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聖徳太子の和の祈り(後編)

2024年01月25日 | 歴史
聖徳太子の肉声に耳を傾ければ、家庭、職場、国を元気づけるための体験的な智恵が聞こえてくる。

((1) なぜ「仁」ではなく、「和」なのか?)
「仁」は日本語では「思いやり」という言葉がぴったりでしょう。一人の人間として他者への思いやりを持つことは、道徳の第一歩です。一方、「和」は共同体の構成員が互いに思いやりを持っている状態と考えられます。「仁」が個人レベルの徳に対して、「和」は共同体レベルの徳なのです。したがって「和」は「仁」を含み、さらに高い次元の理想を表しています。

「和をもって貴しとし」で始まる第一条を、太子はこう結ばれています。

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上和らぎ、下睦びて事を論(あげつら)ふに諧(かな)ひぬるときは、則ち事理(こと)自(おの)ずから通ふ。何事か成らざらむ
(上下の者が睦まじく論じ合えば、おのずから道理が通じ合い、どんなことでも成就するだろう。
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互いに思いやりを持ちながら、議論をする時、物事の道理が明らかになっていき、それによってどんな課題も解決することができる、という強い信念を、太子はここで表明されているのです。

私はここでの表現から、太子が小野臣妹子や秦河勝などと和気藹々と国政のあり方を議論している様を思い浮かべます。また日本神話でも、大勢の神々が集まって話し合う光景が何度か出てきます。

「和」とは、日本社会の伝統的な理想であり、また衆智を集める創造原理でもありました。太子は「和」の理想を十七条憲法の冒頭に置くことで、目指す国家の姿を鮮明に示されたのです。

((2) なぜ「礼」が「義」の上位に置かれ、かつ他の徳目は3カ条なのに、「礼」だけ5カ条あるのか?)
「礼」とは「仁すなわち思いやりを、行動で表したもの」とされています。その具体的内容として、第5条は裁判の公正、賄賂政治の禁止、第6条は善を勧め悪を正す、第7条は人材登用、第8条は職務精励と、行政にあたる官僚が守るべき姿勢を挙げています。

当時の氏族中心の腐敗した政治を改めるためには、この4項目の具体的な行動規範が不可欠と太子は考えられたのでしょう。これらを総括して、総論の第4条では「民を治むる本はかならず礼にあり」としています。これで合計5カ条となっています。

もう一つ、注目すべきは「百姓礼あるときは、国家おのずから治まる」とも指摘されている点です。儒教では「礼は庶人に下らず」と言って、人民には礼を期待していません。太子は百姓、すなわち人民にも礼を期待します。理想的な国家を作るには、人民の礼も不可欠だと考えられたからでしょう。東日本大震災で被災者の秩序ある行動が世界を驚かせましたが、それが一例です。

((3) なぜ「信」が儒教の五徳では最下位なのに、「義」や「智」よりも上位におかれているのか)
「義」は何が正義かであり、「智」は何が真理かの洞察力です。しかし、太子は第10条でこう言われています。

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自分が聖人で、彼が必ず愚人ということもない。共に凡人なのだ。是非の理(ことわり)を誰が定めることができよう。お互いに賢人でもあり愚人でもあることは、端のない環(わ)のようなものだ。
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政治上の争いは、互いに「自分こそが正しい、相手は愚か者だ」と考える姿勢から出てきます。太子は有力氏族どうしがこういう姿勢で争う光景を何度も目にされたことでしょう。現代でも共産主義が世界で1億人も殺したという惨劇は、この姿勢から出たものです。

人間の愚かさを見つめる太子は、自分の「義」や「智」にのみ頼る姿勢では「和」は到底、実現しないと考えられたのでしょう。まずは互いを信じて、議論を尽くしていく、その「信」こそが、「義」や「智」よりも大事だと考えられたのです。

((4) なぜ他の徳目は最初の条が主要な命題になっているのに、「智」だけ最後の第17条に置かれているのか?)

17条はこうあります。
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物事は独断で行ってはならない。必ず衆と論じ合うようにせよ。・・・多くの人々と相談し合えば、道理にかなったことを知り得る。
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これは第1条の「上下の者が睦まじく論じ合えば、おのずから道理が通じ合い、どんなことでも成就するだろう」に、そのまま繋がります。第十七条は円環のように、第一条に戻っていくのです。これが最終的に太子がもっとも主張したかったことでしょう。

自分の経験に引き比べて考えてみますと、私はイタリアの現地法人社長として2百人、その子会社としてポーランドで千人、モロッコで5千人の製造会社を4年間預かっていました。その後、アメリカの現地法人の社長に転出し、アメリカ人1500人、メキシコの2万5千人の会社を見てきました。

それぞれの会社で大きな利益を出すことが出来ましたが、私の社長方針は単純至極で、それぞれの部署に担当分野をよく知り、真剣に考えている人々がいるので、彼らととよく話し合い、「なるほど」と思ったアイデアに対しては「頑張れ」と励ます。そんなことばかりしていました。

そうすると、それぞれの部門で一致団結して、驚くような成果を出してくれるのです。自分たちのアイデアを実践しようとする際の行動力はめざましいものがありますし、多少の欠陥は周囲で補うことができます。

こういう経営スタイルを知らず知らずに実践していたのは、大学生の頃から折に触れて聖徳太子の文章に触れていたからかもしれません。聖徳太子の「和を以て貴しとなす」という言葉を社是にする会社が日本では一番多い、と聞いたことがあります。多くの経営者の方々が私と同じような経験をされているのでは、と想像します。

(聖徳太子は日本国の設計者)
梅原氏は太子の理想を「一オククーブ」下げて実現したのが、天智天皇の大化の改新であり、さらにそれをもう一段オククープを下げて完全に現実化したのが、藤原不比等(ふひと)だったと指摘されています。

現代の我が国は、天皇を国家統合、国民統合の中心として、よくまとまった民主的法治国家です。この国のかたちは、聖徳太子が描いたプランによっているのです。梅原氏はこう結論づけます。

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太子は大政治家であるとともに大学者、大文化人であったのである。 日本人がながい間、太子を超人的天才として尊敬したことはまちがっていなかったのである。・・・
われわれは、 このはなはだ偉大にしてはなはだ悲劇的な太子の生涯に、あまりにも無知であったようである。
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我が国をもっともっと繁栄させるにも、あるいはより身近に自分の家庭、職場、企業を生き生きとさせるためにも、我々はもっと聖徳太子の肉声に耳を傾けなければならないようです。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

---owari---
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