なにも悲しいそのときに涙が出るとは限らない。それは恰(あたか)も、鋭利(えいり)な刃物で深い切り傷を負ったときによく似ている。浅い剃刀(カミソリ)傷なら、すぐ血が噴き出るが、深く鋭い傷の場合は、しばらくしてから血が激しく出る訳だ[静脈の出血であり、動脈なら、たちまち激しく噴き出る]。そのときは悲しくなかったものが、あと後(あと)になって時差を経て涙に暮れることもある訳だ。今日はそんな時差で流す涙のお話です。^^
不慮の出来事でご夫人が身罷(みまか)られた、とある家庭のその後である。葬儀も過ぎ、四十九日を経てお骨納めも過ぎ、そろそろ悲しみも薄れる頃のある日である。
「ぅぅぅ…」
家族を囲んで楽しい夕食が始まろうとしていた矢先、それまで気丈で涙すら見せなかったご主人が突然、嗚咽(おえつ)を上げて泣き出した。それも特上のサーロインのすき焼き肉を鍋か箸(はし)で摘(つ)まみ上げた瞬間だった。
「…どうしたの?」
訝(いぶか)しげに長女が父親のを窺(うかが)った。
「あいつ、このサーロインのすき焼きが好物だったんだっ! ぅぅぅ…」
ご主人の時差の涙は、その後も続いた。残された三人の子供は、箸が進まないご主人を無視し、美味(うま)そうに炊き上がったすき焼きのサーロイン肉を、卵につけてパクパクと食べ尽くした。
悲しい時差の涙は、個人だけのもののようです。^^
完