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霊的世界の真実・エピローグ「人生わずか二万数千日」

2019年05月10日 | 人生
「幸福」とは、どのようなものでしょうか。
世の中の、いわゆる幸福論は、この世の話ばかりですが、この世的に幸福であるだけではなく、あの世的視点から見ても幸福である生き方とはどのようなものでしょうか。

そういう幸福を、「この世とあの世を貫(つらぬ)く幸福」と呼んでいます。
つまり、みなさんに対して、この世で幸福感に満ちた生き方をしていただくことを願うだけではなく、死んで、あの世に還ってからも、幸福な生活が続くような生き方を提唱し、それを実践していただきたいと願っているのです。

もちろん、実際には、この世で不幸な生き方をして、あの世でも不幸な人がいます。この世では幸福そうに見える生き方をしても、死んでからは不幸な人もいます。この世で不幸そうな生き方をしても、死んでから幸福になる人もいます。この世で幸福であり、あの世でも幸福な人もいます。簡単に言うと、この四通りがあるわけです。

このなかで、私がみなさんに勧めているのは、「この世でも幸福、あの世でも幸福」という、四通りのなかの最後のものです。結果的にいちばん良いと思うものを推奨しています。

もちろん、これ以外の考え方もあります。この世に対して、まったく否定的な見解をとるならば、「この世で、いかに悲惨な生き方をしても、あの世において幸福であれば、それでよい」という考え方もあると思います。

キリスト教徒には、この世では、悲惨なこと、悲しみの現実とぶつかり合って生きながら、あの世での幸福を目指す人が、かなり多くいます。

そもそも、教え主であるイエス自身が、この世では悲劇の人であったと考えてよいと思います。教え主が悲劇の人であったがゆえに、あとに続いた人たちも、悲劇を通しながら、あの世での栄光、あの世での幸福を求める生き方をしました。

しかし、私は、そうした生き方がいちばん良いとは必ずしも思っていません。わずか数十年ではありますが、この地上生活のなかにも、私は一定の意味合いを認めています。

人間は、まったく無意味なことを繰り返すだけではありません。
「この世に生まれてくるには、生まれてくるだけの理由がある。この世の数十年の人生のなかにも、それなりの役割や目的がある。人間は、何かを学ぶために、この世に生まれてきて、そこで学んだものを持って、実在の世界、本来の世界に還る存在なのである」

これが根本的な考え方なのです。

したがって、私は、この世を完全に否定しているわけではありません。「修行場、教育の場、魂を磨く場として、この世は非常に大切な場である」ということを認めています。

「この世において、魂が数多くの糧を得て、喜びを感ずることは、非常に幸福な生き方である。そして、その生き方が、あの世での幸福にもつながる」と言っているのです。

みなさんは、数十年の人生というものを、長いように感じるでしょうが、日数に直してみると、平均して二万数千日です。十万日も二十万日も生きるように思うかもしれませんが、実は二万数千日にすぎないのです。

そして、砂時計の砂のように、毎日毎日が一日ずつ落ちていき、二万日から三万日たったときに、みなさんは、この世を去ることになるわけです。短いといえば、非常に短い人生です。

この二万数千日の間に、この世において、どれだけのことを経験し、どれだけのことをつかみえるか。これが非常に大事です。その貴重な経験を得るために、人間は人生を送っているわけです。

そのために、この世に赤ん坊として生まれ、学校で学び、大人になると、就職に就き、結婚をして家庭を営みます。そして、病になったりしながら年をとっていき、やがて、この世を去っていくのです。

わずか二万数千日――。この間を、どれだけ理想的なものにしていき、あの世に還ったときに、魂の向上になっているような生き方をするか。これが非常に大事なことなのです。


さまざまな霊的知識をお伝えしましたが、精神世界というワンダーランドに勇気をもって一歩を踏み出していただきたい。

ある意味で、ここで述べたことが「二十一世紀の常識」となることを、心より希望しています。

---owari---
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