「今日は暖かくなりそうです」 もう4月も半ば過ぎました。あれほど咲き誇ったさくらも北上して行きました。月曜日は週末の疲れが少し残って元気がでません。
仕事は溜まり気味です。少し休憩してがんばります。かって、月曜に作られた車は故障率が高いと聞いたことがあります。明日はだいぶ元気が戻っていることでしょう・・・。
仕事は溜まり気味です。少し休憩してがんばります。かって、月曜に作られた車は故障率が高いと聞いたことがあります。明日はだいぶ元気が戻っていることでしょう・・・。
「散るさくら」 吉野の山はこれからが見所とのこと。下千本、上千本と見所が深く時期もずれている。山の上はこれからがシーズン。たくさんのさくらの群れも美しいがたった一本で咲いているさくらも見事である。有名な一本桜はたいてい名前がついている。誰も寄りつかない山の中にひっそりと咲いているさくらを見ると感動する。孤高の美しさを感じてしまう。さくらは夏秋冬と耐えてほんの一瞬輝く。
明日はお休みします。
明日はお休みします。
「春の日差し」 その日は黄砂が飛んできて空がかすんでいた。中国大陸から海を越え砂が飛んでくるとはにわかに信じられない。それでも空が黄砂でかすむので事実として受け止めざるを得ない。飛んでくる様を海上で見るとどんなに見えるか興味がある。砂が風で舞い上がるのは見れるが、長い距離飛んで来るとは自然の驚異を感じる。あんまり歓迎されない自然の贈り物だ。(写真は鈍い光のお日様が池に浮かんでいた。)
「春を覘く」 節穴から世界を覘くとおもしろいものが見えてくる。小学校五、六年の頃、夏の夜。ある家の板戸から光が漏れていた。光に引かれて節穴から覘いて見た。悪いことに風呂場が見えた。今でもそのときの光景を覚えている。なんだか悪いことをしたような決まり悪いきもちを今でも引きずっている。
「うれしい記事」今朝の新聞でうれしい記事を見つけた。フイルムカメラが見直され静かなブームを生んでいるそうだ。いつかは消え行くものかも知れないがフイルムカメラは捨てがたい。中でもポジフイルムはおもしろい。デジカメしか知らない世代も増えてきた。ゆっくりとフイルムを詰めてしこしこと写真を撮りたい。画像が横になっているがお許しください。


「名残の桜」さくらは散り際も美しい。花吹雪になって舞う様は形容にしがたい。今朝は、満開の桜に若葉が準備されていた。さくらに葉が出始めると人はさくらから離れていくが、近頃は盛りを過ぎたさくらが若葉と一緒になってかもし出す雰囲気が好きになった。花見の後に残る余韻がいとおしいと思えるようになった。年令を重ねたせいかもしれない・・。
「醍醐の花見」 豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」の極にあるのが落語の「長屋の花見」だろう。貧乏長屋の大家さんと住人の花見を面白おかしく描いた落語の傑作。お茶をお酒に、沢庵をかまぼこに例え、落ちは茶柱を酒柱に見立ててしまい、聞いてる人も一緒に花見を楽しめる。一方の「醍醐の花見」は、太閤秀吉が慶長3年(1598年)に京都の醍醐寺で開いた花見で1300名を引き連れて花見の宴を開いたとある。参加者にどんな料理が振舞われたか考えるだけでもおもしろい。醍醐寺は一度訪ねてみたい場所である。
「子供の頃桜を見た」歩いて小一時間かかる道を荷物を持って花見に出かけた。山のふもとにたくさんの桜が咲いていた。何故か弁当は「たけのこご飯」だった。他に何が入っていたか定かではない。持参したござを敷いて。お弁当を食べた。花見の場所の記憶は薄いが途中の道すがら竹細工の猿が上り下りする物やツバメの模型や「うその木細工」など思い出す。家のものは誰もお酒を飲まなかったので、お茶で花見をしていた。私は、たまに、みかん水やラムネを買ってもらい飲んだ。桜の季節になるとぼんやりとこの光景を思い出す。
「花の宴:1」 久しぶりに花見に行った。広い敷地の池を背景に桜があった。ウイークディであったのでゆっくりと散策できた。人が花を見ているより花が人を見ている気がした。今朝の写真は通勤の途上の桜である。この時期は贅沢な通勤が出来る。それでも川の改修工事のためだいぶ切られてしまった。桜は人生経験(花の生命が長いほど)が美しい花を咲かせてくれる。ここ一、二年以内に植えられた桜は青臭い花を咲かしている。