木造建築技術とともに、日本全国に数万基あるといわれる古墳は、古代の土木建築技術の蓄積を物語っている。その最大のものが、大阪府堺市にある仁徳(にんとく)天皇陵である。
全長が486メートル、高さ34メートル、取り囲む二重の壕を含めた総面積は34万5480平米である。秦の始皇帝陵墓の底面積11万5600平米の3倍、エジプト最大のクフ王の大ピラミッドの底面積5万2900平米の6倍以上である。
大林組の試算によれば、土を盛り上げるために10トンのダンプカーで25万台分の土が運ばれたという。1日3000人ほどの労働力で15年8ヶ月もかかったであろうと推定されている。
この古墳の埋葬者とされる仁徳天皇は第16代天皇で、記紀によれば西暦400年前後に崩御(ほうぎょ)された。その記述では、仁徳天皇は次のように語られたという。
そもそも天が君(天皇)を立てるのは、まったく百姓のためなのである。従って君は百姓をもって本とする。それだから、昔の聖王は、一人でも飢えこごえる者があれば、反省して自分の身を責めたのである。(田中英道編『日本史の中の世界一』育鵬社より)
人家のかまどから炊煙が立ち上がっていないことに気づいて租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅(かや)さえ葺(ふ)き替えなかった、という有名な逸話も伝わっている。
さらに『日本書紀』によれば、天皇は河内(かわち)平野の水害を防ぎ、開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(まむたのつつみ:大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。これが日本最初の大規模土木事業だったとされる。その他にもいくつかの土木事業を行われた。
こうした仁徳天皇の善政は、当時の国民の心を掴(つか)んだ。天皇の宮室造営の命が下った時に、こう書かれている。
百姓は、みずから進んで、老人を扶(たす)け、幼児を携(たずさ)えて、材料を運び、簀(こ)を背負って、昼夜を問わずに、力を尽くして競いつくった。(同前)
全国に数万もあるという古墳は、それ自体が日本民族の先祖崇拝の証であろう。そして皇室こそ、民族の宗家であった。天皇陵とされる古墳だけでも80近くあるという。古代の国民は、肉親の情を持って、歴代天皇をお祀りするために、古墳をつくり続けてきたのであろう。
秦の始皇帝は中国を統一して初めて皇帝となったのだが、巨大陵墓などの大土木工事によって民衆の反乱を招き、わずか一代で滅んでしまったのとは、まことに対照的である。
---owari---
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