人生とは、「自分に起こる全てが最善だ」と思えるように成長することだ、と先日書いた。
書いておきながら、ちょっと言葉足らずだったなと思って反省している。
例えば、自分の子供が死んだ場合。自分の子供が殺された場合。自分の娘のめぐみさんが拉致された横田早紀江さん。
それらの不幸が「最善だ」と思える親は、いまい。どんなに修行を積もうと。
しかし。
視点を変えてみる。
- 自分の視点(主観)
- 他人の視点(客観)
- 神・天の視点(天上観、とでも言おうか)
視点には3つある。
1の自分の視点からは、身内の不幸は、どう考えても、最善にはなり得ない。
2の客観の視点でもそうだ。
しかし。
3の、神の視点、天の視点からはどうか。
例えば。
アフガンの医師・中村哲さんは、息子を10歳で喪った。脳腫瘍で。
その不条理に、憤った。何も悪いことをしていないのに。何の罪もないのに。いたいけな息子さんは、10歳までしか生きられない。
10歳なのに、父の中村哲さんに、「父さん、運命なんだから、しょうがないよ」的な、達観したことを言っていた。
中村哲さんは、悲しんだ。憤った。
その不条理に。あるべからざる逆縁に。
そのマグマと、怒りと、エネルギーが、中村哲さんをして、さらに、アフガンでの援助活動に邁進させた。
そう、中村哲さんご自身が、お書きになっている。
幼い子を失うのはつらいものである。しばらく空白感で呆然と日々を過ごした。今でも夢枕に出てくる。空爆と飢餓で犠牲になった子の気持ちがいっそう分かるようになった。(中略)公私ないまぜにこみ上げてくる悲憤に支配され、理不尽に肉親を殺された者が復讐に走るが如く、不条理に一矢報いることを改めて誓った。その後展開する新たな闘争は、この時始まったのである。
原典はこちら
これは、「天の視点」からは、息子さんの死にも、意味があったということではないか。
息子さんが早逝されたからこそ、アフガンで中村哲さんが力を発揮できた、といえる。
天の視点からは、すべて意味がある。それが「最善」といえるかはともかく。
これをキリスト教では God works in mysterious ways と言う。
神の御加護は意表を衝く。天は思いがけない方法で力を及ぼす。
中村さんの息子さんの死も、mysterious に、働いて、アフガンの何十万、将来的には何百万、何千万という人の、生命を救った。
____________
こうやって、身に降りかかる不幸を、100年くらいのスパンで、意義あるものにする。意義あるものにせしめる。
それが人間の努力なのかもしれない。
※ 横田早紀江さんも、もちろん、娘のめぐみさんを取り戻すために粉骨砕身東奔西走されていらっしゃるんだけど、そういう、与えられた宿命を意義あらしめる方向で闘っている部分があるのではないか。
※ 西郷隆盛が言う「人を相手にせず、天を相手にせよ」と言うのも、神の視点、天の視点を持てということだろう。