聖徳太子の肉声に耳を傾ければ、家庭、職場、国を元気づけるための体験的な智恵が聞こえてくる。
(太子は何を目指したのか、その肉声を聞く)
2021年は西暦621年に亡くなられた聖徳太子の1400回忌の年で、様々な記念行事が各地で開かれました。1400年も前の人物が現在と何か関係あるのか、と思われるのが常識でしょうが、それが「大あり」だという私個人の経験を述べたいと思います。
太子を回顧する企画の一つとして開かれた奈良国立博物館の特別展「聖徳太子と法隆寺」で、心動かされた展示がありました。聖徳太子の直筆と伝わる「御物 法華義疏(ほっけぎそ)」です。法華経の注釈書を、太子ご自身で書かれたと伝わる巻物です。
縦横1センチほどの漢字がびっしり並んで、所々字を書き直したり、書き加えたりされています。いかにも太子があれこれ考えながら、文章を書かれている様を思い浮かべることができました。ある専門家は、この巻物の字体に関して、こう述べています。
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巻の部分部分で筆致が異なり、字の気分が異なっています。急に文字が小さくなったり、細身の字になっています。文字を書く専門の人間が書いたのなら筆致が揃ってくる筈ですが、そうではなく、研究をしている人や、或いは一日の朝から晩までその仕事をしているのではなく、自分の時間のある時にやっている人の書きぶりと思います。
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聖徳太子は政務を執られながら、合間合間に筆を進められたのでしょう。政治上の問題が生じた時には、それが気になって集中できない、そういう影響が筆致にも現れたのではないでしょうか。
太子は伝説中の人物で、大変に尊敬されてきましたが、逆に実在の人物ではなかった、などという研究者まで現れています。
どちらにしろ、太子を一人の人間として、「当時の歴史の中で、日本という国において、いったい何をしようと欲したのか。そういうことが、今までの太子論では、十分に明らかでなかった」と、梅原猛・国際日本文化研究センター名誉教授は大著『聖徳太子』で述べています。
本稿では、梅原氏の著作を頼りに私見を交えつつ、太子は何を目指されたのか、その肉声に耳を傾けてみたいと思います。そこからは、我々自身の家庭や職場、企業、さらには国家のあるべき姿や、活性化のための深い智恵が聞こえてくるのです。
(日本を統一国家とするために)
日本書紀によれば、推古天皇11(603)年、30歳になられていた太子は、12月に冠位十二階を制定され、翌年4月には十七条憲法を定められます。
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冠位十二階と憲法十七条が、聖徳太子の行った政治改革の中心であることはまちがいない。そしてこの二つは、深く関係している。
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大陸では随がおよそ300年ぶりに全土を再統一して、朝鮮半島北部の高句麗へ侵攻を始めていました。その外圧が強まる中で、日本国内は大陸からもたらされた疫病の流行、仏教導入を巡っての蘇我氏と物部氏の戦い、蘇我氏による崇峻天皇弑逆(しいぎゃく、暗殺)など、内政の混乱が続いていました。
聖徳太子は、そのような内憂外患の危機的状況を打開すべく、日本を、氏族が勢力争いを続ける国家から、天皇を中心とする統一国家へと変革するために、冠位十二階と憲法十七条を制定したのです。
(冠位十二階による出身にとらわれない人材登用)
冠位十二階とは、出身氏族に関わらず、広く有能な人材を登用し、活躍させるための仕組みでした。たとえば最高位の大徳を授けられた一人、小野臣(おののおみ)妹子(いもこ)は、弱小氏族・小野氏の出身でしたが、太子の外交面での片腕として活躍しました。
大徳として並んでいるのは、蘇我馬子の弟ないしは甥の境部臣(さかいべのおみ)雄麻呂(おまろ)と、大氏族である大伴氏の長、咋子(くいこ)で、二人は血筋では馬子に次ぐ人物でした。弱小氏族出身の妹子が、こういう有力氏族の長と並ぶ冠位についたのです。
その他にも、下級氏族出身ながら、大徳に次ぐ小徳の位についた秦(はたの)河勝(かわかつ)、帰化人で第3位の大仁を授けられた鞍作(くらつくりの)鳥(とり)などが、太子のもとで活躍しました。
出身氏族に関わらず、有能な人材が天皇のもとで活躍することで、有力氏族の力を押さえ、天皇中心の統一国家建設を推進したのです。出身にとらわれない人材登用は、「人間は本来、平等である」という太子の人間観が現れたものと考えられます。
(冠位十二階に込められた理想)
冠位十二階は、徳-仁-礼-信-義-智という6つの徳目にそれぞれ大小をつけて12の位としたものですが、このように徳目をそのまま冠位に用いる徹底性は、大陸や半島の冠位制度にはほとんど見られません。そこに「位の高い人物は徳も高くなければならない」という太子の理想が表れています。
また、「徳」以下の具体的徳目の順位も儒教の五徳で言われる「仁-義-礼-智-信」に比べて、礼が3位から2位へ、信が5位から3位へと格上げされています。この順序が十七条憲法の構成に次のように対応していると、梅原氏は説きます。
第1条「和をもって貴しとし」~3条 和(仁の代わりに)
第4条「礼をもって本とせよ」~8条 礼
第9条「信はこれ義の本なり」~11条 信
第12条「国に二君なし」~14条 義
第15条~17条「事はひとり断(さだ)むべからず」 智
ここでいくつか疑問点が出てきます。
(1) なぜ「仁」ではなく、「和」なのか?
(2) なぜ「礼」が「義」の上位に置かれ、かつ他の徳目は3カ条なのに、「礼」だけ5カ条あるのか?
(3) なぜ「信」が儒教の五徳では最下位なのに、「義」や「智」よりも上位におかれているのか。
(4) なぜ他の徳目は最初の条が総論となってるのに、「智」だけ総論が最後の第17条に置かれているのか?
これらの疑問に迫っていくことで、太子が何をどう目指されたのかが、明らかになってきます。
---owari---
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