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日本の世界的使命と危機(後編)

2019年05月24日 | 政治・経済
(自虐民族を待つ獄舎)
そうです。いまや、何もかもが世界的規模で進展する時代であり、であればこそ私は、煩(わずら)うことをいとわず、また自分なりの論法で――ほかにどうできましょうか――混迷をきわめる現代世界がいかに日本を必要としているかを示そうとしてきたのです。

先に、詩仙堂で大いに感ずるところがあったと申しましたね。かりに、日本のある指導者が、あの邸と庭園を発想した詩人のようにこの国を導くと想像してみましょう。その人は、あらゆる要素が、適材適所で生かされつつ、「天」と結ばれた統一的全体に参加するように「政(まつりごと)」を行おうとするのではないでしょうか。

あるいは、また、何らかの国際機関のトップに日本人が据えられたと仮定しましょう。その人は、複雑膨大な組織全体を、支配被支配の関係ではなく調和の関係で統一し、そこでひとり一人を尊敬するような管理運営を試みはしないでしょうか。

単なる夢物語でしょうか。
歴史の証するところによれば、非凡の人が志を立て、団結して事に当たれば、磐石(ばんじゃく)をもくつがえすと言うではありませんか。

「変貌」ということで、話を続けましょう。私は、ここに貴国の新生の鍵があると信ずるのです、

ヒンズー教の教えによると、個々人は輪廻(りんね)をつうじて、同一の我を保ちつつ転生するとのことです。これは諸文明についても同様であって、それらは同一の精神を保ちつつ変貌していくとも考えられます。

硬直すれば、待つものは、枯死と夜のみ。では、自己放棄が必要なのでしょうか。しかし、それでは、まだ幾つかの祭りが繰り広げられるものの、やがては人類社会の織り糸が事切れて、息絶えてしまうでありましょう・・・・・。

貴国の偉大なる茶人、利休は、その茶道芸術について「守、破、離」の三行程ありと教えました。これを遵奉することは、おそらく、どのような行為、創造にとっても有効にちがいありません。過去との関係を維持するうえにも、ここに思いを凝らして然るべきでありましょう。

利休の挙げるこれら三つの要諦は、互いに不即不離の関係にあることを特徴としています。「守」に執着(しゅうちゃく)すれば不毛となり、時宜(じぎ:程よい頃合い)を失してそこから活力を奪われれば、なおさら不毛です。かといって、「破」の奔流に身を任せれば、最初のうちこそ上辺の自由の陶酔にも浸れましょうが、いつかは幽囚(ゆうしゅう:捕らわれ人)の身となる運命を免れません。

いかなる獄舎が待つかといえば、自虐をもって自己否定した民族を待つそれであります。

---owari---
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