(「神の絶対性」と「悪の存在」は、ほんとうに矛盾するか?)
善と悪については、古来、宗教家や哲学者が、いろいろと議論をしてきました。
「神が善一元の存在であるならば、悪があることがおかしいし、悪霊、悪魔が存在することもおかしい。そういうものが存在するということは、神の属性のなかに、そういうものがあるということだろうか。
また、神の属性のなかに、そういう性格がないとすれば、この宇宙を神がすべて支配しているとは言えない。神の支配の及ばない世界があることになる。そこには、ほかなる存在があることになる。そうすると、神は唯一の絶対者ではありえなくなる」
こういう矛盾したテーマがあり、善悪については、古くから、なかなか結論が出なかった面があります。
インドネシアのバリ島では、バロンダンスという民族的な演劇が行われています。
それには、民族神である善神のバロンと、悪魔の化身である悪神のランダが出てきます。そして、「善なる神、真なる神であるバロンの力と、悪なる神、すなわちランダの力とは対等で、決して決着がつかない。善なる神と悪なる神が永遠に戦い続ける」という思想が描かれています。
この考え方は、遥かなる昔に中東で説かれたゾロアスター教においても、「善と悪の戦い」、すなわち、「光の天使、指導霊であるオーラマツダと、悪神との戦い」として描かれているテーマなのです。
それでは、ほんとうに、そういう善神と悪神とがあり、その力は互角で決着がつかないのでしょうか。(悪は、時間の流れのなかで、「許し」があることにより、善なるものへと導かれる)
確かに、人類の歴史を見ると、常に、善なるものと悪なるものがあって、闘争し続け、決着がつかずにいるようにも見えます。
ただ、真実の仏の世界からの結論を語るならば、やはり、「善悪の二元を超越した、一元なる、大いなる善があり、地上の人間の目に善悪と見えるものは、自由そのものに付随する属性が、違ったように見えているだけである」と考えてよいでしょう。
自由は、その出発点において制限がないことをもって自由とされます。制限がないことによって、衝突が起きることもあれば、繁栄がもたらされることもあります。
すなわち、自由は、繁栄の側面を取ると善に見え、衝突、あるいは相克の面を取ると悪に見えることになります。
この悪の面は、普通、反省や改心、懺悔などの過程を経て、許しを得、善なるものに転化することが、当然のこととされています。
こういう心理が前提とされているということは、一定の時間を超えたときに善一元の思想になりうるということです。
「人生の数十年を見たときに、善悪は明らかに分かれるとしても、長い長い時間の流れにおいては、悪なるものは、すべて、善なるものへと教導され、導かれているのだ」という考え方は一つの一元論です。
「人間にとっては無限に近い時間も、仏の目から見れば、ほんの一瞬である」という思想をもってするならば、「善しかない世界が展開されているのだ」と言えます。
悪の存在、悪の行為について、「許しがたい。この世に仏はおられないのか。仏や菩薩の力と悪魔の力は互角なのか」などと、さまざまな疑問を持っている人もいるでしょう。
しかし、そういう人に対して、「そう見えることもあるかもしれないが、時間の流れのなかで、『許し』という宗教的行為があることを知りなさい。許しがあることによって、すべては、善なるものへと転化していく過程として捉えられるのだ」と言っておきたいのです。
---owari---
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