日本史につづられる変革史のなかで、明治維新は最大級の社会変革の一つだ。267年に及んだ徳川幕府がものの見事に崩れ去り、明治政府樹立に至る出来事は、まさに歴史のダイナミズムを感じさせる。
しかし、この幕府倒壊―維新政府樹立の一大象徴である江戸城の開城が、流血事態もなく平和裡に行われたことは、何とも奇妙なのである。
鳥羽・伏見から始まる尊皇攘夷派と幕府の戦いは、互いに憎悪むき出しの激しさであった。しかも、江戸開城後も、幕府軍残党は各地で抵抗戦を繰り広げていた。それにもかかわらず、徳川第十五代将軍・慶喜の幕府返上、江戸城明け渡しだけが粛々と行われたのである。一体、これにはどんな裏事情があったのだろうか。
1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府は、抗戦派と恭順派とに分かれ論争していた。幕府軍の勢力はまだ強大で、抗戦派の主張には十分に論拠のあるものだった。だが、江戸、大坂をはじめ全国各地で世直し一揆や打ちこわしが頻発し、民意は完全に幕府から離れていった。当の慶喜もすっかり意気消沈し、恭順派の意見に傾いていった。
一方、新政府軍は鳥羽・伏見の戦いの後、中山道、甲州街道、東海道の三ルートから江戸城へ向け進撃を続け、3月15日の江戸総攻撃を目指していた。
幕府恭順派は江戸城明け渡しを条件に慶喜、徳川家とその財産の存続の道を探った。1868年(慶応4年)3月13、14日の両日、三田の薩摩屋敷で幕府恭順派の勝海舟は西郷隆盛との会談に臨んだ。西郷は新政府軍の強行派だけに、海舟が提示する条件にはガンとして応じなかった。
ところが、会談の2日目、西郷隆盛は、予定していた新政府軍の江戸城総攻撃を中止に踏み切る。2日目の会談で、西郷は「難しい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします」と海舟に伝えたという。慶喜の処刑を強硬に主張していた西郷自身が突然態度を変えたのである。
これには薩長派イギリス公使・パークスの進言があったとされる。パークスは「恭順しているものを討つのは人道にもとる」と、西郷を諭したという。これには渋い顔になった西郷だったが、西郷も実はドロ沼の内戦になったときの他国の介入を恐れていたといわれる。そのためには何よりも速やかな決着が必要だった。こうして、江戸城総攻撃中止が決定されたのである。
パークスにそう進言させた人物こそ、勝海舟だったのです。海舟は事前にパークスに接触し、説得工作を行っていたのだ。万事にぬかりのない海舟らしい交渉術の勝利といえよう。
しかし、そこには血気にはやる新政府軍を抑え、会談の結論を速やかに実現させる力を持った西郷隆盛の器量を心得た上での下工作であったに違いない。海舟は後に「今までに天下で恐ろしい男を二人みた。それは*横井小楠と西郷南洲(隆盛)だ」と語る。西郷の大胆さと誠意に感服したのである。
冷静な読みで難関の交渉を見事切り抜けた海舟と、的確な判断で素早い行動転換を成し得た西郷。情勢変化に対応する双方の洞察が、江戸の町を焦土になる寸前のところで救ったといえる。こうした経緯があって、4月11日、新政府軍への江戸城の無血開城が行われたのである。
*横井小楠(1809~69):幕末期の政治家。肥後・熊本出身。開国通商、殖産興業を主張し、幕政改革・公武合体を推進する。倒幕派志士にも影響を与えた。
---owari---
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