(一神教といっても、ほんとうの“一神”ではない)
「神が一つであるかどうか。一人であるかどうか。唯一の神であるかどうか」という問題ですね。
神が唯一であるならば、「自分のところに降りた神が本物であれば、ほかのところに降りる神は本物ではない」ということになります。
例えば、古代のユダヤ人のところに降りた神が本物であるならば、アラブのほうに降りた神は本物のはずがない。あるいは、イランのほうに出た神が本物のはずがない。日本や中国やエジプトに降りた神が本物のはずはない。「神は一つであり、自分たちの民族だけのものだから」と考えると、他のものは全部、間違いということになります。
これは、歴史上、人類の大きな憎しみと闘争を生んだ考え方です。
一つの宗教が起きるときに、そのなかで中心的な指導霊となる、神格を持った魂が一人であることは、確かによくあることです。特定の人が中心的に指導していることがあります。そのため、「私の教えに基づいて行動しなさい」と言うことはあります。
しかし、それは、「その人以外に他の神がいない」ということを意味してはいません。ほかにもいるのです。
人類がこれだけの人口を持っているところを見ても分かるように、多くの神がいなければ、大勢の人たちを幸福にすることはできません。数多くの方々がいて、役割分担をしているのです。そして、それを取りまとめている人たちもいます。
そのようになっており、その時代において、その地域において、「誰が担当して、その宗教を起こすか」ということが決まる場合がありますが、それは、同時に、「他の地域、他の国、他の民族に出た神が偽物であった」ということではないのです。
〔『旧約聖書』には、ヤハウェ以外に、エロヒム(エル・カンターレ)という神が出てくる〕
例えば、一神教で有名なのは、もちろん、ユダヤ教でしょう。ヤハウェの神の一神教です。このヤハウェは妬(ねた)む神であって、「自分以外の神を崇拝することは許さない」と言っています。
しかし、ユダヤの神がほんとうの一神か、神は一つなのかというと、『旧約聖書』を読んでみると、そうではないことがはっきりしています。
旧約に出てくる神には、ヤハウェと、もう一つ、エロヒムという神がいます。これはヤハウェとは違った神なのです。ヤハウェというのは、エンリルと呼ばれている神です。一方、エロヒムとして旧約に出てくるのは、エル・カンターレなのです。この両者が指導しているのです。
したがって、『旧約聖書』に載っているだけでも、早くも二人の神が出てきていて、一神ではないのです。
そのときに熱心に指導した神が、邪教を信じている人などに対して、「自分のみを神とせよ」と言ったことはあるかもしれません。しかし、それは、「自分以外の神の存在は許さない」という意味ではなかったわけです。
もし、ほんとうに間違った宗教を信じている人たちがいたら、「その邪神を崇(あが)めるのはやめなさい。われのみを信ぜよ」と言うことは、方便としては、もちろん、正しいことではあります。しかし、その考えが「他の宗教は全部間違いである」「他の神がすべて間違いである」というなら、これは大変な混乱を生みます。
(マホメットを指導していた霊人は複数いた)
同じく一神教としては、イスラム教もそうでしょう。「コーラン」は、終始、アッラー神を讃(たた)えた内容で出来上がっていますが、マホメットは、このアッラーの言葉を霊言のかたちで伝えているのです。
そして、面白いことには、アッラーが自分のことを言うときに、「われは」と言うだけでなく、「われわれは」と複数形で言っているところが、何回も出てくるのです。「われは」と出たり、「われわれは」と出たりして、複数形が何度も何度も出てきます。
それに対して、アラブの人たちは、よく分からないので、「われわれは」というのもアッラーの自称なのだと考えているのです。
しかし、この「われわれは」というのは、指導霊団がいることを意味しているわけです。アッラーといっても、代表で出ているのがその霊人であり、それ以外にも指導霊がいて、交替でいろいろな指導をしていることを意味しているのです。それが真相です。
したがって、一神教といっても、ほんとうの一神ではないのです。たとえ主なる担当者が一つの霊存在であるとしても、指導霊は、その霊だけではありません。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます