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わずか三百人の決起! 幕府を揺るがせた大塩平八郎の乱

2018年03月30日 | 歴史

1837年、開幕以来の大事件が起きる。大坂町奉行の元与力大塩平八郎、現職の与力で平八郎の養子格之助らが、貧しい農民に決起を呼びかけ反乱を起こしたのだ。世にいう「大塩平八郎の乱」である。

 

大塩平八郎と行動を共にした者はわずか300人。だが現職の与力や同心らも多く参加し、幕府に与えた衝撃は計り知れなかった。幕府の身内に位置する要職者の反乱だけに後世に与えた影響は大きく、明治維新の先駆けとする見方もなされている。幕藩政治の腐敗が極まり、民意が完全に幕府から離れていることを露呈した事件だった。

 

事件発生の要因は天保年間に起きた大飢饉である。1833年から冷害、洪水が続発し、1836年に飢餓はその頂点に達する。津軽では1年で45,000人もの餓死者を出した。飢餓は天下の台所、大坂にまで及んだ。冬には市中で餓死者が出るほどで、飢餓の惨状は都市部にまで深く進行していったのである。

 

大塩平八郎は、大坂に蔓延する飢餓を天災だけが原因とは考えていなかった。米を買い占め、値段を釣り上げている豪商とそれに癒着する役人たちが、民衆を一層苦しめていると見ていた。

 

事実、大坂東町奉行・跡部良弼(よしすけ)は、深刻な食糧不足にもかかわらず、困窮の町民たちの救済策を取ろうとはしなかった。逆に、わずかばかりのヤミ米を持ち運ぶ町人を、法度破りだとして捕らえしまうなど、惨状解決とは無縁の策に終始していた。

 

大塩平八郎は格之助を通じて跡部良弼に何度か救済策を上申する。しかし、跡部は取り上げないばかりか強訴の罪で処す、と脅しにかかる始末。平八郎は商人にも助力を求めるが、これも無視されてしまう。

 

与力の現職時代から陽明学の私塾・洗心洞で同僚の子弟や農民らに学を講し、陽明学者として名のあった大塩平八郎がこの事態に深く憂慮したのも無理からぬことだった。陽明学とは知行合致の学問。知識と行動の一致は大塩平八郎の政治信条でもあったのだ。

 

飢餓と治安の悪化に混乱する大坂の町を眺め、大塩平八郎は塾生とともに天誅を決意する。1837219日、大塩勢は大坂・天満を皮切りに大砲を放ちながら、豪商を軒並み襲った。奪った金銭、米穀を路上にばらまき、窮民が拾うに任せたという。こうして、午前8時から正午までの間に大坂市街の5分の1を火の海とした。

 

しかし、わずか300人の大塩勢は、幕府に半日で鎮圧され、反乱は終わる。それでも、大坂の町では家を焼かれた者までが、大塩の行動を賛辞してやまなかったという。

 

大坂ではその後、幕末期まで大規模な世直し一揆、打ちこわしが連続して発生する。また、越後柏崎の生田万の乱、摂津能勢の山田屋大輔の乱、備後尾道・三原の一揆など「大塩残党」を名乗り悪政の天誅と窮民救済を掲げた騒乱が各地で起きた。世直し一揆、打ちこわしは全国へ広がっていったのである。

 

300人という小人数の暴動であったが、時を得た大塩平八郎の行動は、幾万の決起に優るとも劣らぬ激流を生みだした。この事件を契機に幕府の影響力は低下し、その足元からなだれをうって崩れ始めるのである。

 

---owari---

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