あんたはすごい! 水本爽涼
第九十一回
「さてと…。どこまで話しましたかな? …そうそう、今後、あなたの身の回りに起こること、それは取りも直さず、あなたの願望が具現化することだと云えます。分かりやすく云えば、次第にあなたの思い通りに物事が運んだり、なったりすることが増えてくということです」
「沼澤さん、それって、自分で制御したりは出来るんですか? そうじゃないと、とんでもないことになりそうな気がしますが…」
「心配しないで下さい。あなたの願望は必ず玉に伝わり、それを叶えるかは、玉の判断に委(ゆだ)ねられておるのですから…。まあ、常識外のことを除いては、ほとんどのことがOKになると思いますよ」
「それはいいんですが、私が念じたことは別として、例えばこの前、会社で起きた俄か景気ですが、ありゃ私が願ったことでも何でもないんですが…」
「それは玉の意志によるものですな。あなたの立場をよくしよう…と、玉が考えた結果です」
「なるほどねえ…。そういや、確かに鳥殻(とりがら)部長には偉く喜んで戴きましたが…」
「あっ! こんな時間か…。そろそろ私は帰ります。明日(あす)は特別講話を頼まれておりまして…。それじゃ、塩山さん。孰(いず)れまた…」
沼澤氏はバタバタし始め、財布から紙幣を抜き出すとカウンターへ置いた。そして釣銭も受け取らずドアへ急いだ。ママも早希ちゃんも呆気にとられて、送り出す声がワンテンポ遅れた。
「あっ! 沼澤さん。私も帰ります。一緒に出ましょう」
沼澤氏の歩みが止まり、カウンターを振り返った。
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《残月剣③》第二回
相手が並の者なら、それでも勝機はあるだろう。しかし、左馬介は堀川一の遣い手であり、免許皆伝を仮允許された、云わば屈指の剣士なのである。そのような者に幾ら有利だからとはいえ打ち掛かるのは暴挙と云わざるを得ない。だから長谷川は打ち込まなかったのだ。決して臆した訳ではなかった。一方、受け身の左馬介は、竹刀を左横の床に置き、相も変わらず、いつでも打ち返せる体勢で両眼を閉ざして座していた。やがて、四半時も二人の対峙が続いた頃、ついに長谷川の竹刀が唸った。だが、それと時を同じくして、左馬介の身も瞬発の動きを見せていた。動作の速度を遅らせたとすれば、各々の剣と身体の動きは説明がつくやに思えたが、実際は、ほんのの出来事であって、描かれた二人の軌跡を現実に説明するのは容易ではない。まして、遠目で眺める鴨下には到底、語れない動きであった。まず、長谷川が、竹刀を置かない左馬介の右後方から突きを入れた。刹那、左馬介の身体は空を飛び、左下に置かれた竹刀を握りつつ、素早い前転で動いていた。長谷川の突きが有効とならなかったのは、やはり左馬介の前転の方が僅かに早かった為である。左馬介は身体を一回転して即座に立つと、竹刀を構えたこうなっては、五分と五分である。以後は、残月剣の形(かた)を示そうと、左馬介の勝ち目は目に見えていた。

第九十回
「それで、二つの玉が相互にコンタクトを取りあっている目的というのは?」
「早い話、小玉が大玉に報告をしておるのです。分かりやすく云えば、そうなりますな」
「報告ですか…。すると、それを受けた大玉は、また次の指示を小玉に出すとか?」
「御意(ぎょい)!」
沼澤氏は古い時代言葉で答えた。
「えっ? なんです?」
「仰せのとおり、ということです」
「そうですか…。で、私は今後、どうしておればいいんでしょう? 不吉(ふきつ)でないからいいものの、いつ幸運が起こるか分からないというのもねえ…。どうも落ち着きませんし…」
「はあ…、過去にもそうおっしゃった方はおられました。まあ、少しずつお慣れになりましたが…」
「その方は、今?」
「外国に住んでおられます。巨万の富を得られて…」
「ウワ~! すごいですねえ」
「何をおっしゃる。こんなことを申しちゃなんだが、あんたはすごい! お方だ…。今後、世界を動かす一人になるに違いない…と、まあ、これは以前にも申しましたが。私は飽くまでも、玉の意志を伝えておるだけですから…」
「満ちゃん、すごいじゃない~!」
ママが称賛する声も、なぜか虚(むな)しく私の耳には聞こえていた。私は、今の現実が、そら恐ろしくなっていた。普通なら素晴らしく思えるが話が、逆に夢ならいいが…と思えてきていた。
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《残月剣③》第一回
どのような判断が長谷川の竹刀を打ち込ませるのか…と、鴨下は眼を凝らしていた。所謂(いわゆる)、左馬介の隙を長谷川がどういった機会に捉えるのか…ということである。腕前が今一の鴨下は、既に自分が剣客には不向きだということを悟っている。これだけは天性のもので、周囲の者が助力しようと如何にもならないのだ。では鴨下は何の為に堀川道場にいるのだ? ということになるが、鴨下にすれば、相応の腕前を身につけ今後に生かせれば、それで充分だと考えているから、そう深刻でもない。過去に、自分と同様の者が堀川門下にいたという事実を聞いたことのある鴨下だから、道場での日々も冷静でいられるのだ。今、こうして長谷川が座している左馬介の周囲を静かに回る姿を遠目にするにつけ、自分が何故、左馬介のような凄腕になれないのだ、爪から先も考えていなかった。無論、今後の剣筋に生かそう…という向上心はあったのだが、長谷川が打ち込む機会を捉えるのがいつか…を観ることの方が重要な今の鴨下であった。
長谷川はもう数度、左馬介の周囲を回っていた。それでも打ち込まない、いや、打ち込めないのは、やはり左馬介の有るようで無い隙の所為であった。いくら有利だとはいえ、隙がない者へ打ち込むのは自殺するようなもので無謀以外の何物でもない。

第八十九回
「つまりは、あなたに霊力が宿ったから見えたのです。ほとんどの場合、強運の持ち主にしか霊力は宿りませんから、恐らくは玉があなたを選んだのでしょう」
「えっ! 棚の水晶玉には意志があるあるのですか?」
「ええ、ありますとも。現に私は、玉と霊力を通して会話することが可能なのですから…」
「そ、そうなんですか…。畏(おそ)れ入りました。あのう…それと、気になることがもう一つあるのですが、お訊ねしても宜しいですか?」
「はい、どうそ。何なりと…」
「私が考えておりましたのは、棚の大玉が異様な光を発して渦巻いた時、この小玉も連動して同じように光を発するのでしょうか?」
私は背広の上着に入れた小玉を取り出して訊いた。
「なんだ、そのようなことでしたか…。塩山さん、あなたのお考え通り、二つの玉は相互に意志を伝え合っておるのですよ」
「それは本当ですかっ!」
私の声は幾らか熱を帯びていた。
「そんなことって、あるんですかぁ~」
今まで黙っていたママが、二人の話に加わった、早希ちゃんはママと正反対で、聞いてらんない…とばかりに、ボックス席の方へ移動して座り込んだ。そして、いつものように携帯を手にすると、何やら弄(いじく)りだした。
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《残月剣②》第三十三回
左馬介は面防具を着けているから、横や後方は全く視界が閉ざされ、見えない。無論、左馬介は、そうしたことに委細構わず、の心境なのである。その証拠に、左馬介は両眼を閉ざしていた。そして右手は右太股(もも)の上へ置き、左手は床(ゆか)に置いた竹刀を軽く握りしめた姿勢で、静かに長谷川の動きを窺っていた。微かな長谷川の呼吸音、歩く時に生じる微細な空気の流れ、さらには殺気をも感じ取ろうと、身を凝らしているのだった。高みの見物の鴨下は、稽古場の片隅に陣取って、固唾を飲みつつ二人の様子を見守る。いつ長谷川が打ち込んだとしても不思議ではない。恰(あたか)もそれは、刺客や敵に不意を襲われる場合と酷似している。勿論、左馬介はそうした状況にも対応出来る残月剣の捌きを完成させたかったのである。通常に対峙した場合の捌きは、既に完成していた。一方、長谷川にも堀川の師範代としての意地がある。そう容易く打ち返されては面子が立たないのだ。だから、最も効果がある瞬間をひたすら狙いながら左馬介の周囲を歩き回っていた。左馬介は左馬介で長谷川の竹刀が動くよりも早く、素早い俊敏さで右下に置かれた竹刀を手にし、さらにはその竹刀で長谷川が打ち込んだ竹刀を打ち払わねばならないのだった。状況は正に逼迫の度合いを増し、最高潮に達していた。
残月剣② 完

第八十八回
「今も云いましたように、会社は偉く盛況でしてね、申し分ないんですが…。私自身には…」
ふと思い当たることがあり、私は言葉に詰まったが、また続けた。
「ありました! これは、今日、店へ寄ったこととも関連してるんですが…」
「ほう、何でしょう?」
「実はですね、そこの棚の玉なんですが…」
「玉がどうかしましたか?」
「この前なんですが、異様な光を帯びて渦巻いていたんですよ。ママや早希ちゃんには見えていないようでしたので、変に思われるのもなんですから、そのことは云わなかったんですが…」
「やはり、見えましたか…。塩山さん、あなたは、いつぞやも云いましたが、非常に稀有(けう)な運気をお持ちでおられる。さらに、霊力も感知しやすい体質をお持ちと見える…」
沼澤氏の声が荘厳さを増した。
「だから、私だけに見えたんだと?」
「はい…。実は私にも霊力が備わっておるのです。実のところ、そのことに気づいて後、霊術師を名乗らせて戴いておるのですよ」
「えっ! ということは、沼澤さんにも玉が渦巻くのが見えるのですか?」
「ええ、時折り、渦巻きますよね。黄や緑の色を発して…」
「はい! そうなんです」
私は興奮のあまり、声を荒げていた。傍(かたわ)らで二人の話を黙ってじっと聞くママや早希ちゃんは、私と沼澤氏を変な生き物を見るような怪訝(けげん)な眼差(まなざ)しで見ていた。だが、沼澤氏も見えると云ってくれたことで、私は少し心強くなった。
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《残月剣②》第三十二回
「ああ、お前が床(ゆか)に座っているところへ、俺が打ち込めばいいんだったな、確か」
「そうです。横、後ろ、斜め、どこからでも結構ですから…」
そう云うと左馬介は座して、面防具を着け始めた。長谷川も準備し始めた。竹刀を数度振り、目を閉ざして立ち、そして静かに床へ座した。昨日、話をして左馬介から概要は聞いているから、そうは心騒ぎする訳ではない。これが今朝の話であれば、恐らく動揺していたに違いないのだ。長谷川は、そう思っていた。片や、鴨下はどうなのかと云えば、ただ茫然と二人の様子を観ているに過ぎない。昨日、長谷川の小部屋へ行き、少しは話を聞きはしたが、具体的に細かな内容迄は訊かなかったのだ。というか、長谷川は多くは語らなかった。聞いたのは、左馬介が稽古相手になって貰いたいと云っていた…というだけの内容に過ぎなかった。だから今朝は、ただ観るに留めているのである。加えて考えれば、たとえ稽古相手を頼まれたとしても、鴨下の方が困ったに違いないのだ。剣の技量不足に関しては、誰よりも自分のことを分かっている鴨下であった。
面防具を着けた左馬介が静かに座っている。その周囲を取り囲むように、長谷川が隙を狙いつつ静かに回り歩く。それも、足裏に神経を集中させ、物音を立てない回りようなのだ。

第八十七回
しかし、その日は玉にこれといった変化は出なかった。なんだ! これだけ意気込んで寄ったというのに、結局、何も起きずか、と少し怒れてきた時、店のドアが開く音がした。振り向くと沼澤氏だった。沼澤氏はトコトコと素朴な歩きようで、被った帽子を脱ぎながら私の座るカウンターの方へ近づいてきた。
「ああ…塩山さんでしたか。久しぶりにお会いできましたねえ。…まあ、会おうと念じれば、いつでも会えるんですが」
沼澤氏は最後の一節を小声で呟(つぶや)くように加えた。
「えっ? いや、本当に…」
私も場当たり的に軽い挨拶を返した。沼澤氏はカウンター椅子(チェアー)へ座ると、手にしたいつもの黒茶の鞄と帽子を左側の椅子へ置いた。
「…その後、何ぞ、変わったことなど、ございませんか?」
沼澤氏は伏し目がちな目線を上げながら、私の顔を窺(うかが)った。
「えっ? ああ、まあ…。会社ではいろいろありましたが、私の身には今のところ、これといった…」
「そうですか…。いえね、もうそろそろ起こっておるんじゃないか、と思いましてね」
「気づかって下さって、どうも…」
「いえ、これも霊術師の仕事のうちですから」
早希ちゃんが給仕盆に乗せた水コップを沼澤氏の前へ置き、続けて私の前へも置いた。私の存在を忘れていなかったのは嬉しいが、もう少し早くってもいいんじゃないの? と、思わず出そうになり、慌てて口を噤(つぐ)んだ。
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《残月剣②》第三十一回
「横、斜め、後方…どこからでもいいのか?」
「はい!」
鴨下が洗い物を済ませて戻ってきた。
「なんです? 偉く賑やかですが…」
「いやあ…大したこっちゃないんですよ」
左馬介は少し砕けた物云いをして笑った。鴨下にしてみれば、二人の話を聞いていないのだから内容が摑めず訝(いぶか)しい。
「後から俺が云ってやる、鴨葱。…よし、左馬介、その話は了解した。いつでも声を掛けてくれい」
そう放つと、長谷川は小部屋の方へ歩き去った。鴨下も話の内容を知りたいから、長谷川の後方に小判鮫の如く付き従って去った。この男、鴨葱と云われても意に介さない気丈さはある。
次の朝、稽古が始まろうとしていた。前日迄は長谷川と鴨下のみで、必死に曳いていたのだから当然、いなかった。だが今日は、左馬介も稽古場に現れた。
「おう、左馬介か…。で、どのようにすればいいのかのう? 如何ようにもさせて貰うぞ」
「師範代の長谷川さんに、どうこう、とは云えませんが、出来ましたら、この前、お話ししたような塩梅(あんばい)で…」