㉒今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。
三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。
――――――――――――――――――――――――
岐阜で家康は諜者を大垣方面に放ってみたところ、なお大垣の西軍陣地に変化がないことがわかった。ここにいたってもなお西軍は家康がほんの四、五里さきまで来ていることに気づかないのであろう。
(おどろくべきうかつさだ)
と、家康は敵の三成の力量を、この一事で知った。
かつて家康の盟主であった織田信長や、小牧長久手の戦いの敵であった秀吉とくらべると、なんとあまい敵であろう。
家康はさらに隠密をつづけるために、家康の存在を証拠だてる馬印、旗、戦鼓、伝令将校団、親衛隊などを夜陰ひそかに岐阜から発たせ、ひとあしさきに赤坂の前線へむかわせた。
翌十四日、家康は夜明けとともに岐阜を出発し、赤坂にむかった。途中、西軍から寝返った稲葉貞通、加藤貞泰が出迎え、道案内をつとめた。
長良川には、臨時の架橋がしてある。付近の鵜飼舟を七十艘(そう)ばかりあつめ、その上に板を敷き渡したもので、家康とその三万余の直轄軍はらくらくと渡った。
家康は、駕籠(かご)である。途中、一人の憎がやってきて、大きな柿を献上した。
「はや、大垣(柿)が手に入った」
と家康はめずらしく冗談を言い、駕籠のなかからその大柿をころがし、
「それ、大垣ぞ。奪いとれ」
と、駕籠わきの小姓たちにたわむれた。
途中、南宮山のそばを通ったとき、家康は駕籠の引戸をあけて山を見ようとした。
(これが問題の山か)
という興味がある。
西軍に属する諸将のうち、毛利秀元、安国寺恵竣、長束正家、長曾我部盛観といった諸将が、戦さの役にも立たぬこの高峻の上に陣をかまえ、謎の行動を示しつつある場所であった。彼等はおそらく勝敗をこの戦場の山で観望しつつ最後まで一発の弾も撃たぬつもりなのであろう。
「これが、南宮山でござりまする」
と、赤坂から出迎えた柳生宗厳が駕籠わきから説明したが、家康は先刻承知であった。
毛利秀元軍二万が山頂にいる。それを山頂で縛りつけているのは、毛利軍の参謀ですでに家康に内応している吉川広家であった。
(この布陣なら、動けまい)
家康は安堵(あんど)したが、なおも山上のほうを見あげようとし、駕籠を上へ傾けさせ、
「かまわぬ。もっと傾けよ」
とさらに命じて山頂や尾根のあたりの陣形を見きわめようとした。
やがて家康は満足し、駕籠をもとどおりにさせ、赤坂にむかわせた。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます