ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

乞食 №6  「被昇天の聖母マリア」

2010-01-10 | Weblog
京都のカトリック河原町教会のことは、<乞食№3>で書きました。この教会のカテドラル「聖フランシスコ・ザビエル大聖堂」の屋根は、まるで神社のような曲線デザインで、かたどられています。460年前のザビエルの悲願が達成された祝福象徴のごとく、そのカーブした頂の十字架は、京の町とひとを見守っているようです。

 マラッカから中国人の操る小型帆船・ジャンクに乗り、シナ海を命がけで日本に向かったザビエルは、2か月の後に薩摩・鹿児島に到着しました。西暦1549年8月15日のことです。この日はちょうど「聖母被昇天」の大祝日。ザビエルたちの喜びは、ひとしおであったといいます。後の敗戦記念日ですが、8月15日をもって、記念すべきキリスト教の日本布教は開始されたのです。
 都に教会を建てたいというザビエルの願いは、かないませんでした。しかし禁教下に教皇から秘密裏に送られたマリア像「都の聖母」は1890年に、やっと建築なった河原町教会大聖堂に安置されました。

 ところで、京都にはじめてキリスト教会が建ったのは、1575年8月15日です。ザビエルがはじめて日本の土を踏んだちょうど26年後のことでした。中京区姥柳町の通称「南蛮寺」ですが、完成直前のこの日を教会の竣工日としました。正式名称は「被昇天の聖母マリア」教会です。
 以下、フロイス『日本史』の記載ですが、ダリオは高山飛騨守。息子の彦五郎ジュストは、後の高槻城主・高山右近です。ふたりもこの日、南蛮寺に駆けつけました。

 教会の呼称、ならびに保護の聖人としては「被昇天の聖母マリア」が選ばれた。はじめて教会が都に建てられた聖母被昇天の日、8月15日という記念すべき日をあえて選んだのは、フランシスコ・ザビエル師が、日本の薩摩の国に着き、喜ばしい主の福音を伝えた同じ日だからであった。…
 この祝祭には、都および近隣諸国のキリシタンたちが参集した。ダリオは、このような功徳を積む機会を失うまいとして、妻子、親族、および二百名以上とともに来訪した。教会建設に大反対だった都の異教徒(仏教徒)たちは、いとも多くの群衆が、おびただしい駕籠や馬に乗ってわれらの教会に至るのを見、一同がまるで復活祭のように、礼服を着用しているのに接して驚嘆した。…
 教会が落成すると、いろいろの地方から、それを見物しようとして数えきれない人々が押し寄せ、教会を見に来たこの機会に、彼らに対する説教がたびたび行なわれた。その結果、いつも成果と収穫があった。というのは、ある人々はキリシタンとなり、他の人々はそれぞれの国に戻ってその見聞を伝えたので、我らの主なるデウスの御名と、我らの聖なるカトリックの信仰は、日本の遠くへだたった各地にまでひろまるに至った。

 ところでザビエルが接した16世紀なかばの佛教僧について、記してみましょう。「佛教の信者たちは地獄におちることを極度に恐れ、僧侶たちが望むものを、いわれるがままに、すべて与えている」。以下、ザビエル書簡1552年1月29日付け。

 貧者は坊さんに何らの施与も持参することができないのであるから、地獄から逃れることは、まったく不可能である。また女は、地獄から出る道が全然ないのだという。その理由としては、女には毎月の障りがあることをあげ、どの女も、世界中の男の罪をみな集めたよりも、もっと罪が深いのだといっている。それで女のような不潔な人間は、滅多なことでは救われないのだと断言している。それでも女を地獄から救い出すただひとつの便法がある。それはすなわち、男子以上に、おびただしく施物を出すことである。

 異教徒に対し、攻撃的で過激であった当時のイエズス会である。またはじめて日本で、激劇的な布教活動を開始したザビエルであった。彼の書簡は、いくらか割り引いて判断する必要はあろう。しかしそれでも、当時の佛教界はかなり堕落していたのは明らかだと思う。
 そのころの僧侶は、姦淫や飲酒などの戒律も守らず、「充分な布施を持って来なければ、地獄におちるぞ」と洗脳脅迫し、喜捨を強要していたのである。佛教の「乞食」頭陀の精神や行は、どこに行ってしまったのでしょう。
 <2010年1月10日 南浦邦仁> [205]
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