だいぶ前・・・そう、たぶん10年くらい前・・・いや、5~6年前かも・・・必死で「生きるってナンダ?」みたいな事を考えていた。
考えていたと言う事は、過去形か? うん・・・今はもう考えていない・・・考えても仕方が無いと言うよりも、生きるってどう言う事なのか・・・まっ、自分の生きるしか分からないけれども、大体つかめた気がしてきて、納得し掛かっている・・・まだ全面的ではない部分が有るけど。
で、生きるってナンダ? とか、明日への不安って、事自分に関しては、要するに見栄と言うか、社会的価値観・・・簡単に言うと勝ち組とか、負け組とか言う価値観かな? そう言うのに捉われていた感じで、それの具体的な事って、仕事を上手くやって良い給料貰って、家族養って、隣の家より1ミリでも大きな車を買って、とか・・・物だよね。
と、言う事で、自分の事を考えれば、生きるって、どうやって生計を立てて行くか・・・それだったんだね。
会社に勤めている頃、色んな事で悩んだ訳だけれども・・・例えば人間関係とか、転勤命令とか、売り上げノルマとか・・・これで悩むのって、結局は会社の事で悩んでいるようで居て、その実は、どうやって飯を食って行くか? なんだよね。
会社のアレコレが嫌で堪らなくて、辞めたぁ~って言いたいけれども、それやっちまったら明日からドーするの?で、結局全てを飲み込まざるを得ない。
生き方って・・・飯の喰い方・餌の取り方・金の稼ぎ方・・・とどのつまりはここだよな、と、思うんだ。
で、アレ・・・どっかで習ったんだけれども、マズローの欲求段階説の最後・・・自己実現って言うの・・・アレも、自分の中では分かった・・・掴んだ。
アレは・・・飯を食うのに困らなくなってはじめて言えると思うんだけれども、それは、社会の要求に合致した生き方をする、と言う事なんだろうな、と、思った。
要するに、社会が評価をしてくれる方向と、自分の生き方(飯の喰い方)が、噛み合った時に感じる一種の幸福感なんだろうな、と・・・だから、反社会的な仕事や生き方では自己実現と言うのは無いんじゃないかな?
そもそも自己ってナンなんだと言うのを最初に定義できなければその先きは無いと思うんだけれども・・・そこん所、けっこう皆して曖昧だよね。
自己って・・・俺ってこうですって人に説明する表向きの自己と、自分だけしか知らないと言うか、誰にも見せない自己って有るんじゃないかな?
で、人に簡単に見せる自己・・・対外的な自己と言うのは、なんとなく、他人の評価と言うか、受けを予想した自己で、有るべき姿だったり、有ってほしい姿だったり、まっ、評価対象の自己とでも言いますか。
で、人には見せない、見られたくない自己は・・・それは、社会的に評価が低いと分かっている自己・・・ナンだけれども、どうしようもなくて、制御していないと拙い自己。
と、言う事で、見せたい自己と隠したい自己が居ると思うんだけれども、それって、結局はどっちも社会的な評価と言うか・・・他人がどう思うかに会わせた自己・・・要するに作り物。
で、自分の場合は、生きるってナンダを考える自己は、社会に適応したくないのに、自己は社会に適応する事意外では存在しないと言う事も知っているんで悩んだんだね。
社会から飯の種を拾い集めるには適応しないと不可能だから・・・自分の中で矛盾と戦うんだなぁ。
で、まぁ、生きる事に悩まなくなった訳だけれども、それは、歳を食って、社会がこっちを見なくなったと言うか、または、社会を見ても相手にしてもらえない歳になったからじゃないかと思うんだけど。
例えば・・・58歳のおっさんが仕事口を探しに巷を駆けずり回ったとしても、中学も満足に出ていない、ろくな資格も持っていない、前職は零細の自営業で特別な技も無い・・・これだと見つかる仕事が想像できる訳です・・・いや、職種的にじゃなくて、貰える賃金ですね。
社会の評価はほとんどの場合は「金」に置き換えられると思うんだけれども・・・金が稼げない人間だと自覚したときから、ああ、社会との縁が薄れたんだなぁ~と、思った訳です。
で、それは寂しいとか、情けないなぁ~なんて思いよりも、年齢的に社会から三行半を出され、解放されちまったのだな、と、思った訳です。
そーかぁ~この先は真っ当な汚い年寄りになれば宵だけなのか、と、自分の行く先が明確に見えた訳です・・・そーです・・・見栄から解放されたと言いますか、貧乏をしていても恥ずかしくない・・・今更の努力などは愚の骨頂・・・今までダメだったのにこれから良いはずは無い・・・努力は無駄・・・有るとすれば棚から牡丹餅的運だけ・・・そう思と気が楽になりまして、自分の人生って、喰って行く事そのものだったんだなぁ~・・・と、言う事で・・・狙った方向と全然違う方に言っちまいました。
ホントは・・・寒いアラスカで100万円持っていても売っている店が無ければコートも買えない・・・金って、その程度の物なんだよね・・・それに縛られて来たのが今までだった、と・・・で、これから貧乏になる予定なんだけれども、貧乏しても困るのは女房と二人だけで、納得ずくなんで、貧乏を楽しく生きられそうで、何となく楽しみ・・・みたいな方へ行こうとしたんですけれども・・・やっぱし、下書きとか必要なんだろうなぁ~推敲とかも。
でも、まあ、変でも何でも・・・そう言う事ですからぁ~・・・。
考えていたと言う事は、過去形か? うん・・・今はもう考えていない・・・考えても仕方が無いと言うよりも、生きるってどう言う事なのか・・・まっ、自分の生きるしか分からないけれども、大体つかめた気がしてきて、納得し掛かっている・・・まだ全面的ではない部分が有るけど。
で、生きるってナンダ? とか、明日への不安って、事自分に関しては、要するに見栄と言うか、社会的価値観・・・簡単に言うと勝ち組とか、負け組とか言う価値観かな? そう言うのに捉われていた感じで、それの具体的な事って、仕事を上手くやって良い給料貰って、家族養って、隣の家より1ミリでも大きな車を買って、とか・・・物だよね。
と、言う事で、自分の事を考えれば、生きるって、どうやって生計を立てて行くか・・・それだったんだね。
会社に勤めている頃、色んな事で悩んだ訳だけれども・・・例えば人間関係とか、転勤命令とか、売り上げノルマとか・・・これで悩むのって、結局は会社の事で悩んでいるようで居て、その実は、どうやって飯を食って行くか? なんだよね。
会社のアレコレが嫌で堪らなくて、辞めたぁ~って言いたいけれども、それやっちまったら明日からドーするの?で、結局全てを飲み込まざるを得ない。
生き方って・・・飯の喰い方・餌の取り方・金の稼ぎ方・・・とどのつまりはここだよな、と、思うんだ。
で、アレ・・・どっかで習ったんだけれども、マズローの欲求段階説の最後・・・自己実現って言うの・・・アレも、自分の中では分かった・・・掴んだ。
アレは・・・飯を食うのに困らなくなってはじめて言えると思うんだけれども、それは、社会の要求に合致した生き方をする、と言う事なんだろうな、と、思った。
要するに、社会が評価をしてくれる方向と、自分の生き方(飯の喰い方)が、噛み合った時に感じる一種の幸福感なんだろうな、と・・・だから、反社会的な仕事や生き方では自己実現と言うのは無いんじゃないかな?
そもそも自己ってナンなんだと言うのを最初に定義できなければその先きは無いと思うんだけれども・・・そこん所、けっこう皆して曖昧だよね。
自己って・・・俺ってこうですって人に説明する表向きの自己と、自分だけしか知らないと言うか、誰にも見せない自己って有るんじゃないかな?
で、人に簡単に見せる自己・・・対外的な自己と言うのは、なんとなく、他人の評価と言うか、受けを予想した自己で、有るべき姿だったり、有ってほしい姿だったり、まっ、評価対象の自己とでも言いますか。
で、人には見せない、見られたくない自己は・・・それは、社会的に評価が低いと分かっている自己・・・ナンだけれども、どうしようもなくて、制御していないと拙い自己。
と、言う事で、見せたい自己と隠したい自己が居ると思うんだけれども、それって、結局はどっちも社会的な評価と言うか・・・他人がどう思うかに会わせた自己・・・要するに作り物。
で、自分の場合は、生きるってナンダを考える自己は、社会に適応したくないのに、自己は社会に適応する事意外では存在しないと言う事も知っているんで悩んだんだね。
社会から飯の種を拾い集めるには適応しないと不可能だから・・・自分の中で矛盾と戦うんだなぁ。
で、まぁ、生きる事に悩まなくなった訳だけれども、それは、歳を食って、社会がこっちを見なくなったと言うか、または、社会を見ても相手にしてもらえない歳になったからじゃないかと思うんだけど。
例えば・・・58歳のおっさんが仕事口を探しに巷を駆けずり回ったとしても、中学も満足に出ていない、ろくな資格も持っていない、前職は零細の自営業で特別な技も無い・・・これだと見つかる仕事が想像できる訳です・・・いや、職種的にじゃなくて、貰える賃金ですね。
社会の評価はほとんどの場合は「金」に置き換えられると思うんだけれども・・・金が稼げない人間だと自覚したときから、ああ、社会との縁が薄れたんだなぁ~と、思った訳です。
で、それは寂しいとか、情けないなぁ~なんて思いよりも、年齢的に社会から三行半を出され、解放されちまったのだな、と、思った訳です。
そーかぁ~この先は真っ当な汚い年寄りになれば宵だけなのか、と、自分の行く先が明確に見えた訳です・・・そーです・・・見栄から解放されたと言いますか、貧乏をしていても恥ずかしくない・・・今更の努力などは愚の骨頂・・・今までダメだったのにこれから良いはずは無い・・・努力は無駄・・・有るとすれば棚から牡丹餅的運だけ・・・そう思と気が楽になりまして、自分の人生って、喰って行く事そのものだったんだなぁ~・・・と、言う事で・・・狙った方向と全然違う方に言っちまいました。
ホントは・・・寒いアラスカで100万円持っていても売っている店が無ければコートも買えない・・・金って、その程度の物なんだよね・・・それに縛られて来たのが今までだった、と・・・で、これから貧乏になる予定なんだけれども、貧乏しても困るのは女房と二人だけで、納得ずくなんで、貧乏を楽しく生きられそうで、何となく楽しみ・・・みたいな方へ行こうとしたんですけれども・・・やっぱし、下書きとか必要なんだろうなぁ~推敲とかも。
でも、まあ、変でも何でも・・・そう言う事ですからぁ~・・・。