次の朝は、事もなげに過ぎた。いつものように里山は出がけに小次郎の世話をして出た。むろん、水缶は新しい空き缶を準備して玄関外へ餌入れ、猫鍋とともに置いておいた。事もなげ・・というのは人間社会で生存する里山夫妻の朝であり、子猫の小次郎が生存する世界は慌(あわ)ただしかった。小次郎は夫婦がまだ寝静まっている早朝から起き出し、密かに外へ抜け出た。里山の家は古い日本家屋だったから上手(うま)い具合に抜け出せるルートは確保できていた。床下へ潜(もぐ)ると、庭の足継ぎ石の前から外へ出られる寸法だ。
『先生、お加減は?』
『おお…小次郎殿か。態々(わざわざ)、すまぬのう。造作をおかけいたす。だがもう、すっかりよくなり申した』
俳猫の先生だけに、古風な言い回しをされる…と小次郎は思った。
『これ、僕の食べ残しですが、少しお持ちしました。失礼ですが、よければお食べ下さい』
小次郎はドライフードが入ったペットディッシュを咥(くわ)えて生け垣まで運んできたのだった。
『おお! これは、かたじけない。腹がひもじくなっておったところです』
腹が減った・・と言わないところは、さすがに俳猫の先生だ…と、小次郎は感心した。股旅は餌を食べ始めたが、その速さは緩慢で、小次郎にはとても空腹とは思えない。
『どんどん食べて下さい!』
『ははは…わが身はもう歳ですからのう、小次郎殿』
股旅はそう言うと、静かに水缶の水をぺチャぺチャと飲んだ。
※ 猫鍋=猫用に作られた鍋型をした寝床。籐製やその他各種が各季節に応じ、販売されて
いる。