その里山は先ほど勤めに出たから、帰りを待つしかないか…と、小次郎は目を閉じた。
どれほど眠っただろうか…。小次郎が目を開けると壁時計は1時過ぎを指していて、疾(と)うに昼は回っていた。どういう訳か、この日に限って余り腹が空かなかった・・ということもある。それでも日々の単調なくり返しは怖ろしいもので、知らないうちにディっシュの中の餌を齧(かじ)って食べていた。里山が出がけに多めに入れておいたものだ。朝、昼分で、多めに入れてあった。育ちざかりの小次郎は、ここしばらくの間に、ひと回り大きくなっていた。そのことは自分でも自覚できた。小次郎は庭へ出てみることにした。一応、ドラがいないか物置の軒(のき)下を確認しておこう…と思ったからである。
庭の足継ぎ石の下から外へ出ると、昨日、積もった雪はすでに融けていて、いつもの地肌が見えていた。とても枯山水とは言えない安っぽい造りの庭だが、それでも情緒だけは生意気にもあった。冬の日射しは弱く、傾きは速い。
小次郎が物置の軒下へ回るといつもの静けさで。幸い、ドラは来ていなかった。昨日のことで懲(こ)りたか…とは思えたが、油断はできない。しばらくは見回る必要がありそうだ…と小次郎は他国の侵略を敬語する海上保安庁的に考えた。
その後の日中は何ということもなく、平穏に推移し、夕方となった。最近、里山の帰りが沙希代のあとになる日が、とみに増えていた。小次郎は、ご主人が僕に対してマンネリに鳴ってこられたに違いない…と踏んでいた。媚(こ)びるのではないにしろ、もう少しニャゴらねば…と、小次郎は心ほ新(あら)たにした。
追っかけることもなく・・と言えば聞こえはいいが、要は追っかけられなかった・・ということだ。
『まあ、今日のところは仕方ありませんね。ひとまず、厄介(やっかい)者は退散しましたから、また何かあれば、お願いします』
『そうかい? じゃあ、これで帰るとするか』
ぺチ巡査は人間がする敬礼の所作を尻尾を高く挙げて曲げることで表現し、里山家をゆったりと去っていった。
小次郎はぺチ巡査が去ったあと、庭の足継ぎ石の下から家の中へと戻った。凍傷を起こすんじゃないか…と少し心配だった足先の冷えも、キッチンへ戻(もど)ると、すっかり回復して痒(かゆ)くなってきた。まあ、いい傾向だ…と思いながら水缶の水をぺチャぺチャとやった。そして、フロアへ腰を下ろすと、床暖房カーペットの温(あたた)かみが、やんわりと身体を包んだ。小次郎は小さな幸せ感を感じた。目を閉ざすと、眠気に襲われかけたが、不意にドラのニヒルな顔が浮かび、ハッ! と、目を開けた。そうだ! ドラの撃退法を考えねば…と、小次郎はテレビで観た軍師よろしく、策を練り始めた。
腕力ではとても歯が立ちそうにないドラを里山家に近づけない策といえば、ドラの弱点を突くしかない。昨日の一件で、ドラは知らない人間に弱い・・ということが分かった。郵便配達のバイク音がしただけで飛ぶように逃げ去ったドラだ。この弱点を突かない手はない・・と思えた。だがそれには、人間の手がいる。ここは、里山に相談するしかないだろう…と小次郎は結論を出した。
『凄(すご)むんじゃないよ。素直に答えなさい!』
『凄んでなんか、いやしないぜ。もって生まれつきの性格だ、こちとら!』
『いや、それは本官が悪かった。しかし、迷惑をかけてるとは思わないのかい?』
『別に…。だいいち、被害届けでも出たのかい? おまわりさんよ!』
『そう、居丈高(いたけだか)に言いなさんな。被害届けは出てないが、苦情がな…』
『誰から?!』
『それは言えん。お前、言えば脅(おど)すんだろ?』
『そんなこと、しやしねえよ。してから来いってんだっ!』
与太猫のドラは大人しくなるどころか益々、凄みを増して強がった。ぺチ巡査もドラの剣幕(けんまく)には少々、手を焼いてるようだった。そのとき、いつもの郵便配達のバイク音が近づいてきた。それまで、大きな態度だったドラが豹変し、ビクついて立ち上がった。
『話の続きは、またなっ。あばよっ!』
言っている内容は格好よかったが、ドラの身体はビクついて震え、言い終わるやいなや、疾風(はやて)のように走り去った。存外だったトラの豹変(ひょうへん)ぶりは、小次郎を驚かせた。どうも他所者(よそもの)には弱いようだ…と、ドラへの攻め口を見つけた小次郎は、それだけで大満足だった。
『逃げて行っちまった…』
ぺチ巡査は年老いているせいかドラを追っかけることもなく、茫然(ぼうぜん)と見送った。
さて、二匹が物置の軒(のき)下へやってくると、与太猫のドラはお構いなしの高鼾(たかいびき)で気分よさそうに眠っていた。小次郎は、子猫を心配させておいて、いい気なものだ…と思った。
『君かね! この家(うち)に迷惑をかけているドラというのは!』
起こす気もあったからか、ぺチ巡査はやや声高(こわだか)に、ひと声鳴いた。さすがに鈍(にぶ)いドラも、その声の大きさに目覚めたのか、ゆっくりと薄目を開け、普通猫の1.5倍はあろうか…と思える巨体を微動させながら起こした。内心では少しビクつきぎみのぺチ巡査だったが、立場上、弱みを見せられないだけに、見得を張って居(きょ)を正した。
『俺様に、なにか用ですかい?』
『聞いてなかったのかね。この家に迷惑をかけているそうじゃないか』
『猫ぎきの悪いことを言いなさんな。俺様は迷惑なんぞ、かけちゃ、いないぜ。誰が言ったか知らないが…』
そう言うと、ドラは小次郎をジロッ! と一瞥(いちべつ)した。なんのことはない、目に見えない威嚇(いかく)である。お前がつまらないことを言ったんだろう! …と言ってるような鋭い視線を小次郎は感じ、少し怖(こわ)くなった。
『それなら、訊(たず)ねるが、君はこの家の者かね?』
ぺチ巡査とドラの問答が始まった。むろん、語られるのは猫語である。小次郎はぺチ巡査の背に隠れるように成り行きを窺(うかが)った。
『…なにか?』
『実は家に厄介(やっかい)者が居ついて困ってるんです』
『ほう、それはお困りでしょうな…』
背筋を伸ばしたあと大欠伸(おおあくび)を一つ打ったぺチ巡査は、軽く返した。
『それで、すぐ来ていただけるでしょうか?』
『はあ、それはもう…。職務ですからな。それにしても冷えますなぁ~。若い頃はそうでもなかったんですがな。私もそろそろ定年でして、こういう日は…』
そう言いながら、ぺチ巡査は重い腰を上げた。小次郎の先導で二匹は里山家へと向かった。小次郎の足指は、すでに感覚が失せるほど冷えきっていた。辺(あた)りはいつの間にか銀世界となり、吐息(といき)が白く煙(けむ)って流れ出た。まあ、徒歩三分ほどの道中だから、凍傷の心配はまずなかった。老巡査に気を配(くば)り、小次郎はいつもよりは歩く速度を落とした。
里山家へ着くと、小次郎は物置小屋前の軒(のき)下へチョコチョコと直行した。後方には力強い? ぺチ巡査がヒョロヒョロと付き従った。
与太猫のドラは高鼾(たかいびき)を掻(か)いて眠っていた。人間が鼾を掻くように、猫も鼾を掻くのである。ただ、人間のそれとは違い、傍目(はため)には騒音ではないから分かりづらいのだ。人間には分からないが、猫達にはよく分かった。生まれついての違いである。
「ここです!」
物置小屋が近づくと、小次郎はぺチ巡査に、片手を上げて指さした。まあ、猫の場合、一本の指で・・ということはないから、手招(てまね)きした、と表現した方が的(まと)を得ているのかも知れないのだが…。
⑤案は、如何(いか)にも①の見過ごす案に陥(おちい)る危険性が高い。というのも、この天候だから考えているうちにウトウトと眠り、気づけば昼過ぎということもあり得た。僕達はよく眠るのだ。だいたい、一日の三分の二は眠っている。これは危うい危うい…と、小次郎は否決した。ということで、残った⑤案の警察猫のぺチを呼ぶ・・に小次郎の思案は固まった。他力本願ながら、④のように戦うことは避けられる。だいいち、あの与太猫のドラに勝てるとは思えなかった。他国ではないが、他猫の加勢を頼む集団的自衛権とかの話にはならない。さて、そう決まれば、ただちに動くだけである。小次郎は素早く立つと、床下から潜(もぐ)り、庭の足継ぎ石の前から外へと躍(おど)り出た。地面は早くも雪が積もり、薄白くなっていた。幸い、物置の軒(のき)下にドッペりと籠(こも)るドラの位置からは正反対である。小次郎は、スタコラと警察猫ぺチがいる猫交番へと急いだ。
猫交番は里山の家から徒歩三分ばかりの所にあった。もちろん、猫足での三分である。割合、近かったから、小次郎には何かと好都合だった。
猫交番のぺチは、ウトウトしていた。猫交番は誰かが捨てたリンゴの木箱で出来ていた。出来ていた…と言えば語弊(ごへい)があるから言い直せば、横向けに置かれていた・・というのが順当なものだった。
『あの、もし…』
鼻頭を小次郎にナメナメされた猫巡査のぺチは、目覚めたのか薄目を開けた。
里山が出勤してしばらくすると、沙希代も家を出た。
「帰りに積もらなきゃいいけど…」
そう言いながら玄関戸を施錠する沙希代の声が聞こえた。小次郎は聞かぬ態(てい)で目を閉じていた。それから数分後のことである。突然、猫の鳴き声が小さく響いてきた。小次郎は勘(かん)が鋭(するど)く、ドラが来たか…と、瞬時に判断した。さて、挨拶に出たものかが悩ましい…と小次郎は軍師よろしく、思案に暮れた。悩ましい…とは、囲碁プロの解説者が語る常套句(じょうとうく)である。次の一手が問題で迷うのだ。里山が囲碁番組をテレビで観るうちに、自然と小次郎も覚えたのである。軍師よろしく・・というのも、里山が観ていたテレビの影響である。さて、次の一手だが、この場合、①寝たまま見過ごす、②偶然外へ出た態で挨拶する、③警察猫のぺチを呼ぶ、④加勢する仲間(軍勢)を集め、戦う⑤その他の策を寝たまま考え続ける・・というものである。④は昨夜、観たテレビの影響が大きかった。①~⑤案のいづれにしろ、ドラとはこのまま付き合いがなくなるとは思えなかった。小次郎の知恵が試される時が近づいていた。まず④は自衛権の行使だが、戦闘行為となれば傷つくこともあり、明らかに憲法違反となる公算が大きいから即時に否決した。②は偶然、外へ出た・・というのが、見るからに不自然に思え、否決することにした。こんな雪が降る寒い朝に歩きまわる猫は少ないからだ。普通は冬籠りで炬燵(こたつ)で丸くなる・・が相場なのだ。①の見過ごすというのも、里山家で住んでいる以上、如何(いか)にも無責任に思え否決した。さて残るは、③と⑤案である。
物置小屋前の軒(のき)下には、ちょうどいい具合のスペースがあり、そこは雨露(あめつゆ)を凌(しの)げる格好の場所だった。ドラはそのうま味を知ったのだ。雪が降り始めた早朝、そのドラがやってきて軒下へドッペリと籠(こも)り始めた。一度(ひとたび)腰を下ろせば、ドラは梃子(てこ)でも動かない。少々、腹が減っていようと、立ち上がろうと自分で思わなければ、三日でも四日でもそこを動かない性分(しょうぶん)の持ち主だった。そんなドラが来ているとは知らない小次郎は、キッチン下のフロアで朝食のドライフードを齧(かじ)っていた。里山と沙希代もテーブルで食べていた。夏冬は小次郎も玄関外へ出されることはなく、家の中で暮らしていた。むろん、里山夫婦が知らない外へ出る極秘ルートはあった。玄関の床下から潜(もぐ)り、庭の足継ぎ石の前から外へ出るルートである。外では雪が降っているようだった。キッチンの窓ガラスの明るさ具合と底冷えから雪だ…とは思えた。外は深々と雪が降り積もっているようで、物音一つしなかった。朝食を食べ終えた小次郎が目を閉じて寛(くつろ)いでいると、急に頭へ人の手のような感触を覚えた。ビクッ! として小次郎が目を開けると、里山が目の前にしゃがんで見つめていた。
「じゃあ、行ってくるよ…」
小次郎の頭を撫でながら里山は笑顔で言った。沙希代が傍(そば)にいる手前、人間語で『行ってらっしゃい!』とも言えず、小次郎は猫語で「ニャ~!」とだけ鳴いた。
里山達が出かけたあとの里山家は、いつもの静けさが戻(もど)っていた。この頃になると小次郎は里山家を中心にして半径約100mほどを自分のテリトリー[領域]としていた。昨夜、里山がテレビのニュースを観ながら、ふと呟(つぶや)いた言葉が小次郎の耳に残っていた。
「また、国境紛争で戦争か…」
小次郎の場合、国境は、この家からほぼ半径100mの円内が国境となる。里山の場合は、里山家の生け垣までだ。そう考えれば、自分の方が里山より大きな国土を持っている大国ということになる。いわば、里山よりは自分の方が強い? いや、いやいやいや…そんな強い国王が弱いご主人に飼われているというのは、どうも不自然だ。小次郎は、朝からウトウトしながら哲学的な思いに耽(ふけ)っていた。この秋にふと、出会った与太猫のドラは猫語しか話せないのに、ふん! 俺なんか1Kmだぜっ! と自慢しながら凄(すご)んだことがあった。あんたは猫語しか話せないんだから、そう息巻(いきま)くほどのこともないんじゃ…と小次郎は口に出かけたが、腕っ節(ぷし)では負けそうだったから、思うに留めた。
最近、そのドラが里山家にちょくちょく出没するようになっていた。というのも、ドラはこの界隈(かいわい)の猫仲間から与太猫という有り難くない名を頂戴しているゴロツキ猫なのである。居心地のいい住処(すみか)があれば、そこに何年でも居つこうという悪い魂胆(こんたん)を持った猫だった。そのドラがこの冬の寒さに耐えきれず縄張りとする1Km圏内を徘徊(はいかい)していたところ、偶然にも居心地がいい里山家に行き着いたという寸法だ。
「お前も、家(うち)にすっかり馴染(なじ)んだな…」
『そりゃ、馴染みますとも…。数ヶ月も経(た)ちましたから』
「どうも君達猫族と我々人間とは時間感覚が違うようだな」
『そりゃそうでしょ。僕達はご主人のように長生きは出来ませんから…』
「ああ、そりゃまあ、そうだ…」
里山は、つまらないところで合点して頷(うなず)いた。
『里山家の概要は分かったつもりですが、今一つ、家的に分からない点が…』
「なんだい?」
『お二人は、ずっとお二人なんですか? 他に、ご家族の方とか…』
以前から思っていた素朴な小次郎の疑問だった。その言葉を聞いた途端。突然、里山の表情が暗くなった。小次郎は拙(まず)いことを訊(たず)ねてしまったか…と、後悔(こうかい)した。
「ははは…。それはいろいろと事情があってな…」
しばらく時期が過ぎたあとから分かったことだが、里山夫婦は子供に恵まれなかったのである。
「つまらないことをお訊(き)きしました。申し訳ありません」
「いやいや…」
里山はすぐに否定したが、少し応(こた)えたようだった。座がすっかり、しめっぽくなった。小次郎は、僕がご夫妻を癒(いや)さないと…と、子供心に早熟(ませ)て思った。