結婚の問題として、「嫁姑の問題」は、どの時代にもついて回るものだと思います。
昔であれば、「嫁ぐ(とつぐ)」ということは、「その家の一員になる」ということであり、義父や義母、親族の方々との人間関係の調整能力も求められるものであったと思うのです。
しかし、現代は、「家に嫁ぐ」というわけではなく、「個人と個人で結婚をして、夫婦生活を営むことができれば、それでいい」ということで、人間関係のところが希薄になってきているように感じます。
その結果、舅(しゅうと)や姑のほうからは、「なかなか孫の顔が見られない」といった不満も出ますし、嫁のほうからは、「あまり口出ししてほしくない」という不満も聞かれます。
こういうテーマが現代ではとても多いのではないかと思うのですが、このあたりの人間関係の交流については、どのように解決をしていけばよいのでしょうか。
(若い世代が知らない考え方とは)
人間関係のなかでも、嫁姑の問題は、難しいことで有名なテーマではあります。
従来は、「折り合いをつける」、あるいは「忍耐をする」という面がどうしてもあったと思うのですが、そのようにしていた理由は、現代では失われてきたもの、すなわち「代々、先祖供養をしてもらわないと困る」という考え方があったからです。
昔は、跡を継いでいく人たちに対して、「自分たちが亡くなったあと、供養してもらわないと困る。代々のお墓や位牌(いはい)等を、きちんと守ってもらわないと困る」という考えがあったのです。
結局、自分も親となって嫁を迎えるに当っては、「わが家の嫁としての躾(しつけ)をして、きちんとその一員になってもらわないと、自分が亡くなったあとに供養してもらえない」ということになりかねません。
したがって、それが連綿と続いていくためには、「家風を守る」というかたちで、熏習(くんじゅう:あるものの性質が他のものに移行することをいう)するように教え込んでいくことが大事だったのでしょう。
ただ、そうした先祖供養の考えは、今はもう極めて薄くなっており、社会的な流動性、移動性が高まると同時に失われてきています。また、お墓や仏壇もなくなりそうな気配が漂(ただよ)っています。
例えば、「マンション族であり、転勤族である」という人が多くなってくると、だんだんそのようになるでしょうし、親の死に目にも会えないような、海外暮らしの長い子供も多くなってきているわけですから、その意味で、「昔の考え方が破れつつある」ということは言えるでしょう。
もちろん、「今さら苦労をするようなところに嫁ぐよりは、自由なほうがいい」というような考え方もあるとは思います。これは、教育において、倫理観のようなものを教わらなくなったせいかもしれません。家庭教育においても、学校教育においても、そういったことは教わらないことが多いでしょう。
妻の言い分として、「家の嫁に来たわけではない。結婚しに来たのだ」と言い、「憲法の下に男女平等であり、夫婦の合意に基づいて結婚して新しい家庭ができたのだから、親は関係がない」という女性も要るわけです。
確かに、戦後の新しい憲法や学校教育には、そういう面はありましょう。「結婚というのは、嫁に来たのではない。別個の家庭をつくるために、独立して男女が一緒になったのだ」という考え方があると思うのです。
特に、現代的女性のなかには、こうした考え方を主張する人もいます。そして、「その考え方に妥協しなければ、すぐに離婚だ」という話になることも多いのです。自立した女性には、立派なところもあるとはいえ、「家族としての絆をつくる」という意味では難しい面があるかもしれません。
やはり、自立した女性には、「何か職業的に適性がある。あるいは、何か学問的に専門性がある」というような人が多いと思うのですが、それに打ち込んだ時間が長い分だけ、ほかの人たちと交流するだけの心の余裕がなかったり、心のひだがなかったりする場合が多いのでしょう。
このあたりは難しいところだと思います。
---owari---
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