(「第一原因」としての神)
神に関しては、昔から、さまざまな研究、探究がなされてきました。
例えば、神を「第一原因」として論ずる人もいました。
つまり、物事には原因がある。「自分が、今、生きている」ということは、「自分には両親があった」ということである。そういう原因があって自分がある。そして、その両親も、元を探れば、その両親がいた。その両親にもまた両親がいた。
こうして探っていくと必ず前者というものがいる。結果に対しては原因がある。そうであるならば、どんどん、どんどんと探っていけば、どこかに第一原因というものがあるはずである。
この第一原因こそが神であるということを証明した哲学者、あるいは神学者もいました。
(この世の中のすべてのものには創られたものとしての痕跡がある)
「結果に対しては原因がある」ということを考えれば、やはり、「この世界を創ったものがある」と考えることは、常識的に考えても筋が通っています。
この世界を偶然にできたものと考えることは、最近の流行ではありますが、これは、ある意味で、長い目、あるいは広い目で見るならば、異常な思考と言わざるをえません。偶然に人間ができるでしょうか。人間がアメーバーから偶然に進化してくるでしょうか。
人間というものは、言ってみれば、超高層建築のようなものです。四十階建て、五十階建ての高層建築のような、目的性を持った仕組みを持っているのです。
ところが、「砂や砂利、あるいはブロックや鉄筋など、こういうものが転がっていて、偶然に風が吹き、偶然に雨が降って、コンクリートがこね上げられ、いつの間にか鉄筋が組み上がって、つまり、偶然に地震か何かで鉄筋が組み上がって、超高層ビルができた」と言っているのと同じなのです。
人間の仕組みの複雑さを知れば知るほど、それが、そういう材料の寄せ集めで偶然にできたものではないことは明らかです。それは目的性を持っているのです。
この世のものはすべて、創られたるものとしての痕跡があるのです。それは、生きているものもそうですし、鉱物もそうです。あるいは、いろいろな建造物にしても、原因者としての創った者がいます。それならば、「第一原因者としての神」というものを考えるのは当然ではないでしょうか。
---owari---
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