都市環境デザイン会議のシンポジウムを拝聴のため、信州上田、別所温泉を訪れました。
会場は何と木造4階!建て、柏屋別荘。
別荘が開業したのは明治43年(1910)。この木造4階建ての本館は昭和2年(1927)築です。有島武郎や川端康成も宿泊して執筆をしたという由緒ある旅館です。下の写真はお隣から撮影しましたが、素檗庵(そばくあん)というこの旅館で最も古い建物。文化6年(1806)年の建物です。旅館全体が立派な文化財です。
中は増築や改築が繰り返され大変複雑です。しかし、それ故に、旅館独特の奥に入り込んでいく感覚も十分堪能できます。槇文彦氏が言う建築の中で奥に分け入る体験です。子供のころは、旅館を探検するのが大好きでした。小説にも、ふすまを開けて次の部屋に行くとさらに次ぎの部屋があり、永遠に出られなくなる‥というのがありました。一人だと迷ってしまいそうな複雑さが、面白い「旅館体験」をさせてくれます。
下の写真は、本館4階からの眺め。右手に眺めることのできる、不思議なお城のような建物も見学させてもらいました。
この建物は、大正9年にできた蚕室。蚕種業のために蚕を育てるための建物です。構造としては塗屋ということになるのでしょうか。立派な石垣の上に載っています。蚕種の製造では上田は日本の中でもトップシェアを誇っていたそうです。
案内してくださったボランティアの方。ダジャレを言うたびに自分で照れていました。後ろに見えるようにこの建物を建てたのは倉澤運平(1866-1934)。上田の蚕種産業の中心を担った方だそうです。
この建物の地下には、建物内に暖気を送るための炉があります。今は練炭が置いてありますが、薪をくべていたかもしれません。ここから煙道を通り上階へ、暖かい空気が登ります。
漆喰で仕上げられた縦ダクトに木製の横ダクトが接続しています。
下写真のように廊下(縁)から室内に床下で導かれます。
蚕がいる1,2階では床に導かれます。今でいうダンパーも付いています。木製、手動ダンパーです。
私たちも床下(スラブ下やスラブ上で床仕上げとの間のスペース)を冷暖房の空気の通り道として使いますが、倉澤さんはこの時から、この方式をお使いだったんですね。また下写真のように、部屋の中でも空気の流通をコントロールできるような仕掛けをしていました。山を背負った地形ですので、夏でも涼しい風が入ってきたと想像できます。
天井からも暖気を抜いたりできるようになっています。からくり屋敷のようです。
建物としての小屋組みも立派です。
棟札もあります。
地下は暖房装置の部屋だけでなく、貯桑庫もあります。
今も、お孫さん(お医者さん)がこの建物をきちんと守っておられます。
19世紀半ば蚕の病気により、ヨーロッパの蚕糸業が大打撃を受け、日本中で蚕種業が盛んになったそうです。日本中が、蚕で活気づいていた時代があったのでしょう。説明をしてくれたダジャレ好きのボランティアの方は、生糸産業で外貨をえて、兵器を買うことができた、その結果が第2次世界大戦に至るのだと説明してくれました。蚕は、幕末から昭和までの日本の歴史を語ってくれる大切なファクターであるのです。
高谷時彦
建築・都市デザイン
Tokihiko TAKATANI
architecture/urban design