自費出版というのが流行で、色んなものが出されているけれども、まっ、やっぱし自力でも世に出したいと思う気迫が籠っている書物が多く、早い話がマニアックであるなと思う訳です。
が、その自費ではなくて「慈悲」を語ってみようかと思う訳です。
いや、多分途中で尻滅裂の腰砕けになるのは解り切っているのでありますが、書くのはタダですから・・・暇つぶしです。
慈悲とはなにか? いつくしみ あわれみ いとおしみ はぐくむ こころ・・・では国語辞典になってしまう訳で、仏教の慈悲は仏の心なのであります。
大慈悲というのでありますが、それこそが仏の心なのであると、色んな本に書かれている訳です。
が、しかし、大慈悲とは仏の心なのか、ああそうかと納得できる人は幸いでありますが、凡夫には余計に何の事やら解らなくなっちまう訳です。
で、歎異抄には第四章に慈悲が出てくる訳です・・・いや、今ここを読んでいたんですが。
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり・・・と、言う事で、慈悲には二つの道がありますよ、と親鸞は言う訳です。
で、「聖道の慈悲というは ものを哀れみ愛しみ(かなしみ)育むなり。しかれども 思うがごとく助け遂ぐること 極めてありがたし」と言う事で、聖道の慈悲は容易じゃないぞ、凡夫にゃ無理なんで「浄土の慈悲というは 念仏して急ぎ仏になりて 大慈悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいうなり」と解いている訳です。
おっさん流の解釈では、お前ごとき凡夫が人に助けの手を差し伸べた所で最後まで面倒見切れないんだから止めておけ、と・・・聖になる道はままならないから無理だろうな、と。
しかし、それではお前自身の気持ちが助からないから、弥陀の本願にすがり念仏を唱えて浄土で悟りを開いて、それから大慈悲の力を借りて衆生を助けろ、と述べているなと思う訳です。
と、解ったような事を書いてみましたが、しかし、問題は、大慈悲の力を借りて衆生を助けるとはいったいどうすれば良いのか?であります。
いや、具体的に手を差し伸べて助けようとするならば聖道の再現に陥るのは明らかで、んじゃぁどうすれば良いのか?・・・ここが肝じゃないかと思う訳です。
で、歎異抄の解説書から答えを導くと必然的に「念仏もうせよ」そうすれば弥陀が助けてくれるんだから、念仏するように勧めろよな、と言う事になるんじゃないかと思う訳です。
まっ、アレです・・・回りくどく述べましたが、聖道は自力の道で念仏は他力の道と、どの章の答えとも一致する訳なのでありますが、しかし、ここはへそ曲がりの凡夫らしく一捻りしてみる訳です。
まず、おっさんのような凡夫は助ける側なのか助けられる側なのか?であります。
で、聖道を目指す慈悲はあきらかに助けようとする側の存在であると思うのであります。
が、念仏を唱えて他力にすがって浄土に行こうという凡夫は弱者であります・・・助けてもらいたい筆頭であると思う訳です。
と、考えると、慈悲に聖道と念仏があると言うのは入り口からして次元が違うんじゃないかと思うのでありますが・・・大きく勘違いしてますか?
で、助けると言うのがまた聖道と念仏の道では意味が違うと思う訳です。
聖道の助けとは、互いに仏への道を手を取り合って助け合いながら行こうという類いのものであれば念仏の道と行き先が一緒なんで良いんですけれども、おっさんの解釈ではそうではないと思う訳です。
巷の衆生の現実的な苦しみに対しての助けを語っているとおっさんには読めるので、それだと念仏して助かる道とは違く無いか?と思った訳ですが・・・浅はかですか?
と、言う事で結論なんでありますが・・・人を救うなんて大それた事は出来ないので、知らんぷりしていた方が身の為だな、と言う所へ落ち着く訳であります。
しかし、それだと良心が少し痛み後ろめたいので、たまに余裕の範囲で人助けの真似事などして見たりして自分を慰め助けるという事で・・・自力の真似事と念仏の合わせ技が現実的なんじゃないのか? なぁーんてね・・・。
いや、100万円の金の観音様を毎日眺めているととても気持ちが落ち着くし、現世の利益などとるに足らないものであるな、早くお浄土で仏様に会いたいなと思う訳です。
そうでも思わないと支払日が近づくにつれ気持ち的に憂鬱の極みな訳で滅入っちまいます。
が、その自費ではなくて「慈悲」を語ってみようかと思う訳です。
いや、多分途中で尻滅裂の腰砕けになるのは解り切っているのでありますが、書くのはタダですから・・・暇つぶしです。
慈悲とはなにか? いつくしみ あわれみ いとおしみ はぐくむ こころ・・・では国語辞典になってしまう訳で、仏教の慈悲は仏の心なのであります。
大慈悲というのでありますが、それこそが仏の心なのであると、色んな本に書かれている訳です。
が、しかし、大慈悲とは仏の心なのか、ああそうかと納得できる人は幸いでありますが、凡夫には余計に何の事やら解らなくなっちまう訳です。
で、歎異抄には第四章に慈悲が出てくる訳です・・・いや、今ここを読んでいたんですが。
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり・・・と、言う事で、慈悲には二つの道がありますよ、と親鸞は言う訳です。
で、「聖道の慈悲というは ものを哀れみ愛しみ(かなしみ)育むなり。しかれども 思うがごとく助け遂ぐること 極めてありがたし」と言う事で、聖道の慈悲は容易じゃないぞ、凡夫にゃ無理なんで「浄土の慈悲というは 念仏して急ぎ仏になりて 大慈悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいうなり」と解いている訳です。
おっさん流の解釈では、お前ごとき凡夫が人に助けの手を差し伸べた所で最後まで面倒見切れないんだから止めておけ、と・・・聖になる道はままならないから無理だろうな、と。
しかし、それではお前自身の気持ちが助からないから、弥陀の本願にすがり念仏を唱えて浄土で悟りを開いて、それから大慈悲の力を借りて衆生を助けろ、と述べているなと思う訳です。
と、解ったような事を書いてみましたが、しかし、問題は、大慈悲の力を借りて衆生を助けるとはいったいどうすれば良いのか?であります。
いや、具体的に手を差し伸べて助けようとするならば聖道の再現に陥るのは明らかで、んじゃぁどうすれば良いのか?・・・ここが肝じゃないかと思う訳です。
で、歎異抄の解説書から答えを導くと必然的に「念仏もうせよ」そうすれば弥陀が助けてくれるんだから、念仏するように勧めろよな、と言う事になるんじゃないかと思う訳です。
まっ、アレです・・・回りくどく述べましたが、聖道は自力の道で念仏は他力の道と、どの章の答えとも一致する訳なのでありますが、しかし、ここはへそ曲がりの凡夫らしく一捻りしてみる訳です。
まず、おっさんのような凡夫は助ける側なのか助けられる側なのか?であります。
で、聖道を目指す慈悲はあきらかに助けようとする側の存在であると思うのであります。
が、念仏を唱えて他力にすがって浄土に行こうという凡夫は弱者であります・・・助けてもらいたい筆頭であると思う訳です。
と、考えると、慈悲に聖道と念仏があると言うのは入り口からして次元が違うんじゃないかと思うのでありますが・・・大きく勘違いしてますか?
で、助けると言うのがまた聖道と念仏の道では意味が違うと思う訳です。
聖道の助けとは、互いに仏への道を手を取り合って助け合いながら行こうという類いのものであれば念仏の道と行き先が一緒なんで良いんですけれども、おっさんの解釈ではそうではないと思う訳です。
巷の衆生の現実的な苦しみに対しての助けを語っているとおっさんには読めるので、それだと念仏して助かる道とは違く無いか?と思った訳ですが・・・浅はかですか?
と、言う事で結論なんでありますが・・・人を救うなんて大それた事は出来ないので、知らんぷりしていた方が身の為だな、と言う所へ落ち着く訳であります。
しかし、それだと良心が少し痛み後ろめたいので、たまに余裕の範囲で人助けの真似事などして見たりして自分を慰め助けるという事で・・・自力の真似事と念仏の合わせ技が現実的なんじゃないのか? なぁーんてね・・・。
いや、100万円の金の観音様を毎日眺めているととても気持ちが落ち着くし、現世の利益などとるに足らないものであるな、早くお浄土で仏様に会いたいなと思う訳です。
そうでも思わないと支払日が近づくにつれ気持ち的に憂鬱の極みな訳で滅入っちまいます。