あんたはすごい! 水本爽涼
第七十回
「いやあ、大したこっちゃないんですけどね」
「そういや、ほんと、ご無沙汰だわぁ~」
今日はどこかママと話が噛み合わない。ママは手を女の素振りで口に添え、ホホホ…と、小さく笑った。手の甲を白く塗りたくった化粧を突き破り、数本の毛が突き出ていた。明らかに剃り残しである。顎髭(あごひげ)の剃り残しは興ざめだったが、手の甲の剃り残しも、どんなものだろう…と思えた。
「沼澤さんが、そんなのは大したことじゃないと云われたことが、今云ったように事実、会社で起こったんですよ」
「あらまあ…、ほんとに?」
「ええ、本当ですよ。ママに嘘を云っても仕方ないじゃないですか」
「そりゃまあ、そうだけどさぁ~」
幸いにも、カウンターの陰に隠れて、手の甲の剃り残しは見えず、吹き出さずに話せたが、危ういのは危うかった。脱毛剤を使えば…などと思っていると、早希ちゃんが向こうのボックス席を立ち、カウンターへ近づいてきた。手にはアイスペールを持っていた。
「満ちゃん、いらっしゃい。ママ、氷、お願い」
「はい…」
ママは早希ちゃんからアイスペールを受け取るとトングを外した。そして、アイスピックで製氷機の氷をボールに入れて器用に割り始めた。更には、割った氷を蛇口の水で洗い、角(かど)を取るひと工夫を施(ほどこ)した。
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《残月剣②》第十四回
だから、長谷川が元立ちとなり鴨下が打ち込みや掛かり稽古をしていて、離れた所では左馬介が形稽古をしているということも、ままあった。特に、幻妙斎が妙義山中の洞窟へ左馬介を呼び、入門三年ばかりの左馬介に修行を命じた頃から、長谷川が左馬介に対して剣の上で上位に立つということは皆無となっていた。というのも、既に腕前は左馬介の方が数段以上も上で、堀川随一の遣い手として誰もが認めていた故である。左馬介は数度、竹刀で残月剣の形を描くと、中央の神前に深く一礼し、稽古場を去ろうとした。本身の村雨丸を小部屋から手に取り、いつもの道場裏の川縁(べり)で形稽古をしようとした為だった。左馬介が稽古場から去ろうとした時、擦れ違いに長谷川と鴨下が入ってきた。
「えっ? 今日はもう終りですか?」
鴨下が驚いて立ち止まり、ひと言、そう訊ねた。
「いや、そういう訳でもないのですが…」
「ちょいと、休憩だな?」
付け足して長谷川が続く。
「いえ…」
「なんだ? はっきりせぬ奴だ」
「別に隠そうというんじゃないのですが…」