場所/ひとから考える
私たち建築・都市デザインに関わるものは、対象となる敷地・場所のコンテクスト(文脈)を読みその潜在的可能性を引き出すような提案を心がけます。この姿勢は、基本的には周りの状況に表層的にとらわれるのではなく、歴史や空間構成の原理を読み込み、よりその場所のもつ本来の性格にふさわしいものをつくろうとするものです。
しかし、場所からモノのありようを導き出そうとすれば、その場所の経済的なポテンシャルを最大限にするといった発想とある意味ではつながる部分があります。先日の再開発の話でいうと場所から導かれる経済合理性で空間を再編成しようという態度です。
そこで考えないといけないのは、その場所に関わってきた人という視点です。その場所の空間の履歴(桑子敏雄先生の言葉です)にはそこに関わってきた人の営為、いとなみも含まれます。あるいは、空間の履歴を背負った人の存在(すなわち人・空間の入れ子構造)を抜きにしては、空間の持っている可能性を語れないともいえます。
ここに、人の経験の場として空間・場所をとらえる都市デザイン的な方法論の必要性があります。別のところにも書きましたが、藤沢周平氏が珍しく鶴岡に建設される高速道路のことで反対論を述べられていました。その高速道路は、場所の可能性や潜在力を生かすという発想からは正しい位置に建設されていたに違いありません。しかし、その場所に生身の身体を持って関わってきた、あるいは関わっている人間から見るととんでもない誤った選択であったということを氏は申し立てているのです。
私の恩師である大谷幸夫先生は建築家は空間・機能・主体という三側面から設計や計画の問題を捉えないといけないとおっしゃっていました。当然そうだと判ったような気になっていましたが、大変重い課題を私たちに提示されていたのだということにいまさらながら思い当たります。
高谷時彦記 Tokihiko Takatani
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