(徳川慶喜が水戸学を学んでいたために幕府は敗れた)
幕末や明治維新のころ、水戸からは人材がたくさん出ました。水戸は、日本の国学、要するに日本史の研究の中心地だったのです。
当時としては、大きな教育事業だったと思いますが、この地には、水戸光圀(みつくに)をはじめ、日本の歴史に関する文献を集めて研究していた人がいて、彼らは、「日本の正統な歴史とは何か」ということを研究していました。
これも明治維新の一つの要素になっていると思います。正当な方向に動いたかどうかは分かりませんが、一つの要素になったことは間違いありません。日本という国に対するプライド、「この国は尊(とうと)い国なのだ」という思想が、歴史を研究するなかから出てきたのです。
したがって、幕末、日本に外国の船が来たときには、外国と戦うかどうかは別として、「この日本の国は、非常に尊い国なのだ」という思想がありました。開国のほうに行くか、外国船を打ち払う攘夷(じょうい)のほうに行くかは別として、日本という国に対して、非常に尊敬の念を持つ思想が出ていたことは事実です。
そして、そのなかに尊皇(そんのう)思想というものが出てきました。そのころ京都でもあまり活発ではなかった天皇制を見直したのが水戸の国学です。水戸は尊皇思想の中心地なのです。
こうした水戸学というものがありますが、実は、江戸幕府の最後の将軍である徳川慶喜(よしのぶ)は、その水戸学をずいぶん学んだ人なのです。
慶喜は、秀才、俊英でしたが、逆説的な言い方をすると、彼が水戸学を学んでいたために徳川幕府は敗れたのです。
これが「ほめ言葉であるか否(いな)か」については、おそらく解釈が分かれると思いますが、慶喜が秀才だったために幕府は敗れたのです。秀才でなければ勝てた可能性があるのですが、彼は、勉強したことをすべて覚えてしまうような秀才でした。現代の学歴エリートと同じで、丸ごと覚えてしまうタイプの大秀才だったのです。
水戸の国学を見るかぎり、日本の歴史は「天皇家の歴史」です。天皇家が百何十代もずっと続いている歴史なのです。
それは、ヨーロッパ的に言えば「王権神授説(おうけんしんじゅせつ)」です。「王は、神が送り込んだ代理人である」という王権神授説的な考えが、水戸学のなかには、どう見てもあります。天皇の歴史をひもとけば、「神の子孫である」ということになっていて、「天皇陛下というものは、とても偉い」という思想が入っているのです。
慶喜は大秀才であり、この思想を勉強して覚えてしまったために、それを敵方に逆利用されたわけです。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます