次なる巡礼の杖を留めたのは、比叡山でした。ここは、最澄が天台宗密教を興隆せしめて以来千二百年、その間、三個の法灯は尽きることなく燃えつづけてきています。
日本の奇跡にもひとしい、かの驚異的「見透し」の感覚は、ここに了々として見てとることができます。というわけは、他の国々は仏教から一つの流れしか承け入れなかったのにひきかえ、貴国の場合には、ほとんどすべての流れを――少なくとも大乗仏教においては―――包摂(ほうせつ:一定の範囲の中に包み込むこと)してきたからです。
阿弥陀教、浄土宗、臨済・曹洞(そうとう)の二大禅宗、真言・天台の二大密教、等々が共存し、各人をして自分の感性にあった道の発見を可能ならしめているのです。禅は、今日、西洋で、日本仏教の唯一の形態として知られていますが、真言密教と天台密教も、その図像(ずぞう:諸仏の像や曼荼羅「まんだら」などの図様を描き示したもの)と象徴の高さといい、名僧の典籍の豊富さといい、これを学ぼうとする人々にとって垂涎(すいえん:ある物を手に入れたいと熱望すること)の宝庫といえるのでありましょう。
比叡山から琵琶湖へと下山する山腹に、懸崖(けんがい:切り立ったようながけ)に張りついた一小寺があり、そこで、未明四時に行われる護摩の行に加わってきました。それは魂を震撼(しんかん)せしめる光景でした。
一人の白装束の僧が火を点じます。身の毛もよだつばかりの断食と行脚(あんぎゃ)の試練を克服してきた僧で、「アジャリ」(阿闍梨)と呼ばれています。火は木造の寺院の只中に燃えさかり、薫香と煙が我々を包みます。
朗々と声明(しょうみょう)は誦(ず:節をつけてよむ)されて、炎と相和します。いまや、全身は、目は、肌は、耳は、呼吸は、密儀の虜(とりこ)となって、我らの記憶の奥底から、太古、人間が五大の諸要素と結んだ約定(やくじょう)が立ち昇ってくるのでした。
かくて、ヴェーダの火神アグニも実在すれば、ゾロアスターも、また神々の力に敢然と挑んだ不幸なプロメテウスも、すべて実在すること、疑いを容れません。しかも、ここでは、看経勤行(かんきんごんぎょう:朝夕に声を出して読経する)の力によって、一切は秩序整然と保たれているのでした・・・・・。
---owari---
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