にもつかず、流れ渡りのヒョウタンで、ナマズの蒲焼ウナギを欺き、見識は吉原の天水桶よりも高く、智恵は品川の厠かわやよりも深しと…。

 さてナマズを焼いて、鰻の蒲焼と偽るとの表現ですが、どうも鯰ナマズ蒲焼は身が白く厚い。ふっくらしており、あっさりと柔らかいものらしい。味は淡白で旨く、鰻ウナギとはだいぶ異なる。食感は「肉を食べたという感じ」だそうです。香ばしいかおりもするという。聞きかじりの範囲でみますと、ナマズ蒲焼をウナギとだまし偽ることは、なさそうです。「鯰の蒲焼と鰻を欺き…」と、素直に読むべきかと思います。
 ヒョウタンは禅語「瓢箪鯰」にかけているのでしょう。一度、鯰蒲焼を食してみたいと思います。

 このウナギ・ナマズ文から思うに、「ウナギやナマズの蒲焼を夏土用の丑日に食べれば云々」と適当なことをいって、庶人を偽りという風にとれるのではないでしょうか。ですから、やはり平賀源内こそ、夏に鰻屋を儲けさせた張本人・仕掛け人だったのでしょう。そのように、わたしは思っています。

 ところで、源内の享年には三説があります。親友の杉田玄白、『解体新書』訳で有名な蘭医学者ですが、彼は源内の享年を51歳と記しています。しかし郷里の四国讃岐の位牌・過去帳では没年命日は同じですが、享年52歳となっています。
 48歳と記した記録もありますが、これは寺請証文写の誤記であろうといわれています。ならば、51歳か52歳か? 還暦前に亡くなった彼は、一歳加算していたとは考えにくい。
 源内は安永8年11月、ささいな誤解から門人を殺傷してしまいます。そして翌月18日、獄中で逝きました。天才平賀源内の、あまりに非業な最期でした。親友の杉田玄白は記しています。「ああ非情のひと、非常の事を好み、行ないこれ非常、何ぞ非常の死なる」

 ところで司馬江漢のもうひとりの師、錦絵創始の浮世絵師・鈴木春信(?~明和7年6月14日か15日 1770)ですが、彼も享年が定まらない。出身も身分も家族のことも、何もわからない謎の人物です。ただ平賀源内が長屋住まいのころ、その長屋の家主は春信でした。当時、三人はみな非常に近い関係だったのです。
 春信の没年齢については、46歳、53歳、67歳などと実にさまざま。ただ司馬江漢が記した「そのころ、鈴木春信という浮世絵師、当世の女の風俗を描くことを妙とした。40余にしてにわかに病死」
 享年を推定する史料はこの江漢の記載「四十歳余」しかない。現在では46歳没という説に落ち着いているそうですが、確たる根拠はなさそうです。
 春信はおそらく年齢加算とは関係なく、単に生年が不明であるというのが結論でしょう。昔のひとは生年不詳、あるいは不明という方があまりに多い。われわれ現代人とは、生年月日の感覚意識がおおいに異なるようです。また正月元旦に歳を加える時代、生誕月日にはあまりこだわる必要がないようです。
 確然と存したのは、過去帳や墓表などに記された記録。逝ってはじめて記載される記録だけといってもいいようです。江戸期以前の彼らには、出生届も戸籍もなかったのです。亡くなると、過去帳や墓に没年月日は書き込まれますが、享年記載がなければ年齢不詳になってしまいます。また享年の歳を書かれてもその年齢は、加算や偽年かもしれないのです。当時の没年齢は、簡単に信用してはいけないのでしょうね。
<2010年5月23日 南浦邦仁> [ 232 ]
コメント (4)
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