1868年1月の鳥羽・伏見の戦いから、翌年5月の五稜郭の戦いまでを戊辰戦争という。京都、箱根、江戸、宇都宮、越後、会津、箱館(現函館)と続いた幕府軍と新政府軍の激突は、熾烈を極めたものがあった。
戊辰戦争最後の戦いとなった箱館・五稜郭の攻防戦はとくに激しく、新政府軍は殲滅戦を繰り広げた。やがて立て籠る旧幕府抵抗軍は三千人を超える死者を出して降伏。抵抗軍を指揮した榎本武揚は100パーセント死刑になるはずだった。
ところが榎本は降伏後に赦免される。後に明治政府下で蝦夷地開拓を任される要職につき、駐露日本公使、外務大臣などの高官にまでのぼりつめたのです。この数奇な展開がなぜ起き得たのか。新政府軍に最後の最後まで抵抗した旧幕府主戦派の榎本武揚が生き残ったのには、奇跡のストーリーが隠されていた。
幕府海軍副総裁だった榎本武揚は1868年4月11日の江戸城無血開城後、幕府海軍艦隊を率いて江戸を脱走する。会津の戦いに海から参戦するが、これに敗れると蝦夷に上陸。旧幕府兵士五千を従え、新政府派の松前藩を打ち破り蝦夷を平定する。12月15日には五稜郭を本営とする蝦夷共和国の成立を宣言、旧幕府抵抗志士たちの拠点を建設した。
対する新政府軍は、雪解けを待って翌年4月、討伐隊を派遣する。新政府軍総大将は、薩摩藩軍監の黒田清隆。1ヶ月の攻防後の5月11日、本丸箱館に向け総攻撃が開始された。
新政府軍の総動員数は13万7千人の大軍。まさに多勢に無勢であった。激戦の末、5月17日、榎本軍は降伏する。
戊辰戦争の初めから終わりまでにかかわった榎本であるが、彼は単に徳川家を守るための理由で新政府軍に抵抗していた訳ではない。そこは、幕府恭順派に身を置いた勝海舟と同じで、日本の近代国家建設に燃えていた。
3年間のオランダ留学経験がある榎本にとって、外国人を排斥するという尊皇攘夷を掲げる新政府を到底支持できるものではなかった。蝦夷に共和制を布いたところにその思想の一端が表れていた。
こうした榎本の国益に注ぐ情熱に痛く心動かされたのが、敵将の黒田だったことは面白い。降伏折衝で榎本に会った黒田はその男ぶりにすっかり惚れ込んだ。そして、なんと黒田は箱館平定後に榎本死刑を主張する政府重鎮を向こうに回し、救済に奔走し始める。
「榎本を殺すなら俺を殺してからにしろ」と迫り、頭を剃ってまでしてその意志を示したという。もはやこれまで、の状況にあった榎本の命はこの黒田の奔走によって奇跡的に助かる。
賊軍たる敗軍の将が、敵将の尽力で生き長らえ、しかも、その後国家建設に携わるという運命の不思議さは、榎本の資質が極めて優れていたとしか言いようがない。神仏のご配慮なのだろうか。歴史の大海原で起きる吉凶禍福の波ばかりは到底、人智に計り知れないものがある。
---owari---
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