我々の祖先は、土器や漆器というような工芸品ばかりでなく、巨大な建造物についても、世界史に大きな足跡を残している。
青森県の三内丸山遺跡では、何百棟もの掘立柱(ほったてばしら)建物が整然と配置されているが、それらは直径二メートル、深さ二メートルの巨大な柱穴に、クリの巨木を立てたもので、柱の高さは十メートル以上と推定されている。最大の建物は長さが三十二メートル、床面積が百坪もある。
縄文時代の日本人は毛皮を着て洞穴に住み、狩りをして生活をしていたというイメージは、すでに過去のものとなっている。
その巨大建造技術がさらに蓄積されてつくられたのが、出雲大社(いずもたいしゃ)であろう。現在の出雲大社本殿は高さ二十四メートルで、延享(えんきょう)元(1744)年に造営されたものだが、平安時代に建てられた本殿は高さ約四十八メートルであり、さらにそれ以前は約九十六メートルもあった、と宮司(ぐうじ)である千家(せんげ)家に代々伝わる『金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)』に記されている。
九十六メートルというのは事実かどうか分からないが、四十八メートルの方は物証がある。出雲大社の境内三か所から巨大な柱が発見されているのである。それぞれの柱は、直径一.三五メートルの杉材三本を金輪で締めて一組にしたもので、さしわたし約三メートルもあった。
これらの柱は、『金輪御造営差図』で記されている図とよく一致しており、また科学分析の結果、宝治(ほうじ)二(1248)年に造営された本殿跡の可能性が高いとされている。
神話によれば、大国主神(おおくにぬしのかみ)が天津神(あまつかみ)に国譲りをした時に、天津神が大国主神の住居を造り、「高天原(たかまがはら)にとどくほど千木(ちぎ:屋根の上で交叉させた二本の木)を高く聳(そび)えさせる」と約束したという。大国主神を祀る出雲族との平和的統一を実現しようという狙(ねら)いがあったのだろう。
大国主神を祀ることを命ぜられたのが、天照大神の第二子・天穂日命(あめのほひのみこと)だが、現宮司の千家尊祐(たかまさ)氏はその八十四代の子孫にあたる。ちなみに第一子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の子孫が現在の皇室である。
---owari---
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