高校の同窓で建築通のOさんに誘われて、初めての港区郷土歴史館探訪。
外観を見ると、本郷の東大図書館を思い出します。エントランスのアーチの連続、縦方向の線状装飾、スクラッチタイル、シンメトリーで前に噴水を置く配置・・。
設計はどちらも内田祥三先生。この建物は1938年にできた国立公衆衛生院の建物です。
中に入ると、階段室は2層毎の吹き抜けになっています。床は大理石、結構豪華な感じです。
階段部分は6層分吹き抜けです。ちょっと表現主義的な、やさしさ、流麗な印象もあります。
平面的には大きな両翼を持ちます。片方には300人以上入る講堂があります。
壁は真壁的な雰囲気もあり、格天井と相まって少し和のテイストも感じられます。
講堂の下の方には博物館的なゾーンもありました。何と、狸に初めて触りました。もちろんはく製です。
少しゴワゴワしていると思いきや、猫と変わらない、やわらかい毛並みでした。
フクロウにも触らさせてもらいました。
かわいく振り返ってくれました。
さて建築の話に戻ります。
こんな豪華な内田ゴシック建築が、1938年という年にできているんです。しかも、アメリカのロックフェラー財団の寄付(関東大震災からの復興支援)でつくられたというのも驚きです。
1931年には満州事変、1937年には日華事変、すなわち中国との戦争が始まっています。
1931年の満州事変の年に、「帝室博物館」のコンペが行われ、「帝冠様式」の渡辺仁が当選しています。前川圀男がコルビジェ風の案を出してその風潮を批判したことで、当時は国内で日本的な建築を求める嵐が吹き荒れていたというイメージをもっていました。帝冠様式≒日本ファシズムの意向という図式です。
しかし、藤森先生や井上章一氏(1995『戦時下日本の建築家 アートキッチュ・ジャパネスク』朝日選書)によると事実とは異なるそうです。このことを最初に指摘したのが稲垣栄三先生(日本建築史の授業ではお世話になりました)。同時代にこういうゴシック的な建築が建っていたんですね。昨日、ブラタモリ(テレビ番組、ビデオを見ました)の中でタモリが戦前の日本軍はこういう(表現主義的あるいは古典様式を残したアールデコ的な)建物が好きですよね‥というコメントをしていましたが、決して日本風を軍あるいは軍国主義が強要していたわけではないことが分かります。ちなみに1937年竣工の大阪軍人会館はまさにバウハウス風のモダニズム建築です。
建築的な位置づけは置くとしても、いい建物です。お金をかけて思う存分建築家が腕を振るった、という印象です。
高谷時彦
建築・都市デザイン
Tokihiko TAKATANI
architecture/urban design
設計計画高谷時彦事務所