緑陰道路
身近な区民の遊歩道
市民と一体で、親しまれている緑陰道路、朝夕の、自然の中での散歩、
ジョギング、自然がいっぱいの、調和のとれた散策と、利便を兼ねた
自転車専用道路が、一体になった、このような自然につながる、
やすらぎのとれた、憩いの散歩道は、そうどこでも、あるように思えないが、
今はこの緑陰道路が昔は、川であったと誰も思えない状況をかもしている、
そして、この緑の帯、遊歩道を挟んだ、数多くのマンション群は、調和のとれた
都会のオアシスでもあるように思える。今は緑道の四季それぞれを、
楽しませてくれる、遊歩道として市民に愛された道路となり、朝早く、
朝日の昇る前に歩いてみると、薄暗い中でも黙々と歩いている人、何となく
歩いている人、それぞれの人生を秘めての事だろう。
夏場になると、朝もしらけ始める6時半頃、どこからともなく遊歩道のある
場所に、ぞろぞろと、いつもの顔ぶれが集まり、ラジオ体操の時間である。
また緑道の中程には,将棋の好きな人、囲碁の好きな人が集まっての
団らんの場、この遊歩道の木々の上に誰が仕掛けたのか、多くの小鳥の
巣箱、花の植えられた小さな花園など、数えきれないほど、楽しみのある
遊歩道でもある。
この緑陰道路、春夏秋冬、自然がいっぱい、冬は朝早くから小鳥の鳴き声、
良くメジロが泣いている、いまわ獲れないが、子供のころを思い出す
「メジロ獲り」春のさくらの頃は、
素晴らしい「枝垂れ桜」の楽しめる場所、
染井から牡丹さくらが終わるまでの、見事なサクラ並木とちょうど、
大阪造幣局の通り抜けのさくら祭りに始まり、そして、緑陰道路の
数えきれない果実が、四季折々に実をつけ育っている「柿・山桃・かぼす・
銀杏・びわ・いちじく」など、この緑道に、実をつけると、心得たもので、
期を逸せず収穫される。
しかし最近驚いた、この緑陰に「メロンとスイカ」のある、小さな牧場を
見つけたのである。誰かが植えているのだろうが、歩くたびに目の保養を
させてもらっている。この畑を見ていた時、話しかけてきた婦人がいた、
何があるんですかと、メロンとスイカですと答えると、驚いておられた、
誰も取らなければいいのにねと、私はいつもここは歩いていたが、
気が付かなかったと、目の保養になっていいわと帰られたが、見つけた
人は、盗らずにじっくりと「メロン:スイカ」の育成ぶりを観賞して
もらいたいものだ。
大きくなるまで待ちましょう。取ってはだめですよ。
スイカ泥棒は、ご法度です。
この大野川遊歩道「緑陰道路」とは、
大阪市西淀川区には、全長3.8kmの緑の回廊「大野川緑陰道路」がある。
この道路は歩行者・自転車専用道のため車が通らず、通勤・通学のほか、
ランニングなどの健康づくりの場、子供たちの遊び場、自然観察などの
学習の場として、広く区民に愛されている、歩行者専用道路と自転車専用
道路に分離され、ほとんどの場所で自転車道2レーン、歩行者道2レーンの
計4レーンの構造になっている。
都会の真ん中にある、貴重な自然は区民の財産でもある。
地図等では大野川遊歩道の通称で表記され、また、この緑陰道路は、
住民の願いと歴史も携えている。
約400年前の江戸時代の農民が、わずか50日で掘りぬいたといわれた、
9.5kmの農業用水路であった中島大水道の一部が、現在の大野川緑陰道路と
言われ、かっては、大阪の水都と結ばれ、地域の舟運や治水など水運にも、
利用されてきた水路だが、戦後当時の高度経済成長下の1970年代には
この川も、工場群に囲まれ、工場排水と生活排水が流れこみ、悪臭をはなち、
この地を流れる川の汚濁が目立つようになり、経済成長と共に、当時、
この地域は公害問題による、大気汚染問題が深刻な社会問題になっていた。
この大野川を、厳しい地域の公害対策として、1968年3月に大阪市は、
この川を埋め立て跡地に、高速道路を建設する計画を発表した。
しかし、そこで立ちあがった、地域の住民は道路ではダメ、工場の煙や
車の排気ガスによる大気汚染公害に、苦しんでいた住民の猛反対により、
公害がさらに悪化すると、反対する住民運動の中で、住民らは、大野川を
埋め立てた跡地を、住民憩いの場として、緑地帯にするよう求めていた事を
受け、大阪市は、地域住民からの声を受けて、高速道路建設計画を白紙撤回し、
環境改善にもつながると、1971年から1972にかけて埋め立てられ
大野川緑陰道路が建設されることになった。
そして、住民がつくった、緑のうるおい空間として1979年に完成し
緑陰道路が生まれた。
この緑陰道路は、歴史も古く、今は西淀川のいこいの場でもある。
身近な区民の遊歩道
市民と一体で、親しまれている緑陰道路、朝夕の、自然の中での散歩、
ジョギング、自然がいっぱいの、調和のとれた散策と、利便を兼ねた
自転車専用道路が、一体になった、このような自然につながる、
やすらぎのとれた、憩いの散歩道は、そうどこでも、あるように思えないが、
今はこの緑陰道路が昔は、川であったと誰も思えない状況をかもしている、
そして、この緑の帯、遊歩道を挟んだ、数多くのマンション群は、調和のとれた
都会のオアシスでもあるように思える。今は緑道の四季それぞれを、
楽しませてくれる、遊歩道として市民に愛された道路となり、朝早く、
朝日の昇る前に歩いてみると、薄暗い中でも黙々と歩いている人、何となく
歩いている人、それぞれの人生を秘めての事だろう。
夏場になると、朝もしらけ始める6時半頃、どこからともなく遊歩道のある
場所に、ぞろぞろと、いつもの顔ぶれが集まり、ラジオ体操の時間である。
また緑道の中程には,将棋の好きな人、囲碁の好きな人が集まっての
団らんの場、この遊歩道の木々の上に誰が仕掛けたのか、多くの小鳥の
巣箱、花の植えられた小さな花園など、数えきれないほど、楽しみのある
遊歩道でもある。
この緑陰道路、春夏秋冬、自然がいっぱい、冬は朝早くから小鳥の鳴き声、
良くメジロが泣いている、いまわ獲れないが、子供のころを思い出す
「メジロ獲り」春のさくらの頃は、
素晴らしい「枝垂れ桜」の楽しめる場所、
染井から牡丹さくらが終わるまでの、見事なサクラ並木とちょうど、
大阪造幣局の通り抜けのさくら祭りに始まり、そして、緑陰道路の
数えきれない果実が、四季折々に実をつけ育っている「柿・山桃・かぼす・
銀杏・びわ・いちじく」など、この緑道に、実をつけると、心得たもので、
期を逸せず収穫される。
しかし最近驚いた、この緑陰に「メロンとスイカ」のある、小さな牧場を
見つけたのである。誰かが植えているのだろうが、歩くたびに目の保養を
させてもらっている。この畑を見ていた時、話しかけてきた婦人がいた、
何があるんですかと、メロンとスイカですと答えると、驚いておられた、
誰も取らなければいいのにねと、私はいつもここは歩いていたが、
気が付かなかったと、目の保養になっていいわと帰られたが、見つけた
人は、盗らずにじっくりと「メロン:スイカ」の育成ぶりを観賞して
もらいたいものだ。
大きくなるまで待ちましょう。取ってはだめですよ。
スイカ泥棒は、ご法度です。
この大野川遊歩道「緑陰道路」とは、
大阪市西淀川区には、全長3.8kmの緑の回廊「大野川緑陰道路」がある。
この道路は歩行者・自転車専用道のため車が通らず、通勤・通学のほか、
ランニングなどの健康づくりの場、子供たちの遊び場、自然観察などの
学習の場として、広く区民に愛されている、歩行者専用道路と自転車専用
道路に分離され、ほとんどの場所で自転車道2レーン、歩行者道2レーンの
計4レーンの構造になっている。
都会の真ん中にある、貴重な自然は区民の財産でもある。
地図等では大野川遊歩道の通称で表記され、また、この緑陰道路は、
住民の願いと歴史も携えている。
約400年前の江戸時代の農民が、わずか50日で掘りぬいたといわれた、
9.5kmの農業用水路であった中島大水道の一部が、現在の大野川緑陰道路と
言われ、かっては、大阪の水都と結ばれ、地域の舟運や治水など水運にも、
利用されてきた水路だが、戦後当時の高度経済成長下の1970年代には
この川も、工場群に囲まれ、工場排水と生活排水が流れこみ、悪臭をはなち、
この地を流れる川の汚濁が目立つようになり、経済成長と共に、当時、
この地域は公害問題による、大気汚染問題が深刻な社会問題になっていた。
この大野川を、厳しい地域の公害対策として、1968年3月に大阪市は、
この川を埋め立て跡地に、高速道路を建設する計画を発表した。
しかし、そこで立ちあがった、地域の住民は道路ではダメ、工場の煙や
車の排気ガスによる大気汚染公害に、苦しんでいた住民の猛反対により、
公害がさらに悪化すると、反対する住民運動の中で、住民らは、大野川を
埋め立てた跡地を、住民憩いの場として、緑地帯にするよう求めていた事を
受け、大阪市は、地域住民からの声を受けて、高速道路建設計画を白紙撤回し、
環境改善にもつながると、1971年から1972にかけて埋め立てられ
大野川緑陰道路が建設されることになった。
そして、住民がつくった、緑のうるおい空間として1979年に完成し
緑陰道路が生まれた。
この緑陰道路は、歴史も古く、今は西淀川のいこいの場でもある。