ふろむ播州山麓

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若冲の謎  第2回  <若冲という名前 前編>

2016-12-03 | Weblog
十八世紀後半の江戸時代、円山応挙らとともに京を代表する画家だった伊藤若冲の「若冲」とは、変わった名である。そしてこの名には、謎が多い。
 彼の墓はふたつある。伏見深草の石峰寺には土葬された墓、もうひとつは御所のすぐ北の相国寺墓地内。後者は寿蔵・生前墓であるが、墓表の字はともにまったく同じ。相国寺の大典和尚が記したもので、「斗米菴若沖居士墓」と彫られている。若「冲」はニスイのはずなのに、墓はサンズイだ。冲が沖とは、これいかに?
 石峰寺住職のご母堂の阪田育子氏から聞いたのだが、若冲の墓前に立ち止まった若い女性観光客たちが「ワカオキさんて、だれ?」。確かに、サンズイの墓表「若沖」では、そう読まれても仕方がない。近年でこそ、若冲も超有名人だが、ブーム以前には若冲を「じゃくちゅう」と読めるひとは決して多くはなかった。
 
 
<大盈若冲>
 
 「若冲」の字は、中国古典『老子』による。『老子』第四十五章には、
「大成若缺。其用不弊。大盈若冲。其用不窮。大直若屈。大巧若拙……。」
以下、福永光司編著『老子』に依る。
 大成は欠けたるが若(ごと)く、其の用弊(やぶ)れず。大盈(たいえい)は冲(むな)しきが若く、其の用窮(きわ)まらず。大直(たいちょく)は屈するが若く、大巧(たいこう)は拙(せつ)なるが若し。
 本当に完成しているものは、どこか欠けているように見えるが、いくら使ってもくたびれがこない。本当に満ち充実しているものは、一見、無内容(からっぽ)に見えるが、いくら使っても無限の効用をもつ。真の意味で真っ直(す)ぐなものは、かえって曲がりくねって見え、本当の上手はかえって下手くそに見える。
 
 冲字は、沖(チュウ)の俗字とされるが、沖は「盅」字の借字である。読みは同じくチュウである。
 サンズイの沖はチュウだが、「おき」と読み、海の沖とするのは日本の勝手である。本来の中国には、海の意味もオキの読みもない。
 冲も沖も盅とも同音で同意字であるが、意味は、むなしい、からっぽ、なにもない、ふかい、ふかくひろいなど。水のサンズイが付く中を、深く広い沖「おき」と読ませた最初の日本人がだれかはわからないが、彼の着想は当を得ている。字意を心得ての当て字である。
海のおきは、この国の古語であろう。沖(おき)は奥(おく)と同根で、万葉以前の時代、「奥」は「おき」とも発音されたという。空間的には遠い場所をいうそうだ。松浦佐用比売の意吉(おき)は海の奥(おく)のようだ。
 海原のおき(意吉)ゆく舟を帰れとか 領巾(ひれ)振らしけむ 
 松浦佐用比売(まつらさよひめ) 『万葉集』八七四
 
 話がまた横道にそれてしまったが、老子の「大巧若拙」についてひとこと。鈴木大拙先生は名を、ここから採っておられる。若拙ではなく大拙とされたのだが、「大盈若冲」による若冲も、大冲でなかったのが面白い。ところで、大拙先生は名前の親である老子の子、義兄弟に当たる若冲のことをご存知であったかどうか、少し気になる。
 
 『老子』第四十五章が、若冲の名の出所であるが、『老子』そのものが混乱している。福永光司本は冲ニスイ。木村英一・武内義雄・金谷治・小川環樹各氏の本では、サンズイの沖と記されている。ニスイ冲は、福永・山室三良氏など、少数派である。
 『老子』の古いテキストには二系統がある。どちらも中国の古い本だが、「王弼(おうひつ)注本」と「河上公(かじょうこう)注本」の『老子道徳経』である。漢字ばかりの両書を一読したが、王弼はサンズイの沖、河上公はニスイの冲を載せる。どちらのテキストを底本に用いるかで、沖と冲がわかれるようだ。
 江戸時代の明和七年(1770)に、宇佐美本「王注老子道徳経」が江戸で刊行された。この本は日本における決定版になるのだが、若冲五十五歳、相国寺に「動植綵絵」三十幅を寄進した年である。なおサンズイ沖の寿蔵は明和三年に建てられている。宇佐見本は「王注」なのでサンズイのはずである。
 だが『老子』は、テキストに異同が多い。宇佐見本を使う訳者も、ニスイにしたりしておられる。わたしには正直なところ、よくわからない。若冲は作品にサンズイ「若沖」と署名したり、押印してもよかったのではなかろうか。大典はその通り、墓表にはサンズイ沖を記している。
 
 ところで、面白い本を見つけた。明徳出版社刊『馬王堆老子』である。湖南省長沙で、四十年ほど前に発掘された古墓で発見された、驚くべき『老子』絹本である。四十五章は欠字が多いが、「…盈如沖、其…」と書かれている。約二千二百年も昔にさかのぼる一級の本である。これだと若冲は「如沖」になってしまうが、意味は同じく「チュウなるがごとし」
 さらには、郭店楚墓は馬王堆より百年ほども古いそうだが、竹簡には「大盈若盅、其用不窮」。1997年の出土である。ごく最近に知ったので、あわてて追記挿入しておく。
 それらはジャクチュウかジョチュウか、ニョチュウになるのであろうか。盅も沖も冲も、読みはチュウで同じ意味である。
 
 
<若冲名の誕生>
 
 若冲の「冲」字のことは、いくらかわかってきた。もうひとつの謎はだれが命名したかという点である。
 定説のようになっているのが、若冲三十五歳の前後に、相国寺の大典和尚が名づけたという説だ。当然だが、『老子』からとった名であることはいうまでもない。ただ若冲には老荘に親しむような、教養はなかった。本人が老子本から選択したのではない。
 
 延享四年(1747)夏のこと、大典和尚が親交のあった尊敬する売茶翁高遊外の茶器「注子」(ちゅうす)に銘を記した。「去濁抱清。縦其灑落。大盈若冲。君子所酌」。糺の森でのこと。下鴨神社の糺の森は、京の納涼地として有名である。この年、数え年で大典二十九歳、売茶翁七十三歳。若冲は三十二歳だった。
若冲三十歳代のなかばころ、若冲と大典の交流がはじまり、そして名をもらい「若冲」が誕生したと、一般には認識されている。
 
 錦街の自宅画室で彼は一枚の画「松樹番鶏図」を仕上げた。宝暦二年の年記から若冲三十七歳。これが若冲名の確認されたはじめての作品である。
 完成した画を前に彼は、署名押印をまだ暗い早朝になした。昔の京、冬の底冷えはきびしい。彼はこう記した。「宝暦二年正月の明け方、寒いアトリエの京都錦街<独楽窩>において、凍った筆を息で吹き温めながら記す 若冲居士」と書いている。「独楽窩」(どくらくか)とは、ひとりで楽しむ穴蔵の意味。彼の画室は、錦市場の伊藤家土蔵のなかだったのかもしれない。
 若いころの若冲の字は、決して上手とはいえない。そのような自分の字を、言い訳ぽく表現したのであろうか。寒さで手が震えるなか、正月早々の款記、書初めだった。
 ということは、「若冲」という名は、前年までに決定していたと考えられる。款記は正月のおそらく元旦であるから、同年一月に確定したのではなく、前年三十六歳のときまでには、用いていたはずである。
<2016年12月3日 南浦邦仁>
 
 
 
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