まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

機能主義都市計画(CITY PLANNING)02

2010-06-05 16:43:00 | 講義・レクチャー Lecture

 

 

 

4.ジェイコブスの批判

 

近代都市計画、機能主義都市計画を方法論的に分析し、物事を単純化せざるを得ない宿命的な欠陥が、CIAMなどが提唱する機能分離を生み出したと批判したのが、「都市はツリーではない」という論文です。同様な視点を持ちつつも、近代都市計画の方法を具体の成果を検証することを通じて、その方法にまで到達する批判を展開したのが『アメリカ大都市の死と生』です。

 

 

ジェイコブスの扱う大きなテーマは機能純化です。これは、専門家による計画が物事を単純化しないといけないというアレクサンダーの批判と連動していますし、またアレクサンダーもセミラティス構造に不可欠のオーバーラップのない分裂dissociationとして機能分離とゾーニングの問題をすでに批判しています。

 

 

前回のニューアーバニズムの講義の中で純粋培養の郊外の家族像の話をしました。サラリーマンの夫は車で都心に通う。聡明な母は専業主婦。清潔な台所とおいしい料理。車でスーパーマーケットに買い物。子供たちはいろいろ問題を起こすが家族の見守りの中で解決。都市にあるような怪しげな界隈に出入りすることもなく子育てのための純粋な環境が作られているわけです。こういう家族像、郊外像、そういうものに対応したのが近代都市計画であるともいえます。その理想の郊外が今大きな問題となろうとしていることは前回議論しました。

 

近年都市の面白さとして路地などが評価されています。また東京の街でも下北沢のような雑駁なまちに人気があります。これは建築でも同じです。ピュアリズム、純粋な形態、機能に対応した理由のある形、あいまいなものの排除、きれいなもの=新しいもの、常に新しくしていけるシステムたとえばメタボリズムなどという近代主義的なものに変わる価値が求められています。

 

 

これらの多少のやい雑さも含めた中に都市の魅力もひいては活力もあるとしたのがジェインジェイコブスです。

 

ジェイコブスは本の最初に現在の都市計画野菜開発に対する挑戦をすると明記しています。今までの原理にまったく反対のことを提示するということです。

 

 彼女の議論は具体的です。計画家というものは金さえあれば都市の中で次のことを解決するというが字際には正反対の結果を生んでいることを指摘します。

 

 

 

1.10年でスラムを解決。

 

2.郊外のblight化をストップ

 

3.中産階級をまちに引き止める

 

4.交通問題の解決

 

 

実際には次のようになってしまっている。

 

 

1.スラムクリアランス→スラムより悪いバンダリズム、社会的虚無

 

2.中所得そう向け住宅建設→組織の停滞

 

3.高所得者向け住宅建設→個人の贅沢よりはましな程度

 

4.商店街→郊外のチェーンストアのまね

 

5.自動車道建設→都市の侵犯

 

6.人口密度によるゾーニング→正札を貼られた民衆、敵対孤立する地区

 

7.人のための計画家→征服者の家来、住民の追い立て屋

 

 

それをNYモーニングサイト一帯の再開発の例を挙げて具体的に説明しています。そこではスラムを一掃し「太陽、空気、緑、景観」プラスSCを作りましたが、その後衰退してしまったということです。これだけ失敗の明白な事実があるのに原因究明をしない。あるいは交通問題を解決するために道路をつくるという発想しかない。本当は自動車の是非の議論が必要なのにもかかわらずということです。

 

 

彼女から見ると現代の都市計画というのは昔の瀉血治療と同じで本人の健康をどんどんなくさせるものです。ノースエンド(ボストン)をスラムだと思い込んだら、豊かな暮らしぶりが見えなくなってしまっています。建築科の学生にスラムの一掃の絵を書かせて喜んでいる有様です。この町は移民の町で過密を克服して高い密度の中で良好なコミュニティ、低い死亡率を実現していることが実証されているにもかかわらずスラムと思い込んでいるわけです。

 

 

本当の都市計画の科学・都市デザインの技術をつくる必要をジェイコブスは訴えます。

 

ただし次のものに頼ったらだめだそうです。

 

・ハワードの田園都市→都市から逃げて田舎で低密に暮らすだけ。

 

・コルビジェの「輝く都市」→都市を田舎にするだけ。

 

・シティビューティフル、シティモニュメンタルの運動→リンカーンスクエアを作るだけ。

 

 

といったことを前提に、ジェーコブスはⅠ都市の特性の分析から本論をはじめます。彼女は歩道の持つ重要性をいろんな側面から指摘します。

 

 

まず安全な歩道について述べます。

 

都市は知らない人たちと接触する場ですから安全性が必要ですが、多くの人がいるから危険という通俗的な指摘は間違いでそのよい例がロスアンゼルスです。安全のためには歩道が多くの人に見られていることや常に使われていることが必要です。そのためにバーやレストランがあって人が集まる、その雰囲気がある。商店主がパブリックな役割を果たしていることが必要です。安全な歩道というものはゲイティッドコミュニティにもコルビジェの輝く都市にもないものなのです。

 

さらに歩道の役割として人と人の接触をあげます。

 

住み心地のよい家や休憩所があれば歩道に出ることはないだろうというのは大間違いです。歩道でのパブリックライフやインフォーマルな公共生活が重要なのです。都市生活を単純化して「他人と多くを分かち合うか、孤独か」と考えてはいけなくて、中間の関係性があること、そしてそれがあるのが都市であるととらえています。

 

また子供の場所としての歩道の重要性も強調されます。

 

都市計画家は計画された公園で子供を遊ばせたがります。この指摘はアレクサンダーとまったく同じです。都市計画家は街路を目の敵にして「健康な環境に囲まれ、子供たちの笑顔にみちた清潔で幸福な場所=芝生の公園」と思っています。実際にはそこはいじめの場所になっているのです。子供たちは大人の目の届く街路で遊んだほうが安全だし面白いことを知っているのです。

 

 

次に近隣公園の計画方法も近代都市計画は間違っていることを指摘します。

 

近隣公園も子供の遊び場と同じです。都市計画では近隣公園は重要なオープンスペースであり、都市の肺、不動産価値を上げるものと考えています。しかし「輝く都市」の公園だけでは逆効果を生んでいるのです。

 

生きている公園というのは

 

 

・複雑さ

 

・中心がある

 

・太陽の明るさ

 

・適当な囲い

 

 

ということでコルビジェの考えたものとは大いに違うものなのです。

 

 

近代都市計画の中心理論である近隣住区の考えも間違いであることを指摘しています。

 

この項目もアレクサンダーと共通するものがあります。ひとつの小学校区に対応してショッピングとコミュニティセンターのある7000人のまとまりが重要と教えているのは大間違いなのです。そんな単位は実態とは無縁です。意味のある単位は都市全体、街路をはさむ近隣など。線が引けるようなユニットはない。生活のアクティビティや社会ネットワークに着目すべきです。

 

 

ここで前半を終え、Ⅱにおいては都市の多様性の条件を力説します。

 

 

まずここではこの項目は非常に有名な次の4原則がかかれています。

 

 

・用途の混在

 

・小さなブロック(パーミアビリティということでしょうか)

 

・古い建物があること

 

・ある程度高い居住密度

 

 

用途混合の例としては、アレクサンダーと同じくリンカーンセンターへ施設を集めてしまったことは失敗だったと指摘しています。仕事画や住宅地の中にあったからよかったし、周りに波及効果もあったのです。

 

 

これに各項目の説明が続きます。まず、小規模ブロックにすることで、さまざまな人がさまざまな時間に街路を利用するようになります。「輝く都市」のような通過するだけの道はだめなのです。

 

 また古い建物があることで、安く起業できる。まちは孵化器となります。さらに古い建物には時間でしか作れない価値があることも述べられます。

 

密度の高さの必要性は強調されますが、足元に広場を持つ高層建物は、高密度とは相容れないもの、多様性を否定するものとして否定されます。高密の健全なコミュニティをイメージしているのです。

 

 

最後に多様性について、混雑とはまったく違うこと、単調さや均質化ではなく差異が必要であり、そこから豊かさが生まれることを強調します。多様なものがあるから歩いて行き来する必要も生まれるのです。

 

 

 ジェイコブスの主張は現代においてはほとんど首肯されていますし、以前見たようにクリエイティブシティの議論にも通ずる内容を持っています。ジェイコブスにしてもアレクサンダーにしても大変な先見性を持っていたといわざるを得ません。

 

 

 

5.近代都市計画の時代をおえたこと

 

アレクサンダーやジェイコブスのすごさは、都市がまだ拡大成長していた時代に、それにもっとも呼応していたといえる近代都市計画の根本原理を批判しているということです。その後時代は変わり、近代都市計画を成立せしめていた要因が変わってしまっています。新都市の建設(ブラジリア)も東京計画も不要の時代になっています。ツリー構造の近隣住区都市を新たに建設する時代でもありません。都市化を終えた現代社会の都市計画は、むしろ多くの識者の言う「編集」の時代になっているのでしょう。

 

そういった意味では機能主義都市計画、近代都市計画(そこでは建築家の役割が大きかった)は少なくとも先進諸国では主役の座を降りているようにも思えます。

 

また環境に配慮するという視点からも、機能純化されたゾーンとそれをつなぐ交通という発想は、環境エネルギーの増大が指摘されます。居住と仕事場が混在したほうがエネルギー効率はよいでしょう。また機能主義都市計画をデザインの面から支えていたインターナショナルスタイルの背後にあった世界中どこでも同じ品質の工場製品に対する信仰、崇拝も今はそれほど大きくはないのかもしれません。それよりもむしろ地域性、独自性の産品がもてはやされる時代です。また地域の産品を地域で生かしたほうがエネルギーの問題や地域らしさの問題が解決するということもあるでしょう。

 

 成熟の時代を迎え、「輝く都市」からイメージされる清澄で明晰、論理的なものだけでなく、赤ちょうちんの路地裏が評価され、歴史をきちんと背負った意味性に富、奥行きのある都市空間が評価されるようになった今、近代都市計画をきちんと総括しておく必要がありそうです。

 

 

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高谷時彦記 Tokihiko Takatani


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