"hazard lab"
(カムチャツカ半島沖の千島海溝でM6.1(USGS))
(千島海溝はカムチャツカ半島から北海道にかけて伸びている)
① カムチャツカ半島の千島海溝でM6.1 「1952年のM9地震と同じ震源域」
2018年07月06日 12時28分
米地質調査所(USGS)によると、日本時間6日午前10時40分ごろ、北海道の北東に位置するロシアのカムチャツカ半島南端を震源とするマグニチュード(M)6.1の地震が発生した。
地震が発生したのは、カムチャツカ地方の州都ペトロパブロフスク・カムチャツキーの南南東168キロの沿岸で、震源の深さは約80キロ。太平洋津波警報センター(PTWC)はこの地震による津波の心配はないとしている。
震源は、北海道の十勝沖から千島列島を経てカムチャツカ半島の太平洋沿岸に沿って約2100キロにわたってのびる千島海溝沿い。1952年11月4日には、今回の震源近くでM9のカムチャツカ地震が発生し、太平洋沿岸の広い範囲で津波が発生。震源に近い千島列島では最大10メートルの高さの津波が発生し、岩手県や宮城県の沿岸で最大3メートルの津波が襲った。
カムチャツカ地震が発生したのと同じ1952年3月には、同じ千島海溝を震源とするM8.2の十勝沖地震が発生し、池田町や幕別(まくべつ)町などで最大震度6,釧路や浦河、帯広で震度5の揺れが起き、28人の死者を出した。
※ この項目は非常に重要な内容ですので、"hazard lab"さんの記事に自分が以下、
追補しました。wikipediaでチェックすることを強く強くお勧めします。
(津波襲来後の被災地)
② 十勝沖地震(wikipedia)
(1)十勝沖地震(とかちおきじしん) は、北海道の十勝地方の沖合を震源として起こる地震。過去に数回発生しているため、発生年または元号を付して「○○○○年十勝沖地震」「〇〇十勝沖地震」と区別されることが多い。
(2)概要
北海道十勝沖からロシア連邦のカムチャツカ半島沖にかけて千島海溝が存在しているが、この海溝では太平洋プレートが北アメリカプレートの下に年間数cmの速度で沈み込んでいる。このため両プレートの境界で歪みが発生し、その歪みの開放により発生する逆断層型の海溝型地震である。
想定される十勝沖地震のマグニチュード(M)は8前後、発生間隔は約60 - 80年と見られている。これまで M8クラスの地震が1843年、1952年、2003年と繰り返し発生している。400 - 500年程度の間隔で根室沖地震と連動してきた可能性があり、2003年の十勝沖・1973年の根室沖の次の地震が連動した場合の規模はM8.3程度と推定されている[1](後述)。なお、1968年の地震は震源域が「三陸沖北部」に分類されるため、この周期に含まれない[2]。
また、十勝沖では17.5年周期でM7前後のひとまわり小さい海溝型地震や27.3年周期で沈み込むプレート内部で発生するM7-8程度のスラブ内地震(深発地震)も発生する[1]。
(3)被災史
文書に残る十勝地域の歴史地震は慶長年間の松前藩によるトカチ場所の設置及び、1666年(寛文6年)のビロウ場所の設置以降で、松前藩以前の道東地域に主に居住していたアイヌによる史料は残されていない[3]との研究があったが、2005年に髙清水康博による津波に関するアイヌの口碑伝説と記録に関する研究によれば、標高5m海岸からの距離15kmまでの地域に津波が襲った可能性ある話が成り立つアイヌ伝説は、鵡川町のムリエトへの丘伝説やウコト゜イの洞窟伝説、白糠町のキラコタン伝説、釧路市トイトウ(海抜10m海岸線3km)の津波伝説など、少なくとも20の口承伝説について成立し実際の津波被災体験に基く伝説が継承されていた可能性あった。またそれらの伝説が語られた地域は釧路海岸と日高から胆振海岸および内浦湾沿岸に多いなどの地理的分布上の特徴があった。釧路の津波伝説については春採湖の地質研究により少なくとも過去9000年間に20層の津波イベント堆積物の報告がありアイヌの人々が津波を経験していた可能性がある[4]。
(4)17世紀型地震
十勝沖の領域を含む千島海溝南部では、沿岸の津波堆積物や長期的な地殻変動から、数百年間隔でMw 9前後の超巨大地震が発生していると推定されている。この超巨大地震の最新活動時期は17世紀初頭と推定されていることから、地震調査研究推進本部 (2017年)[5]はこの地震・津波イベントを17世紀型の地震とした。
調査開始初期は、津波堆積物の堆積間隔や地殻変動から活動間隔は300年から600年とされており、2005年には中央防災会議がその平均から「500年間隔地震」と命名し、対策を始めた[6]。しかし、精度の高い年代測定を実施した結果、津波堆積物の堆積間隔は平均500年間隔ではなく、100年から800年程度の非周期的なバラツキがあり、平均発生間隔は400年程度と求められた[7]。
17世紀型地震による津波(痕跡)分布を説明できる断層モデルはMw 8.5[8]または8.6[9]、慶長三陸地震津波と17世紀地震津波が同一であった場合はMw 8.9以上のプレート間地震が想定されている。
(5)痕跡の発見
北海道東部沿岸では、更新世後期に形成された海岸段丘が広く分布しおり、10万年スケールでは隆起する傾向にあると推定されている。しかし、平時は年間 1cm 近い速度で沈降しており、これまで歴史記録も含め、地震で隆起した事実はない。むしろ地震時にはわずかに沈降しており、余効変動での若干の隆起を除けば、ずっと沈み続けていることになる。この長期的スケールと短期的スケールの矛盾は超巨大地震による隆起イベントによって解消される可能性が指摘された[10][11]。その後に行った沿岸の堆積物調査で、後述の17世紀の津波堆積物と17 世紀の指標テフラを含む泥炭層との間に海成の粘土層が挟まれていることを発見し、それらの珪藻分析に基づいて、隆起が地震後数十年かけてゆっくりと生じたことを明らかにした。その隆起量は 1m 程度もしくはそれ以上と推定されている[12]。また同様のイベントが過去約2800年間に少なくとも6回生じていることも明らかになった[13][5]。
本地域の地殻変動の矛盾は、17 世紀の超巨大地震による余効変動で解消されるように見えるが、このタイプの地震の再来間隔が平均 400~500 年と仮定すると、年間 1cm の速度で沈降すれば、累積の沈降量は 4~5m にもなる。したがって 1m 程度の隆起では地震間の沈降分を回復し、更に段丘を高く持ち上げることはできない。そこで超巨大地震のサイクルの中で、余効変動終息後に始まる沈降は、最初はゆっくりで、次の地震が近づいてくると加速していくという考え方で矛盾を説明しようとするモデルも提唱されている[11][14][5]。
隆起の痕跡の発見と同時に、津波堆積物の発見も相次いだ[5]。北海道大学の平川一臣らのグループが北海道東部の太平洋沿岸で発見し、1998年に発表した[9]。また、平川は道南の森町の地層で、500年間隔地震によるものとみられる紀元前後以降3層の津波堆積物を発見した[15]。平川は震源域が十勝・根室沖だけでなく、三陸沖北部の青森沖まで達することがあった可能性を指摘した[16]。
2000年2月に釧路市春採湖で行ったボーリング調査では、過去9000年間に20回の津波イベントが記録されていた[17]。
17世紀の津波堆積物は、豊頃町の湧洞沼付近で海岸線から4.4km[18]、浜中町の霧多布湿原で海岸線から3km以上[19]まで分布しており、その他国後島から下北半島沿岸にかけて当イベントと思われる津波堆積物が発見されている[20][21]。実際の津波は津波堆積物よりも内陸まで遡上したと考えられている。
17世紀初頭に北海道東部で発生した津波と同一の津波堆積物の北限は、北方領土における分布が不明確であるため、南限についても、下北半島や三陸海岸で17世紀初頭の津波堆積物の分布が確認されているものの慶長三陸地震との区別が困難であるため不明確となっている[5]。
(6)発生歴
13世紀と17世紀の大規模な津波の痕跡が確認されているが、松前藩の入植より以前の文献記録がないため、暦年の特定までは至っていない。直近の連動は17世紀初頭とされている[21]。なお、直近の活動については1635年とする説[9]、1611年のこれまで慶長三陸地震とされてきた地震がこれに該当するという説がある一方、発見された津波痕跡が十勝沖地震のものではなく従来の推定より規模が大きい慶長三陸地震のものであるとする説[6]がある。
(7)次の発生時期
最新活動時期が1611年であるならば、既に400年を経過した状態であるため、モーメントマグニチュード (Mw) 8.5を越える地震がいつ発生してもおかしくない時期が来ていると考える研究者もいる[7]。
(8)三陸沖北部との連動
1952年十勝沖地震(Mw 8.1)の際に三陸沖北部で発生した1968年十勝沖地震(Mw 8.2)の破壊領域の南側での地震活動が活発化していた。従って、十勝沖(1952年十勝沖地震)と三陸沖北部領域(1968年十勝沖地震)が連動して活動をしていた場合、マグニチュード 9 クラスの地震が発生していた可能性があるとする研究がある[22]。
(9)前兆現象
地震像(本震および余震の起こり方)が似ている1952年と2003年の地震では、同じ様な前兆現象が発生していた。しかし、前兆現象として発生するとされている『プレスリップ』(前兆滑り)は、2003年の地震では検出できなかった[23]。
(10)源域の静穏化現象
1952年十勝沖地震の7年ほど前から震源域付近では小さな地震の頻度が低下する現象がおきていた。また2003年十勝沖地震の際も1990年以降同様の現象がおきていたことが研究者より指摘されていた[24]。太平洋戦争後からの記録によると、大地震発生の数年から十数年前に微小地震の回数が減る「第2種地震空白域」の形成が確認されており[25]、この間のすべり欠損により、大きなエネルギーが蓄積されていったと考えられている[26]。
(11)深発地震との関係
1952年と2003年の地震では M8 クラスの本震の発生に先立って、プレートのもぐり込み先を震源とする深発地震が増加していた[27]。
(12)誘発活動
1952年十勝沖地震の際は阿寒湖畔では鳴動を伴う群発地震が活発化し、1955年には雌阿寒岳ポンマチネシリ火口で小規模噴火が生じ1960年代半ばまで噴火活動が継続した[28][29]。また、2003年十勝沖地震の際は直後に樽前山での火山活動が活発化した[30]ほか十勝岳、雌阿寒岳、屈斜路カルデラに至る火山フロント[31]での群発地震活動が活発化した[32]。